彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール 『大塚直哉レクチャー・コンサート オルガンとチェンバロで聴き比べるバッハの〈平均律〉  Vol.2「フーガ」の苦しみと喜び』

 背広の若い人が、丁寧にポジティフオルガンを乾拭きして去った。調律が終わったんだね。チェンバロにもたんねんな調律が行われている。二段になった鍵盤は、弾きこなされたあまり、一つ一つに名前がついてそうに見え、個性が鍵盤一本にも出ちゃってる。つまずいたら思い出が蘇っちゃったっていう、敷石みたいだねー。1990年製。そろそろ30年か。どんだけ練習したんだよと、とても強い畏れを感じるのだった。1990年から今日まで、あたしぷらぷらしてたー。と会場を見渡すと、ぜったい学校には遅刻しませんでした。というような人たちばかり。違和感~。いずい~。(いごこちわるい、東北弁だって。)

 5分押して、暗くなる。大塚直哉先生が登場した。グレーの初夏らしいスーツ。エナメルの黒い靴がぴかぴかしてる。前回が長いコンサートになったので、大塚先生はとっととレクチャーを始めるのだった。今回私がほんとうに驚いたのは、

 例え3歳4歳5歳から練習を始め、曲の構造がぱきっと頭に入るほど賢く、指も心で思うのと同時くらいに動き、難なく楽想を繊細に表現し、人前で演奏するほど胆力がある人々でも、

 「フーガはたいへん」

ってことでした。バロックヴァイオリンの若松夏美さんは「練習すると嵌る」と落ち着いた感じで言ってたけど、「嵌る」って!?「嵌る」ほど熱くならなきゃ、習得できないんだなー。きっと聴いてる家族がちょっとブルーになるほど、浚うんだなー。大塚先生は、フーガが4声あれば4声を、全部うたうのだそうだ。人の書いたフーガを弾くのは、ジャズの即興を再現して弾きこなすようなものだって。フーガ-遁走曲、逃げる-逃げたものを追いかける曲。No.12のへ短調を、先生は当時一般的ではなかった調ですという。配布されたパンフレットをみると、へ短調にはフラットが4つもついてる。ひゃー。そりゃあ一般の人は使わないね。

 オルガン演奏が始まると、なにこの胎内感。静かで安全なのに生まれなくちゃいけない哀しみみたいな。オルガンの左横のツマミを動かす。交錯する昇る音階と下る音階。噴き上げるオルガンの高音。このポジティフオルガンの高音は、時々考えなしの子供の歌声に聴こえることもあるけど、ここではいい感じに哀しい。最後の音、締めの音の前の休符がきれい。オルガンの休符は完全に音が消えるけど、チェンバロの休符は前の音が残ってる。

 虹が消えちゃった、夢だったとオルガンは言い、チェンバロも夢だったというけど、虹のたもとがまだみえる。あっなんかうまいこと言ったような気がしてきた。14番はチェンバロがいいなと思いました。『反行形』(上がる音と下がる音を逆、さかさまにする)で刻む感じ。強く弾くこともできるのだ。

 若松夏美さんの無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番は、たぶん何か意図があってゆっくり弾いていた。現代の大ホールに響きやすい絃とかたちのヴァイオリンとは異なるバロックヴァイオリンは、鋭い音がしない。くぐもる、品のいい音がする。宮澤賢治(あかいめだまのさそり~)の好きそうな音のような気がする。ゆっくり弾く中でも、鋭く弓を動かして、いくつも続けて音が聴こえる。実は果断の人やんと思う。でもゆっくりだから聴く方は音の姿を掴みきれなくて、脳からフレーズがこぼれちゃった。

 このあと大塚先生の15番ト長調が、目の覚めるように鮮やかで、リラックスしていて、完ぺきでした。アンコール、バッハの「ヴァイオリンと通奏低音のためのフーガ BWV1026」を二人で演奏する。若松さんさっきのはやっぱ仮の姿だった。メロディが立ってて、凄みのある音がしていた。次は2月2日、楽しみです。

新橋演舞場 『笑う門には福来たる ~女興行師 吉本せい~』

 「藤山直美が観客怖がっちゃって、ぜんぜん前に出てこない」

 1998年、『寝取られ宗介』。まさか売店のおばちゃんが、耳ダンボにして聞いているって思わないもん。

 あれから20年、私は藤山直美にとうとう再会できました。「こいつやったんか」と言われてるところが目の裏に浮かぶけど、今日もまたなんか言うのだ。

 綺羅星のようなお笑いスターのスライドが、芝居が始まるといくつもいくつも映る。エンタツアチャコミスワカナ玉松一郎春団治、今も現役のスター、「わぁー!」とならない、「儚いなあ」と切なくなる。芸って幻みたいだなあ。こういう、残らないものって、胡散くさいと思われる。それを仕切る商売なんて、なおさらだ。吉本せい藤山直美)は船場の古い商店を畳み、遊び人の夫泰三(田村亮)の望む、寄席の興行を始める。前半の藤山直美は一瞬一瞬の連なりを生き、人物像がはっきりしない。父譲りの瞬発芸で一幕を乗り切る。どんな性格で、どんなふうに変化するのか、「流れ」ができていない。そのせいで、好きな人(冬木信一=松村雄基)の後姿にかける言葉が、いつの間にか子ども(頴右=西川忠志)へのそれに変わる所の凄みが薄れ、ただの「アイデア」になっちゃってる。客席に背を向け、紅梅亭の方を向いたまま、「笑いは生きる力です」っていうとこ、いい。でもさ、「通天閣買おう」と思う女の人ですよ。田村亮はとても面白い役で、最初の親戚に囲まれるところから、脚本にさまざまな面が描きこまれている。も少し軽くやってもいいと思う。この群像劇で巧く「流れ」を出しているのは、林与一桂春団治だった。仁支川峰子がんばった。子供の死を知るシーンの受けの芝居がいい。暗転が長すぎる。漫才(ミヤ蝶美・ミヤ蝶子)面白いから全部はめ込んだらよかったのに。前半なんだか音が悪かった。

東京芸術劇場 シアターイースト 『ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也 プラータナー:憑依のポートレート』

 セノグラフィー=舞台美術のこと。

 あー、はいはい、学がなくてごめんなさいね、でも緊張しながらスマホで調べて、ちょっと笑った。新しい時代の難しい演劇には、新しい呼び名が必要やんねー。

 大体岡田利規という人がよくわからない。それは彼の文章(本)を読んだから。村上春樹そっくりの口吻で愧じるところがない。全然平気。そこがまったく信じられない。今日のアフタートークでは、字幕のもどかしさ(役者の芝居も観たいし、台詞も見たい)を語る観客に、「そう思われたら今日の芝居は成功です!」と朴訥にうまいこと言い、なんのことはない、巧いこと言ってるだけじゃん。

 見る人=見られる人が分かちがたく結びついているように、愛と欲望もつながりあっている。「見る」は出番のない役者から、テクニカルなスタッフから、観客から生まれ、堵列する視線は渦を巻いて舞台をとてもスリリングにする。欲望、自分の陽物を誰かに挿しいれたいという願いは、タイ国の身体の奥深くまで沁みこんだ家父長制の基になり、主人公を、身体をただ折り曲げて、一人で充足する不可能にも思えるポーズへと導く。「私」への愛。たった一つ揺るがないのは、自己の欲望だ。支配、庇護、いったい他人への愛なんて可能なのか。最後のシーンおもった程緊迫しない。生と死のぎりぎり薄皮一枚の所が見えなかった。この芝居は字幕の位置を移動してまた上演してもらいたい。審美的には「あの場所」しかないのかもしれないが、読みにくく、視線が役者から外れる。もう一回本を読んだみたいだった。タイの俳優は皆瀟洒で洗練されている。

 オレンジ色の小道具のくさぐさは、語らない、語れない人々を表わしているのだろうか、言及もヒントもなかったね、教育のない人ほとんど出てこないしね。

ヒューマントラストシネマ有楽町 『COLD WAR  あの歌、2つの心』

 なんでもかんでもすーらすらと口に出し、なんでもかんでも説明し、要するにすごく口の立つ自分が、この映画のことは身内に説明できない。話し始めたら泣きそうでかっこ悪い。映画の中で起きたことが、うまくことばにならない。ラジオでこの映画のことを「説明しにくい」といっていたが、ほんとそう。言えないことってあるんだなー。と、もう結構な年だっていうのに、新たな知見を得るのだった。

 言おうとすると口が震えてしまうようなこと、混乱の余り、喉につかえて出てこないこと、「どうしても言えないこと」が心の底に堆積し、透きとおった川の底の砂利のようにうねって、ある時本人の行動を決定づける。

 亡命する。亡命しない。あるいは、

 恋人を追いかける。恋人を追いかけない。

 ポーランドへ帰る。ポーランドに帰らない。

 若いズーラ(ヨアンナ・クーリグ)の目の中に、白い明りが灯っていて、それは雪景色を映すようにも炎のようにも思われるのだった。「逃げる」ことにズーラは敏感で、彼女の心の川床に何かそれを妨げるものがある、と、映画はちっとも説明しないで観客に伝える。黒味つなぎの静かなモノクロ映画で、ズーラとヴィクトル(トマシュ・コット)のいない場面がほぼなく、本人たちの会った記憶で話が進む。歌も素晴らしい。でもさー。そんなにも運命の女、「大切な女」だってことが、最初のポーランドシーンで伝わってこないんだよね。あとズーラの夫(でてこない)ってのがよく分からなかった。どこにいても居心地の悪い二人は、求めるけれども決して得られない幻のような愛を、どこまでもどこまでも追いかけてゆくのだった。

吉祥寺シアター ロロ 『はなればなれたち』

 ロロ、成長していた。そりゃあ以前観たのは2016年だったもんねー。昔は言えてなかった詩的な台詞をちゃんと一旦体に取り込んでいる。「あなた」と「わたし」、「樹木」と「電信柱」、「過去」と「未来」が、平気で入り混じる混沌とした世界をきちんと演じ分け、「くすぐり」的な細部(たとえば演劇部長〈篠崎大悟〉と演劇部員〈大石将弘〉)もリアリティを持っているのだった。

 誰かが台詞を言うたびに、頭上の青い小鳥(ツイッター社のあれに似ている)のモビールが、きらりきらりと光る。この空間が小学生のものであり、同時に現在の社会であることを素早く納得させる。

 一幕の終りの歌(曽我部恵一)は、この芝居が望んでいる通りの、美しい放物線を描いてやさしく柔らかく観客の胸に届き、サニーデイサービスのことなど何も知らない私は、(こ、この人本物…)と驚愕するのであった。ただ、『はなればなれたち』というこの芝居は彼の歌に負けてるよー。

 私のような関係ない人でさえ、この芝居の幕切れは触ったものが輝くとこだな、泣く。と思うのだが、どうやら三浦直之はそれでは嫌だったようなのである。芝居は二幕で急に失速する。考え過ぎたのだろうか。予定調和の会話が何とも言えず恥ずかしい。とりわけハミングの後きつい。ここ、三浦直之と私の趣味の違いかもしれない。その趣味どうよ。それと、「おたんこなす」とか、死語の台詞生かすのむずかしいよね。

 潮騒(島田桃子)の声のちっちゃいとことてもいいのに、おばあさん(おばあさんと小学生好演、多賀麻美)の膝に倚るとき突然ベテランのようにリラックスしていてちょっと不自然だ。佐倉すい中(望月綾乃)の語りがもひとつ地に足ついてない。板橋駿谷が堂々と、リアルに芝居している。

中洲大洋映画劇場 ナショナル・シアター・ライブ2019 『アントニーとクレオパトラ』

 拮抗する世界。最初アントニーはリゾートのような「私」(わたくし)の楽園エジプトと、灰色のビジネスマン、暗い軍服の「公」(おおやけ)の世界をうまく操ってバランスを保ち生きる。公私の別みたいだね。

 でもちょっと待って、リゾートなの?アジアを侵食した西洋人の悲劇?まあそれならそれで…いいよ。成立してる。でもアジアに対する省察が、も少しあってもいいかも。

 クレオパトラ(ソフィー・オコネド)とアントニーレイフ・ファインズ)の恋は、『ロミオとジュリエット』の中年版にも見える。そのうえ、「女の思い通りになってしまう自分」「嫉妬」「過度ないちゃつき」と、恋愛のこれってどうよと思われる側面を、思い切り見せつける。レイフ・ファインズは、しぼれば簡単に体しぼれる人だろうけど、そうはしてない。しぼらない方が、悲哀が倍増しだ。「私」(わたくし)、「リゾート」であるクレオパトラとエジプトが、アントニーを侵食しつくし、共に滅びてゆく。

 制服―リゾートとわけ、スピーディに二重の回り舞台を動かすことで、芝居は一瞬も停滞することなく、きびきびと進展する。

 シーザー(タンジ・カシム)、口跡もよくていいのだが、オクテーヴィア(ハンナ・モリッシュ)が顔をおさえて悲嘆にくれる時、無理やり体に触るよね。ここ、あれ?と思うけど、アントニーの剣と差をつけてる。でも、オクテーヴィアをなだめる時デリケートでない心的理由づけが少し不足。イノバーバス(ティム・マクマラン)が、アントニーが海戦に打って出るという話の頃から浮かない顔になり、最後の仕儀に至るまでとても説得力がある。蛇が生身で凄い。やっぱり身をくねらせるきれいな蛇じゃないと、あのすばやい決定的な終わりに納得できないよねー。

博多座 『博多座開場20周年記念 六月博多座大歌舞伎』  (2019)

 空梅雨、平日の昼過ぎ、天神をちらちら行きかう夏の白っぽい服装の人々を見ていると、気づくことがある。「今年の流行」を身につけている人が少ない。一度水をくぐった「去年の服」「おととしの服」ばかりだ。目まいのように、一年前、二年前、三年前の夏へタイムスリップする。東京みたいに、服で人品を判断されることがあまりない。「どこかに勤めている誰かの夫」「どこに住んでる誰かの妻」、地縁がまだ東京より濃く、みな服にお金をかけない。そしてなにより、東京に比べると人々は割合均一な暮らしをし、お金持ちが少ないのだ。

 1万8000円のチケット代は、ここでは2万円よりずっとずっと高く感じられる。まあ、みんな2万5000円のチケット(心の中では)買ってきていると思ってほしい。

 ――という六月博多座大歌舞伎、演目は「八重桐廓噺」「土蜘」「権三と助十」。

 なんと私今回前から一列目だった。苦手。目が合うような気がしてあがっちゃう。

 下手の端で幕を開ける合図をする黒衣の人まですっかり見える。黒衣の人が左手で奥へ合図して、下手から上手へ定式幕が開く。そこは御殿。まんなかにお姫様(沢瀉姫=尾上右近)が右手の袖を胸に当て、左手の袖の中に手を隠している。昔の女の人、写真に写るとき絶対しているよね。突き袖?。居住まいを正した時の姿勢かな。赤に刺繍のうちかけのお姫様は憂い顔、御殿のおつきの人々はほとんど表情を変えない。一人、御殿の下で取次ぎをする腰元(中村萬太郎)だけが表情をやや軽忽に動かし、男前の莨屋(中村芝翫)をお庭さきから呼び入れる。お姫様の苦痛(恋人が行方不明、嫌いな男に好かれている)を和らげようと、気散じのために莨屋を呼ぶのだ。なかなか忠義な腰元だね。莨屋、ハンサム。そしてお腰元との掛け合いも軽やかだ。御殿の奥から嫌いな男(右大将高藤)の家来太田十郎(尾上松緑)が、いつになったら殿の仰せに返事をするのだとじれきって現れ、姫の突き袖した左手を取る。えー。あんた周りのお女中に懐剣で殺されても知らないよ。狼藉もの。手を取っていいの?疑問。

 太田十郎の髷の鬢は、姉様人形の高島田のように両側に一枚に張り出し、刷毛先は水滴のようにとんがっている。この人マンガだねー。莨屋が割って入って只で莨をサービスするというと、マンガは「只が大好き」とさらに漫画になる。矢継早に6本7本と吸った太田十郎は、不良中学生のように気持ち悪くなって退散する。

 莨屋は習い覚えた三味線で歌を歌う。

 さてそれを門外で聴いていたのが八重桐(中村時蔵)、一時は全盛の花魁だったが、いい交わした夫が行方をくらまし、今は紙衣を着るほど零落している。聴こえてくるその歌は夫と自分の作った歌だ。八重桐は遊女の祐筆ですと呼ばわって面白がられ、姫の御前に出る。そして自分の廓時代の恋のさや当て、その顛末を面白おかしく「しゃべる」。喋るといっても曲に合わせて優美に手でふりをつけるのだ。男と自分を人差し指で見せる時、左手の「男」の指がちょっとだけ上に出て、背の高いこととか男であることとかを表わす。なんか色っぽかった。一瞬も休まず喋りつづけて、朋輩と喧嘩になったくだりなど、左幸子南田洋子の決闘シーンとか脳裏に浮かんじゃう。この一気呵成の感じが、はんなりしてるのに、一貫してる。きれいな女の人がいい音で早く野菜を刻んでいるみたい。

 そして、ここからがもう、謎の展開。莨屋が探し続けた夫であることを知る八重桐。敵討ちにでたのにあんた何してたの。と、突然現れた妹白菊(尾上菊之助)がすっきりと、その仇は討ちましたと言い放つ。うーん。かっこわるいよね。かっこわるい!と男は腹を切るのだった。ここ、血が出ない。(江戸時代のマンガとかだとさ、ぴゅーと血が出て怖いよね。)そのかわり、ものすごく苦悶するのだ。とても痛そう、その痛みが八重桐に乗り移る。八重桐についた霊力は、彼女を男でも女でもない、〈精〉に変える。ひるがえる着物が確かに空を飛んでいる。

 

 

「土蜘」

 松羽目もの。すぐ、やばいなと思うのだった。お能が元になってるのって、ゆっくりで荘重じゃない?ちょっと苦手。

 鏡板の松があんまりアシンメトリーじゃない。もう少しで釣り合いが取れそう。ここんとこも、ちょっとやばくない?西洋摂取の明治って感じ。西洋は左右対称にして宇宙のつり合いをとってるけど、アジア―日本はそうじゃないよね。インド音楽や邦楽を聴いていると、世界のどこかに「穴」があいてる。「みえないもの」と釣り合いをとるのでは。アシンメトリーってそういうことじゃないかなあ。と、生煮えの考えを頭の中で転がしながら、頼光(中村梅枝)の風邪ひき、平井保昌(坂東彦三郎)の登場、胡蝶(尾上右近)の舞を見守る。平井保昌の彦三郎がほれぼれするほどよかったなー。目頭に入った黒いラインが、特別に凛々しく見え、口跡がいい。頼もしげな侍だ。

 夜だというのに僧(尾上菊之助)が頼光の寝所に現れる。この僧がだんだん怪しく見えてくる。小姓が化生と気づくころには、僧の視線は、正面を向いていても、実は蜘蛛の巣のように四方八方をねめつけているような気がするのだ。蜘蛛に変身してからは、「あ、世界の穴の向こうの異界…」と思うほど、舞台の上が魔性の気配でいっぱいになる。蜘蛛の投げる糸はひゅるひゅると広がってゆっくりした花火のよう、少し悲しげに見える緊張した後見が、そっとすばやく空中の糸をしまう。そこまであわせてかっこいい。でももう蜘蛛の精も最期だ。刀で退治されてしまう。こうやってまつろわぬ民は始末されてしまったんだねー。蜘蛛そっくりの茶色の隈取、恐ろしげに開く赤い口をみながら、思ったことだった。

 

 

「権三と助十」

 近代劇だね、これ。この芝居で一番大切なのは、とにかくその場に「居る」ってことだ。舞台上には権三の家、助十の家と、二軒並びの長屋があって、軒の間に二人の商売道具の駕籠が一挺置いてある。今日は年に一度の長屋の井戸替え、住人が総出で井戸を浚っている。ふーん「井戸替え」は夏の季語か。駕籠の後棒の助十が、立て続けに文句を言うのだが、それを聞いていた権三(中村芝翫)の女房おかん(中村扇雀)が古い団扇で顔を扇ぐ速度がせわしくなる。「居る」なー。かっときて暑くなったんだ。今舞台は七月で、あおぐ風は客席にも届きそう、まぎれもなくおかんや権三はそこに居て、暮らしている。生活感と臨場感がある。総がかりで綱を引くシーンはダイナミックで笑えるし、セットの裏を廻るのもいいよね。謎解きはちょっと古いけど、会話がすっかり江戸時代なのが素敵。助十(尾上松緑)さ、なめらかに江戸弁だけど、もひとつメリハリない。猿廻し与助(中村福之助)は猿を喰うといわれたらもっとパニックにならなくちゃ。後半の「振り」じゃん。左官勘太郎坂東彦三郎)の一言目、「みなさぁん、」ここめっちゃ惜しい。もっと怖く出てくれないとね、あと大家さん(市川團蔵)、プロンプターのこえがでかく聴こえます。あたしたち、体感2万5000円だからさ。でも、一番前の靴を脱いでたお客さん、もっとお行儀よくね。映画じゃないんだから。「人」が目の前にいるんだからさー。