葛河思潮社 第五回公演 『浮標』

 舞台は一面の白い砂だ。

 砂にめりこむ足。踏みしめても足元が崩れる。その足跡。(その疲労。)それははっきりと、シンプルに目に示される、苦しみの重力だ。

 久我五郎(田中哲司)の妻美緒(原田夏希)は、貧しい人たちの託児所を設立するために精根使い果たし、重い結核となっている。その寝椅子(静臥椅子)は美緒ごと下へ下へと沈んで、今にも砂に消えてゆきそうに見える。久我五郎は才能ある画家で、画家の党派や政治に与しないためにその貧乏は極まっている。彼の志は高い。しかし、妻の病、迫る死、それにまつわる金、家族、絶望、一切が厳しい重力の中だ。つらいなあ。つらいよ。

 駅で雑踏をながめていると、この人々の殆どすべてが殺されることもなく生きて死に、その一人一人の「死」にまつわる物語は、各々とても重いんだなーと考えることがある。三好十郎は自分にとってとてつもなく重かった妻の死を、一字一字碑銘を刻むように書く。三好の筆にかかると、死にゆく妻の希いは託児所の子供たちの成長として叶えられ、子どもについて子のない小母さん(佐藤直子)と美緒が語り合うシーンはとてもやさしい。重力に抗して積み上がった見えない碑が、しゅうっと、さらさらと砂をこぼす一冊の詩集に収れんしていくところは鮮やかで、ここが「時代の潮目」である。

 逃れられないものとして妻の死を宣告され、重力にくずおれる田中哲司の芝居は迫力がある。その絶望がとても近い。自分のもののように感じられた。

 これら重力にさらされたこの世のあらゆるものの中に響く京子(中別府葵)のアルトの蠱惑的な歌声が、二度と帰ってこないこの一瞬として、とても美しく聴こえる。