PARCO & CUBE 20th present  『人間風車』

 気持ち悪いものが大嫌い、なのはなぜだろうと考えてみる。飛び散る血だのはじける脂肪だのがだめ。それは血も脂肪も全部「わたしの」であるせいだ。いつも被害を受け、いつも痛い。「痛い目にあわされる側」に必ずいる。アクション映画でスカッとしたこともあまりない。では『人間風車』で作家の平川が、痛くてスプラッタな童話を聴かせるのはなぜか。それは虐げられた苦しみを他に与えるためで、そのせいで平川は作家として業を背負うのだった。

 ところが平川を演じる成河はこの芝居の中で、群を抜いて機敏で頭が回るように見える。せりふまわしがきりっとしているのだ。そんな男が「結局金持ちの大学中退おとこが得をしました」というような、抑圧と不満に満ちた童話を書くかなー。

 芝居全体を通してみんな声のトーンが高すぎる。ミムラは彼女の音域ではカバーしきれないほど声が高くなるが、細かく一生懸命演じている。だがそれはわき役の芝居だ。サム(加藤諒)に近づかないでというところからトーンを落としたらどうかと思う。仕掛けず、受けた方がいい。美しいヒロインなのだから、堂々と芝居して。

 テレビ局のディレクター小杉の矢崎広が好演しているが、この人、小悪党なのになぜあんなことになるのだろうと脚本が疑問。母親たち、子供たちがステレオタイプ。こういう血まみれの芝居、凄く流行ったことあったなあと思い、あのころはきっと持ち帰る「いやなきもち」が新しかったのだが、「被害的」な私には今ではそれが「加害的」でしかない。

 松田凌、こころがこどもであれば、声は甲高くなくていいとおもうよ。声を大切に。ADの川村紗也がリアル。終盤まで緊張が途切れず、隣の席の人は最後の加藤諒のくだりで涙していた。

さいたまゴールド・シアター第7回公演 『薄い桃色のかたまり』

 1ミリのあいだに3本から4本の髪の毛を彫ったという江戸の浮世絵彫師、俳優のセリフ術にはそれに近いものがあると思う。細い線を出すだけでなく、強い線や柔らかい線、下絵通りにそれぞれを削り出していかなければならない。たいへんだよね。

 さいたまゴールド・シアターの俳優たちは、素人で玄人だから、「毛彫り」の玄妙さなどは思案のほかだ。まずセリフを聴く(大体聴けている)、それからセリフを言う(大体言えている)。例えて言うなら、丸刀(彫刻刀ね)一本で全てを彫る。微妙な影はつかないが、丸刃をこつこつと、また一息に扱ううち、不思議なことが起きる。太いぎこちないその線が、芝居の結構を大きく見せてくるのだ。細い線を瘠せたものに思わせる。むしろこちらのセリフの方が、肉厚で、役の内面をよく語り、丸刃を操る老いた身体の重みを感じさせ、世界を重層化する。全員で踊るダンスシーンには、一人として音楽に「入ってこられてない」俳優などいず、皆、楽しげに踊れている。

 添田家の主婦真佐子(上村正子)が家で作りだす「パエリア」の何となく唐突な可笑しさ、「夫婦なんてみんな変態だ」という言い切りの滑稽さ、大きな喪失のかなしみの中の、小さな笑いを笑っているうちに、いつの間にか芝居は桜の花びらを船にして、前後にすべるように動き出し、今の「い」と今の「ま」の間合い分の空をおちて、「確かに今だったね」と私たち観客に言うのだ。(ほんとに今?)という問いを、中に隠し持っているけれど。

 死や理不尽を背負ったイノシシ(中西晶)たち、隣駅までしか来てない線路、復興本部、パエリア、パエリアを食べた男(内田健司)と食べなかった男(ハタヤマ=竪山隼太)、訪ねてきた娘(ミドリ=周本絵梨香)、こうした生々しい物語がしっかり留めつけられたのは、あの丸刀の、武骨な彫り口が誠実だったからだと思う。

新宿武蔵野館 『望郷』

 子どもの鉛筆の持ち方が変でも、一家の実権をもつおばあさんと同じであるため、直してやることができない。というようなことは結構よくある。この映画に出てくるとある島の田山家も、そのような家の一つ。母親が無意識に、娘を自分より幸せにすまいと図り、祖母は嫁に自分と同じ不幸を経験させようと強く牽制する。

 祖母の田山セツ(白川和子)はいつも遠くから映され、アップになることはない。白川和子を使っているのに、映画はこのおばあさんを、紋切型の姑にしか撮らない。方言も使わないし、その愚痴もスルー出来そうな程ありきたりのものだ。怖くない。リアリティがないのだ。そのリアリティのなさが、あとへあとへと、ボタンを一つ掛け違ったように効いてしまう。

 田山高雄(相島一之)と田山佐代子(木村多江)の夫婦は、セツの死後、どちらが主導権を取るのかよく解らない。晩酌をする高雄は画面を観ただけで人柄が彷彿とするくらいぴりっと造型されている。ぺたっとした髪、冴えないメガネ、うまそうに飲む酒。佐代子の心事が、よく伝わらない。

 にもかかわらず、田山夢都子(貫地谷しほり)は、幅いっぱいきっちり役作りして歪んだ家の一人娘を演じる。帳尻があっていて不思議だ。一方、中学教師の大崎正一郎を演じる緒形直人は、目立った芝居をしない。しないといっても盃に酒があふれそうになる表面張力を感じる。つつけば芝居がこぼれそう。いじめ首謀者の母深田素乃子(石橋けい)も何もしないが、体に場の空気を通していて、余力のある人だと感じた。

 いろんな人の様々な心事、人事、雑事を抱え込んで島と海に日が照る。入江が美しい。船が行きかう。そういう場所を思う心が撮れている。

good morning N°5 『豪雪』

 白い段状の舞台で「GOOD MORNING」と書かれたTシャツを着た俳優たちが物販をしている。彼らは芝居の準備のためにほどなく去る。一人残された作・演出の澤田育子が、上演中の諸注意を説明する。この芝居(ダシモノ)ではまず、飲食自由、飴の包み紙の音自由である。静かに見ていただきたいシーンはないと、澤田は言い切った。トイレに行ってもいいしケータイ切る必要はない。滅多に連絡のない好きな人からの電話だったらどうするのか。喋ってもいい。そのお喋りの方が面白いならむしろ芝居止めて聴く。

 雪が揺れる黒い幕から降ってくる。芝居が始まった。雪にまつわるいろんなシーンが演じられ、どうやら細雪が下敷きになっているシーンもあるが(ここは後半にいい話としてつながる。しかしいい話は「たてて」ない。)、なんか、そんなことはどうでもいいみたい。世界からエロスを剥ぎとり、可笑しさを抽出するところに主眼がある。観ているうちに、自分が大学生になった春、綺麗な女の子たちが行きかうキャンパスで、「私の顔って記号だな」と考えたことを思い出した。他人と自分を区別するために「顔」はついてて、ただ、それだけだ。ここに登場する裸体も、何らいやらしくなく、その他の人と区別するため、「私」であるために数独のパズルを書き込まれているのである。美醜を越えている。そのあまりのエロスのなさに感嘆した。

 ただ、野口かおるの上に上衣をかける藤田記子の仕草が、女らしく優しく、「裸」になることを「恥」、「傷」に思わせる。そう思わせるくらいならやってはいけない。セリフが叫びすぎで、聴きにくい。

 喋ったり途中でトイレに行ったりケータイに出る人もなく、行儀のよい普通の上演だった。ちょっとざんねん。

渋谷TOHO 『三度目の殺人』

 ピーンと聴こえるピアノのような耳鳴りのような音、現れた三隅(役所広司)は、白っぽい眼をしている。凶いことをする人の眼って、あんなふうに白っぽく見えると思う。ところが、この30年前に強殺の前科を持つ男は、わけがわからない。強盗目的ですねと言われるとそうですと答え、保険金目当てで殺したのですねと言われてもそうですと答える。弁護士の重盛(福山雅治)は弁護方針を変更し続けながら、三隅の二度目の事件に引きずり込まれていく。

 この映画で大事なのは、「わけがわからん」ということだろう。世の中にはわけがわからないことがあるのだ。それを裁く。「わけがわからん」のために精巧なデコパージュ絵画のように腕利きの俳優たちによる演技が積み重ねられ、クローズアップが多用され、夢のような雪景色が映る。三隅と重盛は、どちらがどちらなのかが次第に不分明となり、最後のシーンで現れた三隅は、まるで死刑囚のもとに来た教誨師のようだった。

 しかし、なぜか思い出した『シークレットサンシャイン』で犯人が突然聖性を帯びたときのあの驚き(デコパージュを突き破って教会の塔が出たみたいな)に少し欠ける。みんな、「わけがわかって」いるんだろうなー。唯一「わけがわからん」のは斉藤由貴の演じる母親で、たぶん、この人は自分の「わけがわからん」のだろうと思う。デコパージュの後ろに、黒く穴が開き、巣食っているひっそりとした生きものが見えるようだった。次回も期待。

 空っぽの三隅と翻弄される重盛の関係はよく考え抜かれているし、広瀬すずは難しい役だが品のある芝居で演じきった。でもこの設定を差し出されるのに戸惑いがある。どちらも手つきがあまりに「わけがわかる」のである。

博多座 『坂東玉三郎×鼓童 幽玄』

 お能の鼓の拍子は、続けて強くたたかないのがものすごく印象的だ。同じ間合いで、つぎもやっぱり大きないい音が来るだろうと、観客の身体が予測して待ち受けているのに、それをすかすように、外すように、ごく小さな、デリケートな拍子が鳴る。受け手のアンテナの、極大と極小を、連続して揺さぶってくる。そうするとそのあと現れた演じ手が、振れの合間から、揺らめき出てきたみたいに見えるのだ。演じ手の心の産毛がそそけ立つ極小の世界と、演じ手の立つ曠野の広がりが、同時に目に浮かぶ

 舞台下手から静々とすり足で登場した14人の太鼓の打ち手は、両手の撥を交互に素早く動かし、太鼓の縁から真中まで、音の大きさをちがえて鳴らし続ける。小さい時は、観客席の咳きで聞こえなくなりそうな、微かな音だ。なんか、儚いなあとさびしくなってきそうだ。しかし、そこに集中し、心のチューニングを合わせることはできない。太鼓はまた、激しく、大きく鳴るからだ。あの、能のこころの揺れる感じ、それが太鼓で演じられる。下手から上手、上手から下手、一人ずつがおなじフレーズを続けて打って、音が渡る。笛(能管?)。お謡い。うすい水色の着物に、やわらかい黄褐色の袴をつけた若い人(白龍=花柳壽輔)が長い竿を持って登場した。まわりに踊り手がいて、白龍を囲んで船になったりその舳先で割れる波になったりする。白龍は見つけた羽衣を天人(坂東玉三郎)に返そうとしない。弱音の拍子がうつくしいが、天人が近づくと拍子が激しくなる。お謡いが、ブルガリア合唱みたいだなー。和音じゃないけど合ってるみたいな。不協和音なのに美しいみたいな。

 天人の冠から飾りの瓔珞が4本垂れていて、それがちらちらし、白い顔と赤く彩った目元を照らす。その揺れで、体全体が不安定に見える。そのせいでお能っぽく見えなくなるのは残念だけど、いるのかいないのか、この人、というところに気持ちが行くのはいい感じだ。天人は二つに分かれた太鼓の山台(?)の間に消え、返してもらった羽衣を身に着けて舞う。うつくしい。能面というのはこういう人のこの一瞬を永遠にするために考え出されたんじゃないかと思うなー。天人が足を上げて地を踏む、きっぱりと。扇を広げると飛んでるみたい。まわりに踊り手が来て、扇を動かすと、確かに風が起き、天人を高い所へ運んでいく。踊り手たちの扇が集まって、霞や雲になる。ふりかえる扇の美しさ。そして、銘々が扇をぱちりとしまう。あれ、今のゆめだったんじゃないのとその「ぱちり」の仕草が云う。

 裸足で腰に太鼓を斜めに提げた人たちが並ぶ。黒いベロアのような、ビロードのような、躰に貼りつく服だけれど、全然肉感がでない。太鼓を叩くのに必要な、厳しい筋肉が見て取れるだけ。なんというか、颯々としている。大きさも皮の張り方も違う太鼓は、色もばらばらだ。右足を少し前に出し、左足で体を支える。右の踵が少し浮いている人もいる。太鼓を聞いているうちに、観客席をさまようように、灯がやって来る。両手に灯を一つずつ持って、ゆっくり舞台に迫ってくる人々。ホリゾントに灯が這い登る。千灯供養を思い出す。弔っても弔っても消えない妄執。道成寺の娘(白拍子坂東玉三郎)は、邪恋の妄執で蛇体に変わる。蛇に変わっちゃったりしたら相手どんびきだし、恋にならないよね、とちょっと思うけど、「恋」と「恋の執念」は、別のものなのかもしれないな。愛ってホントに手に余る。

 金の烏帽子をかぶり、胸に小さな太鼓をつけて娘が踊り始めると、確かに女は太鼓を鳴らしているけれど、舞台に響く鼓童の太鼓の情炎に、鳴らされてもいるのだと思う。そのまなざしは蛇であって、同時に女でもある。そして彼女は太鼓なのだ。扱いかねる重い情念が、さっと舞い上がり、若い打ち手三人(颯々としている)のつくりだす仏像の前で、消えたように見えた。

 このあと、今回のプログラム中で、唯一、思い切り大きな太鼓を打つシーンがある。石橋の獅子を予告しているのだろうか。白いカシラがするすると現れると、揃えた前髪がふわっと風で乱れ、この鬘がどんなに軽いか(扱いにくそう)がはじめて感じられた。4人の獅子は鬘の両端をしっかりと手に持ち、くるりくるりと毛を振ってみせる。横に体を倒すように傾けたり、上下に首を振ったり、かしらは生き物のように鮮やかに動く。柿色の袖。白地に五色の袖。おおきな模様の金銀に光る上衣。白と赤の牡丹の花を持って美しく舞い納める。カーテンコールが何度も続いた。

新国立劇場小劇場 シス・カンパニー公演 KERA meets CHEKHOV vol.3/4 『ワーニャ伯父さん』

 揺れる葉叢、大きい葉、小さい葉、浅瀬で模様を描いて透明に盛り上がる小川の水、花、滴をためるくもの巣、丸く差し込む日の光。景色をぼーっとみていると、一つ一つが異なる音を発しているような気がしてくる。「調子」を感じる。このケラリーノ・サンドロヴィッチ演出の『ワーニャ伯父さん』にも、はっきり「調子」がある。

 婆やのマリーナ(水野あや)が編み物をし、エレーナ(宮沢りえ)はお茶を飲み、ヴォイニーツカヤ夫人(立石涼子)は読書に余念がなく、アーストロフ(横田栄司)は疲れ、ソーニャ(黒木華)は恋を隠す。ワーニャ(段田安則)はエレーナに魅かれていて、おおっぴらに大仰にそれを語る。

 交錯する思惑の違い、人々の佇まいのそれぞれの音が絡み合って、本当に美しい。その美しさは、「100年たったら」この絶望や哀しみが消えてしまう、覚えられてやしない、ってところから来るのだ。

 アーストロフが統計グラフをエレーナに見せて説明するが、エレーナはアーストロフのことを考えていて、アーストロフをじっと見る。こことても可笑しい。アーストロフは情事(森の番小屋)を思い、エレーナは「一生に一度」の恋を思う。この調子のくいちがい。可笑しく、悲しい。

 エレーナが出ていくと叫び、ワーニャが自分の行為にショックを受け、ソーニャが婆やを呼ぶシーン、ケラはここを3人とも同じ調子の音にそろえるのだが、私は高さの違う音の方がいいと思う。

 セレブリャーコフ(山崎一)が、明らかにそんなには痛くない痛風で大騒ぎしているほかは、案外嫌な奴ではない。ワーニャのあれほどの絶望を誘い出す、とすれば、もう少し絶対的なのでは。黒木華の凛とした声と心に動く恋のかげが、芝居を深いものにしている。