こまつ座 第135回公演 『日本人のへそ』

 父親たちが、冬は都会へ出稼ぎに行き、夏はその失業手当をもらいながら本業の農作業に精を出すところ、日本のチベット、貧しい東北の寒村から一人の娘(小池栄子)が、東京へと集団就職で出て行った。美しさが仇をなし、娘は次第に場末の町に移り、職業も人の蔑むものに変わっていく。浅草のストリッパーヘレン天津となった娘は、やくざ、右翼、政治家の思い者に上納されてゆき、身の上が一変する。その物語が吃音症治療の一環として芝居に仕立てられ(言葉に出され)、演じられる。

 この芝居、『日本人のへそ』っていう題名なのに、作劇としては注意深くフラットに作られている。軽重や高低がない。井上芳雄小池栄子もスターの扱いを受けず、「一座の人」って感じだ。東北の貧しい生まれであることもゲイであることもレズビアンであることも、スティグマミソジニーホモソーシャルも吃音であることも、「言葉」を使わなければそんなに明らかになる事柄ではない。ストリッパーが権力の中枢に入り込む構図は「へそ」かもしれないけど、禁忌――暗黙の了解――もまた「へそ」だよね。言葉は軽重高低上下をつくる。見ただけではわからないことを教える。愛を告白し、心の中をみせる。沈黙したまま消えて行く筈だった女の一生を語る。

 芝居がまずい人は一人もいず、皆集中して全力。(朝海ひかるが一回とちりましたが、)力を抜かないのでどのシーンも面白い。しかし、力を抜かないのでフラットさが退屈。やっぱこれ芝居かなり古いなあと思っちゃう。ゲイ、レズビアンスティグマ、どれも扱いが繊細じゃないもん。

 小池栄子踊り「見せて」ない。朝海ひかるに目が行く。「見せて」るから。服を着てる時も「身体」を意識する。「身体」にさざなみ立つ感情が現れてない。からだが芝居してないのさー。