彩の国さいたま芸術劇場 『ORLANDO  オーランド』

 オーランド(宮沢りえ)は、イギリスの大貴族の息子だ。彼は何百年もの年月を、胸に一冊の詩稿を抱いて旅をする。途中、男から女に変わり、遺産を失いかけたり子供を産んだりもした。しかし、そこには大きく触れられない。オーランドが一人の「詩人になろうとする者」として横切っていく世界が、さまざまに物語られる。オーランドは一人であって、実は一人でない。ある貴族の家系のたくさんの面差しの似たオーランドたちを表している(原作の挿絵をみてほしい)。V・ウルフの原作は、魔法の不思議な角笛みたいなのだ。そのことをバイオリンが示す。高音の(ここが違和感)声でバイオリンは鳴る。一直線に、時間が先へ先へと進むように。けれども。なぜ女になったオーランドの結婚相手が谷田歩(ボンスロップ)なのだろうか?谷田は全編通していつもより優しい声でしゃべり、男らしさを極力抑えている。しかし、原作から見るとウェンツ瑛士の方がとても似つかわしい。これは、この芝居のプロジェクトのではなく、芝居のオーランドの選択ミスなのかな。男っぽい男、を選んだことで、「現代」のオーランドは崩れ落ちた世界の中にいるのか。または、少年オーランドが「異族の首」にちゃんばらを仕掛けたことにすべての種子は胚胎していたのか。この改変の意味が分からない。

 オーランドの心を激しくとらえたサーシャが出てこない、ということは、愛の表現は宮沢りえが一人でふくらまさなければならない。ふくらんでないよ。V・ウルフは、愛には二つ顔があるという。白と黒、滑らかなのと毛むくじゃら、だったか。ウェンツの演じるハリエットに対して、オーランドは欲情し、その欲情を否定する。そのことは芝居に現れないとダメ。この二つ、『オーランドー』では大事な箇所なのに、するっといっててよくない。ハリー大公(ウェンツ瑛士)の愛が本物で、台詞に真情がある。しかし泣きすぎ。河内大和のエリザベス女王の威があって奇妙という造形が素晴らしく、そこへ手洗いの鉢を差し出す少年オーランドもキマっていた。ウェンツが時間の線を歩いてゆくシーン、あれ、要る?オーランドの世界を現代の苦悩につなげようとする終幕はちょっと強引では。