博多座 二月花形歌舞伎 『夢見る力』 特別舞踊公演

 花道がシャリリと開いて、猿之助が紋付き袴で舞台へ急ぐ。右手でマイクを持ち、左手を左の腰辺りに添えて、威儀を正してご挨拶する。コロナで一ヶ月の博多座興行が14日になったこと(『新・三国志』ね)、1000回の稽古より一回の本番の方が役者を育てること、各所の協力で今回の若手舞踊公演がかなったこと、教えるのが難しいこと、等々、笑いをまじえて(「わたしが出ない公演なんてね…」)簡潔に話し、観客に感謝して終える。5分。

 ひとつめの演目は、『春霞歌舞伎草子』といい、長谷川時雨がつくったんだって。ハセガワシグレかー。ググってみて。キレイだよ。美貌の作家だ。伝説の美青年名古屋山三(中村福之助)が、幽霊になって昔の恋人出雲阿国のもとに現れるという筋。朱傘を差し掛けられた阿国(坂東新吾)とお供の十人がゆっくり踊りのふりをそろえてすると、春の活人画(舞台は山台を設えられた桜の春なのだ)のよう。舞台近い花道の阿国は、すんごい自分に集中してる。矢印が全部内側向いてる。京に着いてもあんまり矢印変わんない。いつ桜や春が入り込んでくるんだろと思ったけど、口元をゆるめてふわっと笑顔になったとき、もう春だったのかな。対する中村福之助は、なんか、「手」がものすごく目立つ。もしかして、「指先」に、すんごい気を付けてない?そこが浮き上がって見える。若く、凛々しくていいけど、なんか遠慮を感じる。(次の演目『悪太郎』では、声量がいまいちだった。喉で押さえてる感じ。どうした。親にバンジージャンプやらされたんでしょ。「きびしくされた」ことより「バンジージャンプまでやった俺」にポイント置いていきてったほうがいいよ。なかなかいない、そんな人。すごいよ)「遠慮」してる人と「自分に集中」してる人、二人は春の都でつかの間出会う。宙乗りして去っていく福之助をさみしい顔で阿国は見る。ここが!観客が人生体験を全部放り込み、映画やテレビの疑似体験まで思い起こせば悲しいけど、ちょっとあっさりしすぎ。満都の紅涙をしぼらずしてどうする。悲恋ものもうちょっと研究した方がいいみたい。

 『猿翁十種の内 悪太郎

 悪太郎(市川青虎)は飛び跳ねながら(飛び六方ですか、)花道に登場し、複雑な具合に二重に描かれた不思議な眉毛をひくひくと上下に動かす。酔っているんだね。薙刀は斜めに傾いで支えられているけれど、そのななめがぴしっと「生きて」いる。青虎の真剣と気合が伝わってくる。大きな薙刀を、「酔っている」気配を持続させながら、頭の上でまわす。立って回し座って回し、なんていうか、正確なショット(?)を心がけている。清らかな踊りを踊る(拍手が大きかったよ…)通りがかりの修行僧智蓮坊(市川卯瀧)がすんごい迷惑してにげさったあと、こんなに酒の上の悪い悪太郎をおじ(中村福之助)と太郎冠者(市川團子)が懲らしめる。頭と髭を剃ってしまうのだ。さっきまでの正確さを求める律儀な感じが最後の山場でふっと消え、(あ、乗った)んだなとわかる。いま、ここにいるという確実さより、つむじ風のようにくるくる旋回して聴こえる音楽の舳先にいる。つまり踊りの突端だ。ここからはどんな踊りも宙に浮いて見える。これ、最初からできたらいいのにね。