紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA こまつ座 第147回公演「昭和庶民伝三部作」第二作 『闇に咲く花』

 小さくひとすじ、音楽が鳴り、それが生で演奏されるギターの独奏だとわかる。音楽は舞台の内側に聴こえていて(神社の境内でただギターを弾く人だと台詞で説明される)そして舞台の外、観客の私たちの耳に届いている。ギターの演奏(水村直也)は、つぶやくように、まるでとても悲しいように、それともとても明るいように、とぎれとぎれに5人の女が祭りのお面を作る工場のある、小さい神社の上を流れてゆく。宮司の牛木公麿(山西惇)は、一人息子を戦争で失っている。いまは「神様はお留守」なのだと言い切り、この愛嬌稲荷神社で、神社の備品をお米に換えてその日ぐらしをしている。と、そこへ、戦地から息子の健太郎松下洸平)が戻ってくる。浮き立つ工場の戦争未亡人たち、喜んで迎える健太郎の親友、神経科医の稲垣(浅利陽介)。しかし、健太郎には戦犯の容疑がかかっていた。

 「わすれる」とは、連続性を見失うことかも。人の好い神田警察署の鈴木巡査(尾上寛之)は、実は盗聴をしていたのであり、彼の身を振った先が、「太鼓」を鳴らすかもしれない場所、公麿と非常に近い場所だというのも、けっこうこわい。忘れるな、忘れるなと井上ひさしは言う、後半、彼は真顔になり、真剣な成り行きを、笑いでまぜっかえすこともしなくなる。それも連続性なのかな。鈴木巡査の後任吉田巡査(阿岐之将一)は築地署から来たんだけど、築地署っていえば、小林多喜二が殺されたとこじゃないの。ほんとは、すべてのものが連続している。笑いと涙、昼と夜、生と死。目を凝らして見つめる生と死、そのうちに、どの人が生者で、どの人が死者なのか、判然としないところへ、観客は連れ出される。だって、鎮魂のために途切れず鳴らされ続ける音楽が、劇場後列の私の耳にも聴こえるのだから。

 女性5人(増子倭文江、枝元萌、占部房子、伊藤安那、尾身美詞)ユニットグループみたいで、さぞかし稽古したろうと思う。しかし、声がかすれちゃいかん、増子倭文江、過去の自分のノリで大声出しちゃダメ、今できる今の声、嗄れない幅で勝負する。出来るはず。占部声聞こえない、阿岐之、尾上寛之の真似うまいね、でも遠慮しすぎ。