ヨーロッパ企画第36回公演 『出てこようとしてるトロンプルイユ』

 「ウィー」

 ジャン(本多力)、ブルーノ(諏訪雅)、アントニオ(石田剛太)が大家(中川晴樹)に返事をするとき、声を合わせてこういうのだが、これがフランス語に聞こえず、すごく可笑しい。

 幕開きと同時に伽藍の鐘の音がし、大家はダリ髭を生やした茶髪で、舞台はどう見ても『ラ・ボエーム』みたいなパリの貧しいアパルトマンなのに、ずーっと半信半疑である。

 どうなってんの?ほんとにパリか?

 そんな観客の心の声にはお構いなしに、三人の売れない絵かきたちは、払えない家賃のカタに働き、死んだ画家の荷物を捨て始める。

 一人の画家が、生涯かけてつくりだした絵を全て捨て去る、それは心削れる業(わざ)である。そして、捨て去られる絵と、その絵を描いた画家の側には、死んでも死にきれない、執念と業(ごう)が立ち上がり、その妄執に絵は「出てこようとしてる」。

 そしてその顛末はレイヤー(階層)を成し、層になった片岩のように固まり、少しずつずれながら膨張して宇宙を構成していく。っていう「業(わざ)と業(ごう)」の話だと思った。

 そんなむずかしい話が、おもしろくたのしく「でてこようと」する。ただ、逆に言うと、おもしろくたのしく「むずかしい」ために、飽き飽きするほど反復しなければならない。ここ、どうなのか。繰り返すやり取りにもっと緊密さと緊張がないと、「おもしろくたのしい」が緩んでしまう。

 最後にセットに目をやると、そこはやっぱり「パリ」じゃなかった。斜めの壁、羽目板の屋根、一見して全体を掴むことのできないアパルトマン、窓の桟が昭和の住宅のように細いそれは、いまここ、どこかに魔を潜めた「日本」のように思える。

恵比寿ガーデンホール 『Live Magic』 2017

 食べ物のブースにお菓子少なめ。というショックをよそに、ホール舞台上に、早やバラカンさんと稲葉智美さんが上がり、ライブマジックのTシャツの説明などしている。トートバッグには「やるのはマジックやり方は音楽」と英語で書いてあり、Tシャツのレコード盤の絵がすてき。

 いつものように、バラカンさんは一通りあっさり説明すると、ひとことで今日最初のミュージシャンを呼びこむ。「オマール・ソーサ、セク・ケイタ、グスターボ・オバーイェス」

 白い民族衣装などを着たように見える三人が位置につく。オマール・ソーサはキューバのピアニスト、セク・ケイタはセネガルのコラ奏者、グスターボ・オバーイェスはベネズエラパーカッショニストだ。ピアノは舞台下手、コラは中央、打楽器は上手側後方に座る。調弦してすぐ始める。音楽がいくつもいくつもつながったS字を描いて空中に漂ってるみたいだ。オバーイェスの呟くようなセリフに、コラとピアノが色彩をつける。今日は台風の雨。外では木々の上に垂直に重い雨が落ちる。聴いたことがない曲だけど、雨の日の底にある憂いが外に出るような気がする。蝋紙で包んだ憂い、紙を破るとそれは澄んだ水、ってかんじ。

 彼らのアルバムは「トランスペアレントウォーター」透明の水という題だけど、それを聞くと、水が澄んでないことがあるんだなと思う。赤さびの水やコーヒー牛乳のような水たまりの水のことを考える。遠い土地、遠い水。そのせいかこの水は一際透明に感じられるのだった。三人はにこにこしながら演奏する。すっごい勢いで手が動いているのに。

 初めて見た「コラ」は、不思議な楽器だった。ウミガメの甲羅を連想してしまう大きな丸いボディに(瓢箪だとネットには出てるけど)、美しい鋲が模様を描いて皮を留めている。客席を向いている盛り上がった背中に穴が一つ見える。ボディからネックが2本、触角のように突き出ていて、一本のネックが通常の形で21絃の糸が張られているとすると、合わせて40本強の弦をセク・ケイタは弾きこなしていることになるなあ。指を掛ける短い棒が3本ある。そこに中指、薬指、小指を置いて、親指と人差し指で鳴らしているみたい。ぽわんと響く、とても美しい音がする。

 アルバムを聴いたときは現代風の環境音楽のような気がしたのだが、手拍子したり、踊ったりできる曲もある。セク・ケイタが左わきに小さな太鼓を挟み、オバーイェスが足の間に置いた太鼓と掛け合いするところも素晴らしかった。そしてピアノがすべてを誘導していく。会場の聴衆に、踊るよう促すのだが、なかなか3人のようには踊れないよね。演奏が終わると、彼らは踊りながら去り、それをコミカルに繰り返して見せてくれたのだった。

 

 地下へ降りて小さめの会場、與那城美和とダブルベースを弾く松永誠剛。まず與那城さんの着物が、よく似合っていて、そしてシック。黒い光沢ある麻(苧麻?)に、チャコールグレーに見える織模様が肩と裾にある。闇色と影色が、どちらも引き立てあっている。たぶん、宮古上布っていうんだと思うな。地味なのに豪奢、繊細なのに厳しい。その着物の襟から、與那城美和の緊張した顔がのぞき、本当に素敵な取り合わせだった。與那城は集中し、一息おいて歌い始める。その声に、(地味なのに豪奢…。繊細なのに厳格…。)というフレーズが、頭の中でくるくる回り始め、いつのまにか私は、大きな水甕の底に下ろされて、膝を抱えて座り、外から聞こえてくる知らない国の知らない歌を聴いているのだった。

 松永誠剛は33歳、まだ若い。音楽のことは私にはよく分からないけれど、演劇的に言うと、演劇(ショウ)の基本がよく分かってないように見えた。お客さんがまだ心の中で靴も脱がないうちに、先に酔いしれちゃだめ。置いて行かれちゃったよ。

 

ここで私は休憩しました。ウェスティンのラウンジでゆっくり。

 

 バラカンさんがTシャツの歴史を話しているのをちらりとのぞいて(チェロキー、この曲を聴いていてチャーリー・パーカービバップを思いついたんです)ホールのわきを通りかかると、アイリッシュ音楽、はっきり言うとWE BANJO 3が聞こえてきた。えー?焦って会場に入ると、中には人がいない。まだリハーサルの最中だったのだ。なんとなく、最前列の柵の前に立っていると、4人のメンバーが並んで、(舞台下手からバンジョーマンドリン、ギター、フィドル)ヴォリュームやバランスを入念にチェックしている。ロング・ブラック・ヴェールをちょっとだけ歌ったり、フィドルの弓の乱れた糸を歯で切ったり。演者が引っ込んだあと振り返るともう聴衆が、幾重にも私の後ろに並び、行きがかり上なんとなく、一番前でWE BANJO 3の本番を待つ。どうしよう、一番前なんて。3分前にはスモークが焚かれ、人がぎっしりだ。7時をいくらか過ぎて、メンバーが登場、インストゥルメンタルから始める。拍手がだんだん大きくなる。ギターのディヴィッドが、再々拍手をするようにいうのだが、それが炭をおこす、火のお世話をする人みたいに見える。拍手をしているうちに、メンバーが掛け声をかけて、曲の速度が一段とはやくなり、その場で軽くジャンプする。会場もジャンプ。日本語で上手にしゃべり、Little Liza Janeではリフレインを観客に歌わせたり、乗せるのがとても上手。スモークがだんだん白熱の湯気に見えてくる。バンジョーマンドリンもギターもフィドルも、皆饒舌で陽気、もつれたりなんか絶対しない、信頼できる踊れる音楽だ。いくらでも踊れ、いくらでも歌えるような気がしてくる。その上みんなハンサムなのだ。いうことないじゃん。ディヴィッドのちらりと見えるサックスブルーの靴下を眺めつつ、一番前で見るWE BANJO 3は最高だったなと思うのだった。

有楽町朝日ホール 『第173回 朝日名人会』

 おじいさんのセーターがカシミヤ、おじさんのベストが新品、そんな有楽町朝日ホールである。年配の人が多く、皆楽しみにして来ていることがわかる。

 群青色の高座に、うぐいす色の座布団、下手から軽々と春風亭朝太郎が登場した。さっと噺に入る、開口一番てそういうものなのかも。今日の演目は「牛ほめ」、与太郎が普請道楽のおじさんの家に行き、父親に言われたとおりに家を誉め、おじさんの飼っている牛を誉めようとするが、いろいろうまくいかない。全然そつがなく、きれいにまとめてすーと去っていった。開口一番の役割?この秋、二ツ目になって春風亭一刀さんになるそうです。それを説明してくれたのは次の春風亭正太郎、正太郎も朝太郎も春風亭だけど、正太郎は正朝のお弟子さんで、朝太郎は一朝のお弟子さんだとも言っていた。ビリジアングリーンの着物の正太郎は、ビリジアングリーンの手ぬぐいを出して上の方をきゅっと手ですぼめ、「堪忍袋」を作ってみせる。八五郎とおさきさんの夫婦げんかの所で、「7歳を頭に八人の子供」がいるといったので可笑しかった。

 「一人酒盛」って何かと思ったら、上方の酒(きっと灘とか?)を五合貰った熊さんが、一緒に飲もうと誘った相手に一杯もやらず、一人でいい気持ちになる話。まくらから本題(ネタ?)に静かに入ってびっくりした。もうちょっと狭い会場だったらなー。とは思うが、小さんの手元のお酒がアップで見える。のどを通るとき熱くてからい酒の味がし、杯から立ちのぼる酒の気を感じる。じーんと熊さんの総身に酒がまわってゆく。ただ、熊さんに集中しすぎてお燗番の位置がよく解らなくなっちゃった。五合っていうと歌が出たり踊りが出たりする、かなりの量だよね。海苔の缶がからと聞かされた時はなんかちょっと切なくなったけど、茄子ときゅうりとしょうがを刻んだかくやのこうこで飲むなんていいよね。それを飲ませてもらえない羽目になる男がせっせと刻んでいるのが笑えます。片襷も目に浮かぶもん。

 五街道雲助「景清」、目の見えなくなった指物師の定二郎が、景清ゆかりの千手観音のご利益で目があく噺。目が見えなくなっちゃったという絶望と哀しみが胸につーんときて、見えるようになってほんとによかったなあと思うのだった。

 ここで仲入り、ロビーをうろうろする。ケータイに関しては、芝居ほど厳しくなく、マナーモードでいいらしい。どうかなあ、やっぱり切ったほうがいいと思うけど。テンプテーションズマイガールをなぜか三味線が演奏して、再開する。

 柳家小里ん「お茶汲み」。これむずかしい噺だなあ。廓に遊びに行った若い者が友達に、廓の中で遊女と交わした会話を再現して見せてるのか。小里んさんは今日は調子が悪かった。調子の出なかったところでお客さんが一斉に「ああ…。」と残念そうな息を吐き、いいお客さんだなと思った。

 トリは人間国宝柳家小三治、っていうか、勿論この人のことは小さい時から知っている、女の子にわーきゃー言われる大した人気者だったのだ。学齢前、母親とテレビを見ていたら、やっぱりきゃあきゃあ言われていて、テレビカメラのわきに、ほかのタレントと3人並びで立っていた。下げた手の肘を、もう片方の手で所在なさそうににぎっていて、その所在なさげな様子と言ったら、今でもありありと思いだせる。10歳のころ「道具屋」を聴いて、椅子から落ちるほど笑ったこともある。というようなことを書いて、もしも今日の咄がまくらだけなら(途中そうかも!?とおもった、)終わっちゃおと思っていたけれど、ちゃんと「馬の田楽」がありました。この夏京都で頸椎の手術をして、毎日歩かされて、鞍馬寺嵐寛寿郎の声色をやってみたとか、なんか明るく元気な感じ。まくらの途中に間があいても、お客さんは待っている。愛されてる。だいじょうぶ?甘やかしすぎじゃないの?と心配するが、馬方がうたた寝し、三州屋のおやじが登場したあたりからおやっと思う。三州屋のおじさんは、裏の畑に確かに「いた」。悪がきは石垣の上に細く汚れたすねを出して、不安そうにきょろきょろしている。距離感が正確。立て場の耳の遠いおばあさん、お百姓、のんべえ、皆田舎者なのに演じ分けられていた。

 その上特筆すべきは、全員がかわいいってところだ。面白かったけど、お客さんほんとあんまり甘やかさないでねと思う。人間国宝のひとり勝ちなんて、つまんないもんね。

東京芸術劇場 『William Shakespeare's Richard Ⅲ リチャード三世』

 あら。プレビューだったんだね。

 舞台闇。目の奥の方へ、奥の方へ、後退してくるような、抉ってくるような闇。滴るような濃い闇だ。ゆっくり客席が暗くなり、激しいドラムのリズムに揺れる人々が現れる。全員が糊のきいた白いシャツと、黒いパンツを身に着けている。サックスが見える。パーティだ。エリザベス朝風の襟とカラーをつけた髭の代書人(渡辺美佐子)が、舞台前面に歩いてくる。手術室の無影灯に似た蜂の巣状の照明。セメントブロックを高く積み上げた絵の描かれた三方の幕。中央正面にリチャードらしき長身の男(佐々木蔵之介)がいて、リチャードの有名な冒頭のセリフを語り始める。それが気の利いたスピーチであるかのように、パーティの男たちは皆、リチャードの言葉の合間にどっと笑う。リチャードが己の姿を呪う言葉を吐いても、笑う。男は化粧をし、輝くように美しいのだ。だから呪詛は、おどけた言葉にしか聞こえない。

 なんとなく、自分がいやな気持になっているのに気づく。男だけのパーティ、男だけの冗談、男だけの秘密結社、決して女には明かされない秘密を演じているのを目撃している気になる。それは秘密の井戸で演じられる。シェークスピアのセリフは「ずらされて」いるが皆ぴったりに響く。今井朋彦のマーガレットの呪いが全編に深く効いている。

 リチャードが追いつめられてゆくシーン、不意にエチオピア風、演歌風の節にあわせて歌が始まるところ、ここ、難しかった。今まで心に重層低音が響いていたのに、突然チューンになる。このシーンで、客席に激しく笑う「女の人たち」がいたのだが、それがまるでリチャードへの復讐の、芝居の演出の一部に感じられ、そこでシーンが完成したような気がしたのだった。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『危険な関係』

 中央に引っ張られ、皺を見せ、緊張を見せる左右の黒い幕。誰にも明かさない胸の奥。原作のいろいろのせいで、信賞必罰のはなさか爺さんみたいな話かと思っていたよ。ところがこれは、高度で張りつめた駆け引きと、洗練と退廃の極みの登場人物による、怖くて面白い舞台だったのだ。

 かつての愛人ジェルクールに復讐するため、男には決して屈服しない女メルトゥイユ侯爵夫人(鈴木京香)は、恋の好敵手で共謀者のヴァルモン子爵(玉木宏)を動かして、ジェルクールの婚約者セシル(青山美郷)を堕落させようとする。一度は断ったヴァルモンだったが、自分の言い寄っているトゥルヴェル法院長夫人(野々すみ花)にヴァルモンと付き合わないよう忠告したのがセシルの母のヴォランジュ夫人(高橋惠子)だと知り、メルトゥイユ侯爵夫人の思惑に乗る。

 話が進めば進むほど、芝居は息詰まる展開となり、餌食となる人々の成り行きや、メルトゥイユ夫人とヴァルモンの「主導権」を巡る戦いに見入った。特にプレイボーイで、モラルも全然ないヴァルモンが、トゥルヴェル夫人にふと心の素肌で対応してしまうところなどすごくすてき。

 ただなー。序盤が惜しい。メルトゥイユ夫人とヴァルモンの会話シーンに、余裕と退廃と悪意と哄笑が足りない。交わされるセリフが瘠せている。退廃はヴァルモンの馴染みの女エミリー(土井ケイト)が一手に引き受けていて、スライドドアに押し付けられる生々しさに肉体を感じた。ダンスニー(千葉雄大)が、凄く垢抜けない人柄で、凄く垢抜けない服装だ。謀略と洗練こそが正義、それに観客もダンスニーを笑うことで加担する。終幕、胸の奥の暗さを思う。しかしそこには歳月の皺と醜い引き攣れがあるのだ。

アトリエファンファーレ高円寺 『ウェアハウス~Small Room~』

 『動物園物語』をモチーフに、二人の男が殺したり殺されたりの関係になるという芝居を、二十歳縺れの年頃に観た。作は鈴木勝秀だったのかな。殺されたはずの男が、立ち上がってにこやかにしているのが印象的で、そこに私は、演劇の可能性とか感じたりしたのであった。「死んだのに死んでない、楽しそう」ってところが好きだったんだと思う。オールビーの戯曲集もその時買ったはず。

 子どもだったなあ。

 これ、愛の物語だったんだね。おのおの心にナイフを隠し持っている者たちが愛しあう時、何が起こるか。愛はいつも、ナイフを構えている。だから残酷で美しい。

 立ち退きの決まった教会の地下室で、一人の男(エノモト=佐野瑞樹)がギンズバーグの詩を暗誦している。そこにやってきた未知の男(シタラ=味方良介)は、円周率をかなり深い桁まで言えたり、一瞥しただけのエノモトの住所を完璧に覚えていたり、謎が多い。でも、一見浸食されていく側に見えるエノモトにも影がある。彼が口にする「僕は君とロックランドにいる」というリフレインは、次第に昂まり「頂点」を迎えるが、「ぼく」は実は「きみ」、殺人者の「きみ」、精神病院(?)にいる「きみ」の半身なのではないかと思わせる。エノモトの意識していないこころの暗がりを、シタラは衝く。わかりあうために。たぶん、愛しあうために。エノモトはシタラを拒否する。二人はナイフを間に挟んで固く抱き合う。愛の残酷さ。加虐性を通してしか語れない愛があると、私にもほんのりわかる。そして、あっさりした女性嫌悪。猫の椅子が大きく影を作るオープニングなのにもかかわらず、うすい描かれ方だった。

 キャストは健闘しているが、ところどころ深さが足りないかな。

浅草見番 三遊亭萬橘定期独演会 『第13回四季の萬会』

 その土地の芸妓さんの束ねや調整事務をする見番、その浅草見番の二階の広座敷で、今日は萬橘さんの定期独演会。

 畳には一面に白い座布団が敷かれ、畳に座るのがつらい人たちには、10席ほどの椅子席がある。プロセニアムアーチ(?)の向こうが板張りで、高座があって、その後ろに六曲二双の白い屏風。私の座布団の隣に大きな木製のガラスケースがあり、中に8挺の三味線がじーっとならんでいる。「大切に使いましょう」という小さい注意書きがなんかかわいい。

 開口一番のまん坊さんの出の前に、とってもじょうずな三味線が聞こえた。グレーの着物からえんじ色がのぞくおしゃれな取り合わせで登場したまん坊さんに、あれっと思う。たたずまいがとても落語家らしい。こうして薄紙を剥がすように、書生っぽいまん坊さんも、成長していくんだなあ。今日の落語「しわい屋」の出来は今一つで、あとで本人も少し浮かない様子に見えたけど、全体の雰囲気はよくなっていた。

 萬橘さんの最初の話は「ふだんの袴」。墓参りの殿様が、骨董屋の店先をかりて一服している。それをみていた粗忽者が、お殿様のまねをして煙管の火種を袴に落とし、お殿様のようなセリフを言おうとする。萬橘さんがすごい勢いで黒羽二重と仙台平(といったと思うけど)のお殿様の衣装のくだりをすっ飛ばすので、聴いてほしいのはそこじゃないのだろうと思うけれど、それでも、もうすこし、お客に意味を張りつけてもいいような気がした。「いいかたちだね。」とお殿様の悠然とした姿を思い返しているところが、とてもよかった。粗忽者の目の裏に、さっきの光景がもう一回見えている。煙管の羅宇がつまっているのもずぼらでリアルで、おかしかった。

 次はゲストの三遊亭白鳥さんがチャイコフスキーの調べに乗って現れる。着物の肩の折山に袖先まで、アディダスみたいなストライプが入っていて、紋の所に大きな白鳥が、首をつつましく下げている。白鳥さんはついこないだ腸にポリープが4つみつかり、即入院で取ったばかりだそうだ。

 「じぃ」「じぃ!」「侍従長!」という語り出しで始まった噺は日本のプリンセスの冒険譚。上つ方と「東日本橋」「かっぽう着」「てんぷらや」などの対比で笑わせる。インパクトと毒気でぐいぐい推進してゆく。でも、いうほどtouchy(きわどい、扱いにくい、厄介な)じゃない。穿ちがない。上流家庭の子弟の喋り方など知りませんってとこから入ってる。ヒロインに対して愛が足りないし、定食屋のおばさんも、煮込み屋のおじさんも記号的。ポリープ取ったばかりだからか、少し元気がないように見えました。

 最後は「大工調べ」、題名は聞いたことがあるなあ。家賃のカタに道具箱を大家におさえられている与太郎のために、申し開きをしに行った棟梁(とうりゅう、むかしっぽい!)がとんとんとーんと啖呵を切る。萬橘さんの啖呵は三十代で気力も体力も集中力も最高じゃないと切れない啖呵。よどみなく超高速でしかも意味が通ってる。でもこれも最初の噺の着物の描写と同じで、もっと目を立てて、お客さんに貼りつけた方がいいように思う。啖呵切ってる意味がどこかにいっちゃうもの。

 でもこの啖呵が高速だから、与太郎がのん気にしている対比でとても笑える。与太郎がカメにえさをやっているところで、今日一番笑ったのだった。