あうるすぽっと 木ノ下歌舞伎 『桜姫東文章』

 ケータイの画面の中には、深い深い海、乾いた水が静まっている。そこでは四六時中見えない雨が上から下に降っていて、その重力の雨のせいで誰もが合羽を着なければならない。

 劇場は水のないプールであり、繁栄した後に干乾びてゆく都市を表わしている。ここで生きてゆかざるを得ない若い者、かつてここに生きて沈められた若い者が、二重写しに見えてくる。

 この作品でさ、一番いいのは、「歌舞伎の動き」が、まるでワイヤーで作った人形のように、役者の身体の芯でとらえられてるとこだ。石橋静河も古典を大事な勘所で捉まえている。ごうかーく。もっとたくさんこういうシーンを作ったらよかったのに。

 芝居は、「西洋の身体」(現在の私たち)と「歌舞伎の身体」(過去の私たち)の合間をすり抜けて、「違う身体」「新しい、どちらの身体にも拠らない言葉」を探そうとする。序盤、表情なくぽつぽつ呟かれる台詞が、とても清新で、身体は固まってなくて、生まれたての「赤ちゃんの魂」のような、形も自意識もない新しさだった。けどさ、この表現で3時間はきつい。きついっていうか、ない。もう一つ工夫がないと。桜姫(石橋静河)の欲望のカタチが「男と同じである」という発見、沈められ続けて決して浮かばない権助(成河)が、吉田の家の重宝、都鳥の一巻を身に着けているのが、まるでセックス(陽物)の象徴のように見え、(「下から上へ」というと、浮かび上がれない男たちにはセックスしかなく、)その原理を扱う石橋の結末はいいんだけど(もうちょっときっぱりしててもいいよ)、ずーっと現れるもう一人の白いバッグの女(安部萌)の演出がすごくわずらわしく「ノイジー」で、悪目立ちにしか見えず、所詮男の人にはジェンダーがうるさいのねと思ったのだった。