『ウィンストン・チャーチル/世界をヒトラーから救った男』(2017)を観ると、世界のあまりの単純さに目を疑うようなシーンがいくつも出てくる。徹底抗戦を叫ぶ地下鉄の乗客たち、その名をメモして演説に使うチャーチル、作戦はうまくいき、ダンケルクのイギリス将兵は救われ、一方でおとりのカレー守備隊は壊滅する。
我々は決して降伏しないというチャーチル同様、敗色が濃く、兵隊は飢え死にし、軍自身が民間人を見捨てた帝国陸軍もまた、決して負けを認めようとしなかった。ジョー・ライトの世界観はとてもシンプルだが、それに負けず劣らず、というか完全に勝っているシンプルさで、『トリッパー遊園地』は作られている。
たとえば遊園地の観覧車の鉄が、「徴収(集)」されると登場人物は言う。それは昭和18年の金属類回収令のことだろうか。人々はそれを「供出」と呼んでいたはずだ。この「徴収(集)」という言葉は、作者が為政者にとても近く、同化した立場で作品を作り、かつ、あまり調べもしていないことを表わしている。上から見た戦争は、ロマンチックで、恣意的で、好きなように「悲劇」を摘み取って美化し、話のタネにできる。男女関係だけ都合よく現代だ。ご都合主義というのだろうか。
作者の思い(みんなに見守られ、ロマンチックに、悲劇的に、誰かのために、死にたい)を代表して、ショウヘイ(辰巳雄大)は「花道」を通って死に就く。辰巳雄大がいい芝居をすればするほど、独りよがりの、暗に人に死ね死ね言う嫌な話になっていく。ここがこの芝居のほんとうの悲劇だ。