てがみ座第16回公演 『燦々』

 大きな劇場にかかっているのが、まざまざと見えるような作品だった。品もあるうえ、格も備わる。てがみ座の人々が懸命に頭上に支える『燦々』は、いつかふわっと浮き上がって飛び立ちそうになっている。

 この再演(リブート?)版では主人公お栄(前田亜季)の想う渓斎栄泉(川口覚)が少し後ろへ退いている。その分父北斎(酒向芳)は前に出て、生き生きした。小兎(こと=石村みか)、みね(野々村のん)、霧里(速水映人)ほか、女たちも陰翳がくっきりしている。

 ざんねんなのは品格の「大劇場っぽさ」が過ぎて、終幕が「ありふれたの」「よくあるやつ」になりかけているところだ。最後に「自分であること」を知り、受け入れるお栄のシーンが凡庸。同じ世界を目指す父と娘―前夫(等明=箱田暁史)と元妻―恋人と自分自身のシーンが長く、ひねりがない。それを一言で言い表す的確なキメの台詞、或いはその応酬が、あればなー。最後水飛沫を浴びたような気持になりたい。「大劇場でよく見る様な」ではなく、この一作にしかないものが要る。これってお栄の画業の悩みと一緒かー。「女であること」「それをひきうけること」は、なかなか短く端的には言い切れないのかもしれない。前田亜季、頑張っているが、たとえば、蘇芳、緋、猩々緋という言葉が口慣れていない。「お茶」「靴下」「楽屋」くらいの感じで出ないと。火事→じっとしてられないってとこが大切。いろいろ本を読むように。川口覚、怒鳴り声が突然チンピラみたいになってしまう。ここ演技が途切れてる。それまではお武家上がりの放蕩画師なのに。

 手をいっぱいに伸ばして俳優たちが支える『燦々』を見上げる。指が日に透けて赤い。白い光がまぶしい。わたしももうちょっと、「自分であること」考えないとなー。