ユーロスペース 『福田村事件』

図式。日本人が国を奪い、その民を虐殺する朝鮮から帰ってきて、福田村で百姓になると決意している元教師澤田智一(井浦新)は、いつも画面の端にいる。空白の心を、それは示す。んー、そうだね、でも実のところ、そうした仕掛けは心を打たない、それよりも、地面に鍬を入れる智一の躰、打ち当たる鍬の激しさが、なんだか、暴力の根源を表してるみたいで震えた。生きること、食うこと、そこに暴力は巣食う。生きることの中にすでに暴力はある。映画はそのことをはっきりいわない。田舎の何十年も変わらぬ顔ぶれで生きていく、そのタガをはめられたような、意識されない苦しみをそっと提出する。苦しみはじわじわとしみだして息子(内田竜成)を支配したい母(辻しのぶ)となり、舅(柄本明)と関係を持つ若い母(向里祐香)となり、夫の留守に渡し守(東出昌大)と寝る豆腐屋の嫁(コムアイ)となる。世界の軋みが村人の膝の上に、一枚、また一枚と重石を載せる。そこはいいの。よくできてる。けどね、村の広間で酒宴が開かれ、それぞれがこもごもかたるところ、あんまり見取り図みたいだよ。もうちょっとうまく運べなかったの?女にもてる渡し守の東出、「味方に殴られるために行った」実感足りないよ。千葉の新聞記者(木竜麻生)、豆腐屋の嫁のコムアイ、どちらも硬質な美しさだけど、映画の撮り方が表情ある柔らかい人向きのやり方だ。しばいしろ(顔を動かせ)っていうのは簡単だけど、硬い顔にも「撮り方」あるんじゃない?新聞社のくだりも図式的。それと「鮮人ならころしてええんか」とさけぶ行商の新助(永山瑛太)の憤怒の顔、ばしっと撮ってほしかった。あと幼児を怖い場面で使わないで。トラウマがしんぱい。井浦の台詞が説明台詞に堕してなくて、いい。その妻静子(田中麗奈)、芝居の幅が狭いよ。激しいストレス(それは国から、村から加えられる)で、横目で他人を監視しながら生きる日本の村人が、互いに火をつけあって狂躁状態になり、「よそもの」を殺す、今までに見たことのない映画だった。最後に入る音楽が剃刀の切れ味です。