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原美術館 蜷川実花『うつくしい日々』

 蕃茉莉(ばんまつり)が白と紫の小さな花を咲かせ、深紅の薔薇が身を反らして花弁を巻き上げる季節に、蜷川さんは亡くなっちゃったんだなと思っていた。白、紫、赤。激しい、ヴィヴィッドな色。

 しかし、蜷川実花の写真に見る父の死は、淡い、美しいうす紅色、白い光のまぶしさでいっぱいなのだった。それは私には、「いる」と「いない」のあわいの色、「いなくなる」の色のように感じられた。心のこまかい繊毛で感じ取る「いなくなる」は、時々蒼ざめて白くなり、時々はまた紅色がさす。カメラを手にした蜷川実花は、うすくきゃしゃな、やっぱりほのかに紅い花びらの縁を、らせん状にぐるぐると、「いなくなる」の中心に向かって歩を進める。それは確かに「父がいなくなる」であって、父が見るだろう最後の花、父がいる最後の空を切り取っているのだが、いつのまにかその「いなくなる」は、不確かな(私が)に変わり、そして、その写真をみているこのわたしの「いなくなる」にみえてくる。

 ぐるぐると歩き続ける蜷川実花の足取りは、胸を衝かれるように孤独な女の子のそれなのに、「いなくなる」(このひとが)の極点にたどり着くと、勇気と、写真家としての(おとなとしての)冷静な目を感じさせる。「いない」「いる」「いなくなる」はグラデーションだ。「いなくなる」のなかには「いない」と「いる」が蔵いこまれている。らせんの中心にたどり着いた蜷川実花は今度は、広がっていく新しいぐるぐるのらせんを歩き始める。「いる」にむかって、「いない」にむかって、新たな「いなくなる」にむかって。

 写真展では写真の撮影がOKだったのであるが、そんなことでこの写真の芯は写し取れやしない、というか、私が写したところで決してこの数々の「じゃあね」は写りはしないという強い確信を持った。