新国立劇場小劇場 『エンジェルス・イン・アメリカ』第一部「ミレニアム迫る」第二部「ペレストロイカ」

 棺が一つ舞台に置いてあり、房付きのビロードのような黒っぽい幕がかかってる。その脇にろうそくがぽつんと、白い芯をオレンジ色に透かして灯る。幕は案外と雑にかけられていて、次から次へと矢継ぎ早に死ぬ、たくさんの死者を思わせる。

 わたしたちは棺の中に居る。

 舞台には二重のプロセニアムアーチがあり、幻想と現実のように、思い出写真の額縁のように見える。

 プライアー(岩永達也)はエイズに感染した。彼の肌にはもう、エイズの「カポジ肉腫」が現れている。裁判所でワープロ係として働く彼の恋人ルイス(長村航希)は、エイズだと聞いて腰が引ける。まず愛が失われるのを観客は見る。決してゲイだと認めない法曹界の実力者ロイ・コーン(山西惇)も、エイズに感染する。彼は生きている意味の全てである「権力」を喪い始める。主婦ハーパー(鈴木杏)はヴァリアム中毒で、夢の中で夫ジョー(坂本慶介)が同性愛者だと知る。信頼が消える。夢と現実がまじりあったまま、プライアーとコーンの病勢は進み、人間関係は複雑化する。滅びと死、紀元2000年を目前に、暗い予言が実現していくように感じられた。第一部、不吉なような喜ばしいような恩寵、特別なことがプライアーを訪れる、ってとこまで真面目にみて!さあ!二日目(第二部)だ!あのさー、この芝居、意外と空席ある。それが謎。演劇は一見盛んだけど、それはみーんな「推し」を見に来てる人で、「芝居が好き」な人は減ってるのか。どこだ。芝居好き。確かにキラッキラの人は出ていないかもしれない。しかし、全員が、歯磨き粉のチューブをぎゅっと絞るような演技をする。長いし、合間に挟まれる奇妙な幻想の落ち着きが悪い。ハーパーが極地を訪れるシーンなど、心のどこへ納めていいか、さいしょわからない。途中で、ああこれは現実がぐんにゃり曲がったうえで線描きになる、額縁の向こうのカートゥーンなのだと考えるとぐっと見やすい。第二部は素晴らしいのに第一部はそれより落ちる。第一部で岩永は「アンドリュー・ガーフィールドに似てる人」で「それなのに声が割れてる人」である。ハーパーは勘がよく、強い予感のあまり「鬱」に陥っているのに、鈴木の「鬱」が重くない。山西は「えらそう」がぶつ切りで、坂本は野望が足りず、長村はエイズへの怯えが薄い。

 愛、信頼、絶望、恐怖、渇望、信仰、執着、苦悩、終末感、人間の抱くあらゆる感情が世界を覆い、そして一つの棺に収れんする。岩永、感情がこみあげてくる位置が正確。そのせいでか、宇宙の収れんと拡張が同時に感じられる。あと、「待て」っていうコーンの台詞の訳、なんとかならない?