読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ドーナル・ラニー&アンディ・アーヴァイン Never Ending World Tour 2017

 ポーグス、エンヤ、チーフタンズアイルランド音楽を飛び石みたいにしか聞いたことがない私でも、ドーナル・ラニーの名前は知っている。

 ギリシャのブズーキという楽器(洋ナシを半分に切ってそこへ弦を張ったようなかたちの楽器)を取り入れ、背面がフラットな、アイリッシュ・ブズーキで知られた人だ。

 1972年に結成されたバンド、プランクシティや、ボシィ・バンドで活躍し、今も現役です。今日はそのドーナル・ラニーが、プランクシティでも一緒にやっていたアンディ・アーヴァインとライヴを行う。4月2日、前日の寒さも少し和らいだ午後。3時の追加公演の回。

 まず、日本でアイルランド音楽をやっている若いバンド、ジョン・ジョン・フェスティバルが演奏する。ギターとフィドルとバウロンというタンバリンと太鼓の中間のように見えるもの。片側だけに皮が張ってあり、ブラシのようなスティックでその上をはたく。反対の手でバウロンの音色を変えているみたいだなあ。フィドルのジョンは女性、フィドルは単色の地声で大きく早く鳴り、時々すばやくひるがえる。簡素な白のワンピース、ウェストまで小さいクルミボタンがたくさん並び、フィドルと反対側の耳に、白い羽根のイヤリングが下がる。前髪がつやつやと光るのをながめつつ音楽を聴く。バウロンにもフィドルにも負けずギターの音も聞こえる。スナフキンみたいな帽子をかぶった若い人。やすやすと指を動かしている。日本にもこんな人たちいるんだなぁ。緊張しつつも楽しそう。バウロンの足元でチャイムのようなキラキランという音がする。Sally Gally、加速。太鼓とギターで盛り上げる。フィドルの弓の馬の毛が少し切れて照明に光る。数曲で彼らはさっと引き上げ、ドーナル・ラニーとアンディ・アーヴァインが現れた。ドーナル・ラニーは薄い色のジーンズとそれに合う水色のTシャツ、アンディ・アーヴァインは黒のシャツの下に赤い字のロゴのある黒のTシャツを着ている。ラフ過ぎない?ていうか寒くない?初めて聴くブズーキとギターから、おそろしくきれいな音がして、見た目とのギャップが大きくてびっくりしている。その上ふたりとも、日本語で解説してくれるのだ。きつねの出てくるおとぎ話です。とか、彼女がほかの男に行っちゃった悲しい話。なんていう。その悲しい話は、アルペジオが下降してくると、日が陰るように感じる。行く手の道にゆっくりと雲がかかるみたいな。主人公の男の心もそんな風に翳るのね、と思うのだった。それから、東ヨーロッパのダンス曲。「16分の11拍子です。」うーん。ぽつぽつと降り出した雨が激しくなるような曲でした。低音が響いてくる。どんなダンスだ。一瞬の休止、そして上昇してゆく旋律。どんなに激しく踊っても、このダンス曲に見合わないような気すらする。

 ブズーキの上で、ドーナル・ラニーの左手は、速く、軽く、しっかりと絃を弾く。よく見ると、何があってもブズーキの面は一定に固定され、あまり動かない。奏者が揺らせば別だけど。

 アンディ・アーヴァインはハーモニカを吹いたりギターを弾いたりブズーキを弾いたりしている。あの中にマンドリン(マンドーラ?)もあったのかなあ。二人とも「民謡だな」と思わせる生活に近い寂びた声で次々唄う。呪文のようなゲール語の歌もある。

 やさしく鳴らすとブズーキはルネサンスの楽器みたいに見えるけれど、早くなり、はげしくなり、中からアイリッシュ・チューンが立ち上がる。彼女を置いてアメリカに渡った男。二度とアイルランドには帰らなかった。映画『ブルックリン』の、アイルランド人労働者のためのクリスマス食事会のシーンを思い出した。年を取って疲れたアイルランドの男たち、あれは帰れなかった人たちだったんだなあ。なにか言いかけてやめるように曲が終わった。

 プランクシティの曲も弾く。手足でリズムを取りたくなるような曲、2人の男が戦争に誘われて断る歌、って言ったかな。体の中に太鼓があって、その太鼓が目を覚ますみたいだった。誰も踊らないけれど日本人的には十分盛り上がってます。クライマックスは男に裏切られた女の子の歌、僕たちこの曲100年やってます。と言って笑わせる。始まった途端、100年やってるだけのことあるやん!と胸に叫ぶ。曲の中、歌の中、楽器の中に嘆きの核心が潜んでいる。素晴らしいです。手拍子しないのかあ!ともう一度胸に叫んだ。

 次にアンディが、ウディ・ガースリーに捧げます、と言って、ファシストは消え去る、というリフレインを日本語で観客に歌わせてくれる。なんだろう、この安堵感。ここにいる人がみんなファシストを嫌っているというかすかな連帯感と、ファシストがほんとに消え去るような希望を感じた。ドーナル・ラニーもアンディ・アーヴァインも、もうTシャツでブズーキを弾く人、というより、楽器の従者、お供のように見えてきた。楽器がアップで目に映り、繊細そうにぴかぴか光を放つ。

 最後にジョン・ジョン・フェスティバルがもう一度登場して一曲。人数多くて、迫力がありました。

劇団黒テント第76回公演 『亡国のダンサー』

 一人の男「わたし」(服部吉次)が大きな机の上に軽く手を触れる。「降りやまない雨、」と彼は言う。倒れている「わたし」を描写する。「わたし」は顔の間近に雨粒の跳ねるのを見ている。雨粒のダンス。浅い傷や深い傷、彼は動くこともできず、失血し続ける。

 この話、さっぱり分からなかった。「わたし」は複眼のように思われ、変容する。大化の改新乙巳の変)、中大兄皇子中臣鎌足が当時政事をほしいままにしていた蘇我入鹿を儀式の最中に殺す。また、理事長(宮小町)と呼ばれる女がαpoint60Fと呼ばれる後嗣を育てている近未来がある。そこはどうやら高層のビルらしく、ダクトを伝って作業員たちが、ある計画に駆り出されている。近未来のこのビルの一室で、「わたし」は証人(平田三奈子)にこの人を知っているといわれ戸惑う。「わたし」のいる部屋に、姉(中島亜子)と名乗る女、弟(芹澤悠)と名乗る男、祖父(愛川敏幸)と名乗る老人がやって来る。

「わたし」は誰のことも知らない。「わたし」が「わたし」である証を立てるために、「わたし」は辛抱強く、何度も、小さな電子機器の入力コードに、個人の情報を打ち込み続ける。「わたし」は容易にこの作業を他人にゆだねない。近道や安易な方法を注意深く避けながら、「わたし」は扉を開ける。コンピューターの機械同士の闘争に巻き込まれる「わたし」、「わたし」はあの日部屋から外を見ていて(家族を持ち)、また、部屋の外からカーテンを見上げていた「わたし」でもある(つながりを持つ)。視点のジャンプ。「わたし」はあの時殺された入鹿として血を流し続け、雨粒の跳ねを見守る。その雨の踊り。こうして書きながら、私もまた「わたし」としてこの芝居に巻き込まれているのを感じる。私にはこの芝居がわからないが、私の観た芝居はこのようなものであった。

新国立劇場中劇場 『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』

 香がたきしめてある。それともこれは花の香りなのか。外気の冷たさにすくみ上っている身体を、ゆっくり緩めてくれるようなショパンが流れている。舞台には赤い幕が襞深くかかり、照明がその幕の上に、桜の花を濃淡二色で浮き出す。背もたれに凭れながら、誰か佳人のお宅に来たみたいだなーと思う。源氏ゆかりの女の人の家のことなど、考えてしまうのであった。

 一転、弦楽の現代音楽。暗く、奇妙な舞台が、目の前に開ける。ダリ。上手で時計が溶けて木に引っ掛かっている。その隣にドア、舞台中央奥に、三日月を背負う豪華な着物が衣桁にかかり、その手前に光琳の流水模様のカバーをかけたこれも豪華な大きなベッドが置かれている。電話を置く台は女の彫像、ダリ風。下手のソファも溶けた時計、この病室に主人公の源氏たる若林光(木村彰吾)は、病に苦しむ妻葵(今泉舞)の様子を見に来ている。実は葵を苦しめているのは光のかつての恋人六条康子(美輪明宏)の霊なのだ。時間が柔らかくなって溶け合い、物のあやめの知れなくなるところ、三日月の着物のちょうど月のあたりに、深々と闇が広がり、現れた康子を包む。美しい康子。黒の松の絵のついたコート、小さく光を反射する豪奢な黒いドレス。彼女は光をまだ愛している。しかし、恋はいつか、必ず終わるのだ。その予感がヨットに乗り込む恋する康子をいつもとらえていて、彼女の声や眉宇を曇らせる。

 舞台の奥には闇があり、手前にはリビドーのような、ひな壇のような赤い色が広がっている。光はどこに走って行ったのか。ダリがガラならざるガラを崇拝したように、光もまた、康子ならざる康子、モナリザのような永遠の、終わらない恋、完全な愛に向かって、消えて行ったのかもしれない。

 

卒塔婆小町』観終わって一番胸打たれたのは、恋人を失って、老婆(美輪明宏)が、心から、乙女のようにすすり泣いているシーンである。ものすごく可憐。

 一見、究極の悲恋の物語だ。「あなたはうつくしい」と、恋をした途端、死なねばならない定め。ここにも終わらない恋、悲しいような愛があるように見える。

 老婆と小町の、ギャップが凄い。それでいて、同一人物であることを納得させる。別の詩人が現れたとき、幻想の鹿鳴館が光り輝いて、この物語の持っている冷たさと熱さがとてもよく見て取れる。先ほど死んでいった男が、色褪せ萎れた花のように思えるのだ。

 看護婦たちはじめ三島の硬質なセリフがよく消化できている。木村彰吾の「わかばやしあおい」という科白の声が深く美しかった。

かぐらざかあかぎ寄席NEXT→ 落語「三遊亭萬橘」独演会

 神楽坂、赤城神社。迷いようがない。地下鉄東西線神楽坂駅1番出口を上がって左すぐ。立て看板もたってるし、赤い鳥居も見える。石段を上がりきったところに、大きなガラス窓のカフェもあるのだった。カフェから窓越しにもうつぼみを持った桜の木、蛍雪天神という社、その背後に暮れていく空が見える。えー、すてき。これからここの地下ホールで、落語聴く。「三遊亭萬橘」独演会、開口一番はこないだみたまん坊さんだ。高座に上がるまん坊さんの頭上に、高気圧みたいに上に向かってのぼっていく気流が見える気がする。だめだよー、あがったら、と胸の内で思うのだが、まん坊さんはあがってないみたいに(あがってなかったのかも)きっちり話をするのだった。話は『雛鍔』。

 植木職人のお父さんが、出入りの屋敷の八歳の若様が穴開き銭を知らずに「お雛様の刀の鍔か」と言ったのに感心し、自分の家の金坊も同じようにしつけようと思いつく話。話者によって向きが違うのを(上下切るっていうんですか)まん坊さんが習ったとおり着実にやるのを感心してながめる。植木職人がかみさん(?書いててちょっと恥ずかしい)に羊羹出せというところは、お客さんの前なのでちょっと小声なんじゃないのかなと思いました。うちの子にはおつきの人なんかいないからオアシが遊ばせてくれるんだというおかみさんの道理に納得し、日本伝統の放任主義に感じ入るのだった。

 さて、萬橘さんの登場だ。4月15日の法政OBの落語家の会の話や徳島の結婚式の話やなにやかや。

 粋な黒塀見越しの松、っていうとそれはお妾さんのおうち、と始まる噺は『転宅』。お妾さんに旦那が預けて行った大金を狙って座敷に上がりこんだ泥棒が、お妾さんの舌先三寸でまるめられ、散々な目にあう。好きだなこの話。頭の中で座敷に座る泥棒の、上の方に突き出された煙管の先だけがまず見え、お妾さんのすこしだけ慄えるような心持が伝わってくる。お妾さんがきれいな女なのかどうか、萬橘さんがそこはあまりつくらないのでわからないけど、聡い女なのは確か、うまく泥棒をのせていき、一緒になろうと持ちかけるところもおかしくて、色仕掛けって感じが全然せず、おもしろい。この人たち(って萬橘さんが一人でやっているわけだが)丁々発止でやりあっているみたいでいて、すこぉし、オフビートなのだ。すこしずつ野放図。配線コードの根元からわずかにむき出しの銅線がのぞいているみたいだ。それが萬橘さんの持ち味なのかな。カラスかあと鳴いて朝になりました。という決まり文句(?)も、シンプルな味があってよかった。

 2つ目の話が始まる前に、萬橘さんがザリガニ釣りの話をする。ザリガニが釣りあげられる姿を何気なく座布団の上で伸びあがってやってくれたのだが、その「ザリガニ感」、実際にザリガニ釣りしたひとにしか出せないリアリティだった。自分のザリガニ釣りの思い出も、急激に戻ってきました。

 落語は『らくだ』で、らくだっていうのは話の最初からもう死んでいる乱暴者だ。このらくだに丁の目の半次(当て字です)という兄貴分がいて、長屋の連中を脅してらくだの葬式を出そうとする。この半次にいいように使われるのが偶然らくだの死んでいるのを見つけた屑屋の男。らくだの死体をしょわされて、中国渡りのおどりかんかんのうを踊らされたり、ひどい展開である。いつも上目づかいで腰が低く、おずおずとしている男だが、半次にむりやり酒を飲まされて人格が豹変する。

 らくだは死んでいて、死んでいない。そこがおもしろい。兄貴分の荒いもの言い、死んだと知った長屋の連中の喜びようから少しずつ、少しずつ、死人がよみがえってくるようだ。死人の瞼がぴくぴくするのが見える気がする。最後には屑屋の中かららくだがまた生まれてくる。「いい酒だね。」と屑屋が心からいうと、なんだか萬橘さんがいつも(落語でだけど)いいお酒飲んでるみたいで、(いいなあ。)と思うのだった。屑屋が素面でびくびくしているところから、断りながら酒を飲んで2杯目まではよかったが3杯目に人が変わるところが鮮やか。煮しめを食べるのも、実においしそうでした。

シス・カンパニー公演 『死の舞踏』

 コミック地獄図絵。

 途中、いや、序盤、観ながらちょっと怒っているのである。

 コミックなのかー。

 そんな気持ち。スウェーデンの島にある要塞に、軍人エドガー(池田成志)は妻アリス(神野三鈴)とともに住んでいる。島のお歴々とはうまくやれないため、人付き合いは全くない。エドガーとアリスが、渾身の力を込めて憎み合っているのが、アリスの従弟クルト(音尾琢真)の訪問によって、明らかになっていく。

 池田成志はこの役の描線に、ほんのすこし、まんがの線を入れる。日本の劇画のような感じじゃなく、現実がいつのまにか、フランス漫画みたいな一面しっかり描きこまれたリアルなそれとなり、そしてその端に地続きに単純な線がかすかに入り込む。まんがであり戯画でありスーパーリアリズムである生活、お笑い草でありながら途方もなく深刻な生活、死におびえるエドガーも、夫を憎むアリスも、手玉に取られるクルトも、単調な生活や子供や家族から疎外された暮らしに耐え、憎みあい、来る日も来る日も頁をめくり続けるしかない。

 神野三鈴は「自分(リアル)」の上にかっちり役作りしていて、ぶれがない。音尾琢真は縦横無尽に翻弄され、本分を尽くしている。池田成志の発声が聞き取りにくいこと、つくりだすコミックが多少浮き気味であることが、問題点である。このコミックがもう少しうまくいけば、たとえば映画『セッション』で最後にJ・K・シモンズが真顔で喋り出した時の、行く手の道がぐにゃっとゆがみそうな怖さに届くと思う。

 最初のがっかりは消えて、面白かったと思って家に帰った。

シス・カンパニー公演 『令嬢ジュリー』

 子供の本の作者、リンドグレーンスウェーデン、1907-2002)が、日本語訳されているたくさんの本の中で、たった一回、性的な関係に言及したことがあって、それは農家の主人と女中に関するものだった。その「おはなし」には作者のかすかな怒りが透けて見え、女中をいいようにする主人に、ほんとに腹立ってたんだなと感じる。と、関連するようなしないような話から始めるのは、この『令嬢ジュリー』が、よく解らないせいかもしれない。

 お屋敷のお嬢様ジュリー(小野ゆり子)は婚約を破棄したばかりだ。父の伯爵は留守、今日は農場の人々が羽目を外す夏至の夜である。ジュリーは下男のジャン(城田優)をダンスに誘い、しつこく自分の相手をさせる。

 祭りが熱狂的に盛り上がる一方で、ジュリーとジャンは一線を越える。関係性の変化、「お嬢様」でいられなくなったジュリーは拠り所をなくし、かごを失ったカナリアのように弱い、傷つきやすいものへと変わっていく。ジュリーは身分の枠組み、男女の枠組みに反発することで自分を成立させていたのだ。小野ゆり子の露わになった額には、まだジュリーが子供であることがよく表れている。彼女はどんどん幼くなる。

 気が付いたら裸足になっているという演出がとてもよかった。ジュリーの背景が複雑であるということを示すために、序盤のセリフに工夫が欲しい。権高であったり親しげであったり、冷たかったり熱心だったり、セリフごとに全然変えてもいいのでは。

 城田優のジャンは、登場時に肩が使用人らしく(?)こわばっている。体がほぐれていくにしたがってジュリーに自由に口をきいているように見えた。ジャンの恋人クリスティンの伊勢佳世好演。

東京芸術劇場 シアターイースト 『不信 ―彼女が嘘をつく理由』

 マンションの隣の部屋の夫(栗原英雄)はフィックス、その妻(戸田恵子)はドリー、高校教師(段田安則)は手持ち、その妻の編集記者(優香)はクレーン。なんだか登場人物の視点がみんなカメラで説明できそうだ。四人四様の言い分で芝居は進行するが、どのカメラも万能じゃない。必ず死角を持っている。

 劇場に入ると、舞台面にフラットに当たるブルーの四角い照明を、これもまた四角い、小さめの黒い影が隠している。ブルーは、縁どりにしか見えない。舞台中央に黒いスツールが6つ、四角の影を丸く切り抜いて、そこにだけブルーの光が当たる。これらのブルーとは異なるブルーが、向かって右の舞台端にある大きな棚を照らす。2つのブルーには微妙なちがいがあり、舞台面の方は緑がかっている。棚には写真立て、まるい置時計、フックにかけられたローブが見える。向かって左の棚には花瓶、ステレオなど。一言でいうと、この棚はインテリアショップの素敵なディスプレーである。

 「雨上がりの動物園」。こんなに素敵なのに、そのようなにおいのする隣の家へ、夫(段田)と妻(優香)は引っ越しのあいさつに行く。夫は耐えられず、景色を見るように装って窓を開けるが、妻はまるで感じない風に平穏に振る舞う。ここんとこにもうすべてがあるような。この匂いの沼(と私は感じた)に踏み込んでゆく二人。妻が踏み込みすぎて、優香のかわいさをもってしても、うるさく感じられそうになる。踏み込んでしまうトリガーを、もう少し書き込んでもよかった。

 早く起きた朝、昼下がり、夕暮れ、ふとケーブルテレビで観て、「こんなの観た。」と友人に喋りたくなるような、そんな映画に感触が似る。