日本総合悲劇協会 vol.6 『業音』

 〈好きなのにあの人はいない〉明るく暗く危険な愛の歌謡曲が女の声で次々にかかる。7か所で吊られた白い幕。緩んでる。〈あなたと会ったその日から恋の奴隷になりました〉幕の後ろに広がるのは、白く塗られた壁で、キルティングのようなランダムなふくらみを持っている。〈わたしはー、あなたにー、すべてをー、あずけたー〉なんとなく、幕ではなく膜だと思う。空調の風で幕がうっすら動き、たわみの襞が消えては現れる。この幕いきてる、とぞわぞわ来る。他者、とおもう。松尾スズキにとってそれは、女のことだ。ここにたくさんの時計がかかっているのは、女の月経や、子どもを持つリミットを表わしているのかもしれない。予期せぬ生理現象も他者なのだろう。

自殺願望の強い男堂本こういち(松尾スズキ)の妻杏子(伊勢志摩)は元アイドル歌手の土屋みどり(平岩紙)の車にひかれ、植物人間になってしまう。怒った堂本はみどりを拉致して無理やり妻にする。ここに宇都宮から出てきた兄妹(宮崎吐夢池津祥子)や、杏子に引き取られていた老婆財前(宍戸美和公)やゲイの丈太郎(村杉蝉之介)がからみ、魂と肉体、神と業をめぐる物語が進行する。

 予想もつかず、憎むこともできない他者、もしそれを拒絶するのであれば、丈太郎のようにゲイとなるしかない。しかし、丈太郎もまた限りなく自己増殖したいという業に取りつかれている。「生殖」も「テロ」も業だ。そしてどうやらその業は皆、自己愛から生まれている。松尾スズキは口(聖)から尻の穴(俗)を強い線で貫き、さらにそれをひっくり返してみせる。最後に他者みどりはスティグマとともに一人残される。この扱い、どうなのか。Go on。ただの女嫌いに見える。終幕弱く、スティグマが聖化したように見えないのである。役者はみんなよく、ダンスが素晴らしい。

渋谷TOHO 『メアリと魔女の花』

 『君の名は』があんなに当たったのは、6年前のあの地震津波の傷を、語りなおして慰め、なだめ和らげてくれたからだ。大きな天災に遭ったあのトラウマと同じように、原発事故のこと、原子爆弾のことも、日本に住む人々の深い傷になっている。あの時、爆発させないために、取れた手立ては何か。どんな態度で、臨めばよかったのか。『メアリと魔女の花』は、それを語りなおしてくれているように見える。鎮めたい。苦痛を軽くしたい。これは私の、良心の痛みなのだ。

 米林が作った『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』に比べて、この作品は数倍面白く感じる。冒頭から観客を燃える森に連れ去り、圧倒する。ほうきに乗った少女が凄い勢いで追手から逃げる。腕のような黒雲が、少女を掴もうとする。どのシーンにも、宮崎駿の刻印がくっきりと押されている。しかし、米林は宮崎から、もう逃れようとしていないし、追いかけようともしていない。宮崎駿の影響を、ストーリーテリングの骨法として受け継ぎ、自分の物語を語る。宮崎は私たちにとって、大切な「語り手と受け手の共有財産」となっているのだ。

 少女メアリ(声:杉咲花)の日常を囲む人々、シャーロット大叔母(声:大竹しのぶ)、お手伝いのバンクス(声:渡辺えり)、庭師ゼベディ(声:遠藤憲一)がトーンを抑え、静かな声を出すのが、とても好ましい。残念なのはピーター(声:神木隆之介)のキャラクターデザインと脚本が、生き生きしていないことだ。神木隆之介がどんなに頑張っても、ただハンサムな少年に見えた。

 動物たちをみると、原発事故で街に放たれた牛や馬を思い出し、心が激痛だ。メアリが花を捨てると潔さにほっとする。そして現実が、そのように進んでいないことを思い、再度胸が激痛なのだった。

明治座 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 幕末、横浜の港崎遊郭岩亀楼。病に伏せる亀遊花魁(中島亜梨沙)の世話をやく芸者お園(大地真央)。亀遊はアメリカ人イルウス(横内正)に気に入られてしまい、思う人にも裏切られたと思って剃刀で自害する。それがいつのまにか、立派な辞世の歌を作って死んだ攘夷の志と評判になり、その死を発見したお園は、亀遊を語ってちょっとした人気者だ。話はどんどん実際の亀遊のそれと似ても似つかぬものになっていく。噂を聞きつけて、攘夷派の侍たちが岩亀楼にやってきた。

 通辞の藤吉どん(浜中文一)の、二幕初めの歌いだし「いつか」、ここが、綺麗で集中力があり、よかった。憧れと希望とデリケートさが詰まっていた。藤吉の芝居で一番重要なのは、愛する亀遊に通訳をしながら裏の本心を告白するのに、表から見るとそれが亀遊を売り買いする言葉になってしまっているところだ。もう少し亀遊を意識しているのがわかるようにやってほしい。

 大地真央のお園は、一幕、せりふを全て音楽的にしゃべる。せりふのひとつひとつが譜になっているようで、決して音を外さず、乱れない。二幕のコミカルなシーンでは、逆に堂々と外してくる。かっこいいと思ったが、閉めっきりの部屋で寝ている亀遊への同情心を示すため、あの場で一か所くらい破調が必要だと思う。

 岩亀楼に浪人たちがやってきたとき、刀を携えている手が左右まちまちなんだけど、あれは、①左手(今にも斬られそう)、②右手(そうでもない)、③左利き、どれかな。

 「うそ」と「ほんと」をめぐる面白い音楽劇となっているが、「圧し潰されていくほんと」「圧し潰されている女の人」の芝居としてはどうかなあ。少し物足りない。思誠塾の人々が冒頭ユニゾンでなく二声でうたい、なにかはっとした。

彩の国さいたま芸術劇場 蜷川幸雄一周忌追悼公演 『NINAGAWA・マクベス』

 劇場を入った途端、巨大な仏壇の白い格子の引き戸(閉じている)が目に入り、「きゃー」という。2015年の公演を観ているのに、胸がときめく。真ん中にその引き戸、両側に舞台端までいっぱいの、金色の扉金具を飾った大きな黒い木の折り戸が一組ずつ、その上は四つに区切られ、雲のような金の模様が四つ並ぶ。天辺に鳳凰とおぼしき金の浮彫。折り戸には縦にまっすぐに板目が浮いて、時代のついた「古さ」を表わしている。眺めながら、蜷川さんは年に何回も何回も観客をわくわくさせていた、と思い、悲しいような、ありがとうというような気持が同時に来る。アンバーと水色の光が引き戸を照らす。生と死。仏壇は、生者の時間と死者の時間が、共に流れるところなのだ。

 私田舎者だからはっきり言う。この作品は、もう蜷川さんのものとは言えない。何故なら、俳優が自分の持ち場を一生懸命やりすぎているからだ。その結果、皆が皆、自分の一番いいせりふを「たてている」。せりふとせりふの間もあき、ひとつづりのせりふ全体の印象が薄くなったり、ぼやけたりする。マクベス市村正親)の「バーナムの森が、ダンシネーンに向かってくるまではな」というせりふは目立ちすぎているし、マクダフ(大石継太)があらわれて、死闘を繰り広げるまでの間合いは、本人もパンフレットで触れている通り、後期の萬屋錦之介をあまりにも強く思い出させる。

 マクダフが妻子の死を知らされる、知らされてからの芝居が素晴らしかった。知りたいが知りたくない。全身が慄え、どこにもなかった大石だけのマクダフである。ダンカン(瑳川哲朗)の死を知って動転する所(声が迫真でない)と、マクベスを戦場で発見する所(体に沸き立つ戦場の興奮がない)を、がんばってほしい。このお芝居イギリス行くんでしょ。井上尊晶さんも、がんばってください。

新国立劇場小劇場 JAPAN MEETS...―現代劇の系譜をひもとく―Ⅻ『怒りをこめてふり返れ』

 遠い奥の扉の向こうに白い光が射し、手前に向かって、大きくしっかりと遠近法で作られた屋根裏部屋。横に並列に見るのではなく、縦に、扉から戸棚、台所、ダイニング、居間が仕切りなく見通せる斬新な配置だ。屋根裏自体が、差し掛け部屋のように三角形をしている。下手手前の窓の横にドレッサー、その後ろにダブルベッド、中央手前に肘掛け椅子が二脚、上手にレコードプレーヤーやロッキングチェア、すこし離れた上手の奥にアイロン台が出ている。

 静かにポニーテールの娘(アリソン=中村ゆり)が登場し、アイロンのスイッチを入れてからロッキングチェアに座り、思いにふける。ベッドの窓から風が入り、白いカーテンが揺れる。うすい珊瑚色に見えるカーディガンに、リバティプリントの手作り風ワンピース。芝居が始まると、この女の人が、怒りでいっぱいの、とんでもない夫(ジミー=中村倫也)と一緒にいることがわかってくる。有り余る知識、正義への絶望、階級社会に対する怒り、子どものような無垢、女への憎しみ。全てがない交ぜとなって狭くて広い屋根裏に充満する。(このセットは不思議だ。アイロン台やテーブルが、ある時は2メートルもある巨人の為に作られているようで、登場人物たちが小さく頼りなく思われ、またある時は人物が等身大より大きな存在に見える)大きく見えるジミーは、アリソンを責め続け、緩衝材となる同居人のクリフ(浅利陽介)が、自分がいなかったら二人は既に終わっていたろうと語ると、終わらせていた方がよかったのにと思ってしまう。中村倫也はじめ皆けん命に演じるが、なぜいまこの芝居を?と強く感じる。アリソンの友人ヘレナ(三津谷葉子)は、賢い、辛くも虎口を逃れた女に見えた。50年代のイギリスに対する、私のお勉強が足りませんでした。

東京芸術劇場 シアターウェスト 『OTHER DESERT CITIES アザー・デザート・シティーズ』

 舞台は上半分がスクリーンで閉じられ、背板を抜いた棚にも見える枠が、4つほど重ねられて塔のようになり、中にいかつい本が、覗き込むキャビネット照明の厳しい明りにさらされている。上手奥のホリゾントには禍々しい強い影が出ているが、中央に少し離れておいてある枠の中のランプが(ポールセンのパンテラに似る?)、舞台全体をふんわりと、とても柔らかく、やさしく見せる。この矛盾なに?

 2004年のクリスマスイヴ、パームスプリングスに居を構えるワイエス家。父ワイマン(斎藤歩)はハリウッドの元俳優で政治家、妻のポリー(佐藤オリエ)は脚本家で夫と共和党の強い支持者だ。同居の叔母シルダ(麻実れい)はアルコールの問題を抱え、息子のトリップ(中村蒼)はテレビの仕事をしている。この家に娘のブルック(寺島しのぶ)が帰ってくる、親たちを弾劾する原稿を携えて。

 最初から終幕近くまで、登場人物たちは言い争いを止めない。各人ごとに立場と意見は違うのに、演出は彼らに再々手をつながせ、愛と憎しみとつながりの深さを印象づける。ポリーは登場すると舞台中央に立つが、その視線は舞台を支配し、「深い」。家族とは一番弱いものに脅かされるものだと彼女は言うが、本当は、一番弱い者の所に、家族の一番強いものの矛盾が噴き出るのだ。強いものの矛盾が大きければ大きいほど、弱い者の苦痛は激しくなる。しかもこの関係は固定ではない。

 「ブルックはどうなるの」というセリフを聞いて寺島しのぶが首を垂れると、小さい子供がうつむいて泣きだしたように見え、ここが一番大事なリアクションのように感じる。頑固に生え変わらなかった乳歯が抜けそうになり、矛盾した家族に引き戻されてしまう瞬間だ。彼女は枠から出て、また枠に入る。しかしもうキャビネット照明じゃない、パンテラだ。そこには、新たな矛盾が待っている。

世田谷パブリックシアター 世田谷区制85周年 『子午線の祀り』

 車の免許を取ると、私どもの田舎では(と、突然司馬遼太郎みたいだが)、関門海峡のあたりへドライブに行くというのが相場となっていて、壇ノ浦の、道の間際まで海のせり出している急カーブに差し掛かると、「出るよ平家の幽霊」「きゃー」と、必ず言っていた。すごく出そうなのだ。三角浪から立ち上がる、無数の白い腕が見える。時空を越えた怪談だ。

 翻って今日の『子午線の祀り』は、なかなか時空を越えない。客入れの間じゅう、波の音が聞こえ、アルコールランプの「なま」の生きている火がたかれ、ポンポン船の発動機の音がし、時々汽笛が混じる。この海辺から、一気に源平の浜まで飛ぼうというのに、喚起力が薄い。プロローグのセリフが難しいのかもしれない。

 平家の大臣殿宗盛(おおいとのむねもり=河原崎國太郎)の弟新中納言知盛(野村萬斎)。目の前で息子武蔵守知章(浦野真介)が討たれ、その仇を討った郎党も死ぬ。なのに知盛は「ふっと」生き延びてしまい、「非情のめぐり」を感知する眼を持つようになる。その眼を共にするのが影身の内侍(若村麻由美)という、知盛の兄弟重衡の思い者の女性だ。

 野村萬斎、見直した。声のよく出るすこし大仰な人と思っていたのだが、ここでは、私にとって切実に「平家物語そのもの」であった。美しい公達の、齢を重ねた顔に、敗亡を知って浮かべる苦悶の表情。アイリスやフリージヤが、咲いたまま透きとおってゆくような終わりの予感。

 知盛が鎧を二領つけて、海に沈むと、エピローグのセリフが始まる。プロローグと違い、今度こそ、海面が、小さな灯とともに盛り上がって見える。

 水主梶取の殺されっぷりに迷いがない。怪我がありませんように。