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シアターコクーン『かもめ』

チェーホフ。えらい人。1898年のスタニスラフスキー演出『かもめ』以降、その劇作家としての声望は揺るがない。一見かかわりなく見えるセリフ(外面)と心理とが、交錯しあって精緻な芝居を作り上げる。これって予断?予断かも。

 チェーホフは自分の戯曲の上演舞台に不満だったらしい。スタニスラフスキーが芝居を「泣き虫にした」。『かもめ』は作者によって「喜劇 四幕」と銘打たれている。今日的に演じられる喜劇としての『かもめ』はどんなものなのか。

 風に乗ってきれぎれに音楽が聞こえ、湖畔の屋敷が見えるような気がする、そこに群がる無数のかもめの声、芝居が始まると、劇中劇の舞台を作る金槌の音。ここでトレープレフ(生田斗真)の作る芝居が、まずいという設定だ。そして、若いニーナ(蒼井優)がまずく演じる。そう、トレープレフが夢中になるニーナは、下手な女優だったのである。四幕でトレープレフが「がさつな」と形容するように、ニーナの言動にもがむしゃらさが散見される。がむしゃらな信じやすさ、がむしゃらな憧れ。そのせいで、「馬車を待たせてある」と彼女が言うと、悲しさもひとしおである。馬車など待っていない、嵐の中を歩いて戻るのだと確信できる。最後は、芝居がうまくなっている。そこも悲しい。

 劇中劇がまずいと、傷つくトレープレフもうっすらおかしく見える。主人公らしくてハンサムなトレープレフと観客との間に、距離ができるのだ。アルカージナ(大竹しのぶ)に包帯を巻いてもらったりその包帯をほどいたり、そのうち激しく言い争ったり、「愛情を求めている」と書くより「甘えん坊」だねといいたいトレープレフが、登場人物の一人としてあらわれる。

 問題は、アルカージナが力を尽くしてトリゴーリン(野村萬斎)を引き留めるシーンだ。セリフでトリゴーリンを翻意させてほしい気がする。それも予断?予断かもしれない。

 ケラはこの後三本チェーホフを演出するそうだ。それはきっと、何よりも予断との戦いだろうと思う。