TOHOシネマズシャンテ 『せかいのおきく』

『さまよえる人々』(1995、ヨス・ステリング)って映画あったよね。肥溜め出てくるから思い出しちゃった。あの中に出てくる肥溜めは、さむさと、何かしらの苦痛と、不潔さと腐敗と死と絶望が匂ったのに、こっちの『せかいのおきく』の肥溜めは、ぼうっとしてて、瞳孔が開いてる人みたいに何にも言わない。「サーキュラーエコノミー」が主題だったら、さいごはちょっと「ふかふか」に、親しく、あたたかく見えなきゃダメじゃない?それなのに江戸時代のえげつない身分制とかはけっこうゆるゆるに描かれて、世間が「ふかふか」。ああ、世の中が「糞」なんだ、とおもうけど、そうだとしても仕立て方がよくわからん。糞尿をカラーで撮って、まるごと真正面から映したところで、糞尿が写っているとは限らない。監督が映したかったものは、なに?

 おきく(黒木華)と中次(寛一郎)の恋で、いいのは御不浄のひさしの下で雨宿りするやり取りだった。矢亮(池松壮亮)と中次に対するおきくの区別が、その後のことを暗示する。けど、おきくが習字のお手本に「ちゅうじ」と書くとこ、あれ、どう考えても、まだ乾いてもいない字をぱっと両手で隠して、その上に上半身を伏せるんじゃない?秘密だもん。こころのないからっぽのマンガみたいでした。そして、身振りで中次が心を伝える大事な場面、雪が桶のうえにあんなに積もるのに、中次は同じ身振りで工夫もなくなにをしていたの?時間の観念が変。

 この映画で一番いいシーンは矢亮が天秤棒を担いだまま、おきくの大変だったことに言及するあたり。池松のこみあげる涙がリアルでいい。しかし、せわしくおきくに目線を当てたり下に落としたりするのが少しうるさい。

 昭和の中期には、肥の出来を見るために、口に含んでみるお百姓もいたということだよ。矢亮と中次、どこかに秘密を持つ二人、だんだん糞尿と親しくなるところを、もっと丁寧に見たかった。さいご、ちょっと理に落ちる。