新宿ピカデリー 『キネマの神様』

 「香港映画みたいな人がいる」

 「え」

 レストランで振り向くとそれは沢田研二であった。えー沢田研二ー。幼稚園の時好きだったタイガースー。とその時私赤くなってたと思うけどそんなことはどうでもいい。それは12、3年前、沢田研二は恰幅のいい(ていうか太った)香港のフィルム・ノワールの人みたいだった。てか、『インファナル・アフェア』のアンソニー・ウォンエリック・ツァンを足したような人に見えた。品もいい。

 で、『キネマの神様』である。んー、沢田研二、自分のダイヤグラム(ほらほら、『東京物語』で大坂志郎が線引いて電車の時刻見てるやつ)どこに線引いてる?「ジュリー」?「勝手にしやがれ」?駄目だよ、あのステーキ屋の「フィルム・ノワールな俺」に引かないと。何か耐えてるみたいで暗いもん。小津の映画では列車は必ず一方向へ無情に通り過ぎるけど、山田洋次のこの映画では、電車は「奥」と「手前」に走り抜け、70代のゴウ(沢田研二)を引き裂いてゆく。「過去」と「今」、「今」と「来るべき死」、時間は残酷だ。小津の紀子が「ずるいんです」と泣いたように、「過去」はどんどん遠ざかり、「(ずるい)私たち」から引き剥がされて、とても遠く、とても近い。若き日のゴウ(菅田将暉)は映画監督をめざし撮影所で働く。映写技師のテラシン(野田洋次郎)とゴウは友人だが食堂の看板娘淑子(永野芽郁)を同時に好きになってしまう。ありがちな話で、どこにも新味がない、ただ山田洋次の技で見せる。ソール・ライターあからさま。ギャンブル狂になった老年のゴウとテラシン(小林稔侍)は再び出会い、束の間の時を共にする。この作品一番驚いたのは大女優役の北川景子だ。体が生き生きしていて好感持てる。最初の「ハーイ」が失敗してる以外は合格。永野腹筋鍛える。声が弱い。