丸の内TOEI 『闇の歯車』

 (テレビなの映画なの?)

 要所要所で疑問が頭にひらめく。

 テレビだったらとってもよかったし満足する。まず、水も漏らさぬ男たちのキャスティング。誰一人見劣りしない。瑛太の眼の光、緒方直人のせっぱつまった充実、大地康雄の笑い、中村蒼のぼそぼそした甘さ、それを橋爪功がいなすように軽やかに束ねる。話は面白く、脚本を読んだ俳優はみなすぐ出るといったに違いない。考証も頑張ってるしお金もかかってる。特に瑛太は、どの画面を見ても引き緊っていて、ふらふらしない。ほんとの意味で核になってた。繊細な若い人と思ってたのに。

 でもねー。例えば提灯をヤモリが這うシーンをきっちり撮ってて、確かにいい塩梅にヤモリはそこに「居る」んだけど、その尺は長すぎる。いい所を捨てないと贅沢感出ないし、品がなくなると私は思う。そして女の人たちへの演技指導が不十分。妊娠した女の人がいつもおなかに手をやっているのは、「説明」で「演技」ではない。テレビだ。瑛太がびっくりするシーンも、あれは「説明」「手がかり」で演技とは言えない。あと「まずく」という発音が若者アクセントだった。これだけお金がかけられるプロジェクトなら、もう何回か撮ってもよかったんじゃないの。あと擬闘がまずくない?お腹を刺されたら江戸時代なら死んじゃうよ。緒方直人ががんばっているのに、最後のところが何か玩具めいていて、手に持ったもので安くなっちゃった。

 もっと女優さんにお金と手間をかけてほしい。鬢の毛がそそけるところとか(そそけないのだった)、大切に撮らないと、結果男優も光らない。女の人のことをよく考えないジャンルに明日はありません。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『クマのプーさん展』

 ニューヨーク公共図書館に所蔵されている本物でなく、複製されたプーやトラーやコブタがいるケースに近寄り、彼女と一緒に来た20代のお兄さんが「かわいい…」とつぶやいている。

 そっ、岩波の『クマのプーさん プー横丁にたった家』に載ってた本物の写真が、古びたおもちゃの怖さを写し出していたのに比べ、この複製たちはほんとにかわいい。プーの毛は陽気にくるくるカールし、眼が「遊んでおくれ」と言っている。トラーはぴょんと飛び掛かりそうに座り、コブタは手をのばして精一杯存在を主張している。

 これってクリストファー・ロビンの出てくるリアルなプーの物語、映画『グッバイ・クリストファー・ロビン』で使われた小道具だって。実際には、画家のシェパードが「プー」としてえがいたのは巻き毛の「プー」ではなく、シェパードの息子の持っていた「グラウラー」だった。(ある本の中の復刻された「プー」と「グラウラー」の並ぶ写真を見て、「どう見てもグラウラーがモデル」なのにびっくりした。)『クマのプーさん』はA.A.ミルンの作品ではあるが、それと同じくらい、E.H.シェパードの作品でもあるのだ。

 シェパードのスケッチ、たとえば、アッシュダウンの森を、ミルンと訪ね、その場でスケッチしたものや、木のスケッチ、コブタの家のためのスケッチなどを見ると、なめらかな紙の上を画家にとってちょうどいい濃さの鉛筆が気持ちよく走り(きっと鉛筆はちょうどいい感じに尖っていて)、木の表面を捉えるために描き進めば進むほど翳が寝かせた鉛筆から生まれてくる。シェパードの素早い的確さが目を引く。スケッチの、コブタを「ゴシゴシやる」カンガのスポンジが、コブタの頭(顔?)の真ん中にあたっているのを見て、くすくす笑うOLと一緒に、私もつい笑うのだった。

パルコ・プロデュース2019 『母と惑星について、および自転する女たちの記録』

 とても優れた戯曲を、とても優れた演出で描く母親の呪いと祝福の物語である。

 奔放な母峰子(キムラ緑子)の3人の娘は、峰子の遺灰を携えてイスタンブールへ旅に出る。母と、その周りを惑星のようにめぐる娘たち、破天荒な母親はまたその母から呪いと祝福を受けていた。

 母の呪いと祝福は、反転しながら顕れる。「あんたはブスだ(かわいい)」に始まって「賢い(頭が悪い)」へとつながり、「私に似て」「私に似ず」が締める。「碌でもない子ができる」と脅されることだってある。その呪詛と祝福からの離脱が、この脚本だとすーごく早くできちゃうんだねと思わないでもない。神、原爆を遠くに抱える長崎弁が演技のリアリティを助ける。背景のスクリーンが、母の寝る夏蒲団のようにも思えた。もっと面白くなるやりとりなのになあと端々を残念に思うが、田畑智子が(鈴木杏が、芳根京子が、)長崎のお姉さんに見えるとっさ。

 三女シオの芳根京子は、演劇的腕力という見地からいうと、ほぼゼロに近い。声は割れ、「父親にそっくりの」その立ち姿は頼りなく、ひょろひょろした草のようだ。

 ところが、2幕のキムラ緑子(好演)との対決シーンでの集中力、見捨てられたように泣き声を上げるその真率さと、「演技する」ことに捧げられた魂(その魂を支える細い腕が、真率さの重さにふるふる震えている)が素晴らしい。(そして峰子に向かって母の男の秘密を告げる時、シオの頬は赤く染まる。)泣き声は演出のミザンスを「まちがってる」と思わせ、酒を飲む鈴木杏の脚本の設定も「ちがうね」と否定させるくらい、時空を串刺しにする。田畑智子、叱りにくいよね。一考の余地がある。いいものをみた。

京都国立博物館 平成知新館 『日中平和友好条約締結40周年記念 特別企画 斉白石』

 気温15℃の春の日差しの中、窓越しの遠い芝生の上で、京都国立博物館の公式マスコット「トラりん」が来館者に愛嬌をふりまいている。「トラりん」は薄墨色と白の目立つとらの着ぐるみだ。館内の休憩所には、濃い桃色の服を着た10才くらいの中国人少女がいて、夢中でケータイを覗き込んでおり、「トラりん」に気づきもしない。トラりん見ないのー。見てあげてー。でもこの状況、なんかファンタジックでかわいい。白昼夢のようだ。とても斉白石に似合ってる。

 斉白石は湖南省の人、体が弱く野良仕事は無理だったので指物師になった。そこで考えついた意匠が評判を呼んで、有名画家の弟子となり、絵を学んだ。労働者出身の画家であることもあり、中国では大画家である。

 すぐに気づくことだが、斉白石の絵は、動物たちの目が皆かわいい。可憐。スウィートだ。じいっと見ていると、絵の点も線も、その滲みも、(石も木も家も羽毛も、)じんわりかわいい。ファンシー。普通の絵かきって、石は石のように、木は木のように、筆先が石に化(な)ったように、木に化ったように、画くものじゃない?世界が他者ですってかんじで。でもこの人、どの点も、どの線も、せんぶ「わたし」。分かれていない。こんなにうまくなかったら、きっと、意匠を考える人(デザイナー?)の箱に入れられちゃうか、意識せず(?)「わたし」がこぼれ出ているとおもわれて、アウトサイダーアートの分類に収まっていたかも。と考えた。

 印があんなに素敵なのに、讃が右肩上がりの癖の強い字なのは当時の流行だろうか。先達の呉昌碩に似てるけど、ぐっと下手。でも字にびびりがないし堂々と書いてる。字も「わたし」だからだろう。

 「かえるよー」京都発音のお姉さんに連れられてトラりんが帰っていく。女の子はやっぱりケータイの上に顔を伏せていた。

高円寺 カフェkuutamo 『ブックカフェ de 上方落語 笑福亭べ瓶』

 「今日の反応を見て次の会のオチを決めようと思います。」えっ。16日の。ごめんね。うっかりしてて。

 でも、このべ瓶さんの「死神」は、オチがどうのこうの言う以前の問題のような気がしたよ。つまりあの…どちらのオチも大して面白くない。理に落ちる。

 会場は劇場「座・高円寺」にほど近いカフェ「kuutamo」で、急な階段を上ると白い壁、白っぽい木の床、時代のついたライティングデスク、窓にベージュと青のカフェカーテンが見える。設えられた立派な高座の後ろに本がぎっしり入った本棚が二面にあり、どれもこれも全然読んだことがない。かろうじて『チポリーノの冒険』を知ってるくらい。しかも新訳になっててびっくりだ。あれ、ものすごく挿絵がかわいいよね。部屋の巾に並んで三人がようやく掛けられるスペースに、20人くらいの人が静かに座る。ここは、ここは、そうだ、屋根裏のリーサのお部屋、インゲヤードのお部屋、オンネリとアンネリのお部屋だ。そのかわいい完結した部屋の中で、高座に上がり、落語をやるべ瓶さんを、皮肉でもなんでもなく、心から尊敬した。えらいよあんた。と同時に、この女性客の多い客席で、この部屋で、強姦ネタのまくらを振るべ瓶さんを心の底からいやに思う。なんやねんあんた。それはないよね、とべ瓶さんの左後ろの壁にかかる緑色した点々のテキスタイルの額を見る。一つ目の話はエロ本におとうさんが『竜馬がゆく』のカバーをかけたために起きる可笑しい出来事。話の進み方がゆっくりで畳み掛けないので冗長になってしまう。作家の名前も並列で、運動部の連中を怒るときも「はなれろ」というばかりなので退屈。昭和57年生まれなら学生時代のこともよく憶えているはずなのに、特に穿ったネタもない。残念です。

 「死神」でも思うけど、べ瓶さんは「マジ」になった時の気持ちが胃の腑の方まで深く徹っていて、(明日からでも役者つとまるな)と感心する。でも役者じゃないし。「にいはん」「ねえはん」という呼び名が珍しく、そういう呼び方をする市井の人々のリアリティがもっとあればいいと思う。「お前の名前呻きよんのや」というの少し変、「呼びよんのや」のほうがいい。中心人物の「ヒデ」をもっとふっくら演じないと、話を引っ張っていけないよ。ふらふらした、魅力ある人に作ってほしい。「マジ」の力で話を持ってくの、限界がある。かわいくないとね。

 クリスマス、バレンタインデーと会ったけど、次私たちどうしようか?「死神」のあとなに?

すみだパークスタジオ 『扉座サテライト公演 LOVE LOVE LOVE 22』

 「きみとぼくには脳みそがある。他のやつらのは、《みそ》ばかりだ。」と、『くまのプーさん』で、たしかウサギがフクロに言うとった。

 一生に一度くらい、他人に脳を預け、演劇に没入する体験も、わるくないかもしれないなあ、とざわざわするパークスタジオ内で、ぼんやり物思うのだった。

 客入れからすでに演出は始まっていて、スタッフは舞台を小走りに走り、案内係は緊張した感じで話し、年寄も知ってるドリカムからヴォーカロイドの最近の曲までが大きく流れ、客席内の「湯加減」を上げにかかっているのだった。脳みそを手放さない脇役の中年者、でもぜんぜん大人らしくない自分は、「ふーん」と少し冷めた気持ちになる。上手下手から二人の青年が出て来て、気合を入れて青と赤の旗を振る。風を切る旗がきれい。『ロミオ(山中博志)とジュリエット(大浦雛乃)』が始まる。まず、男の人たちの「ヴェローナ」がきちんと聴こえない。特に林智和、伝統的な扉座発声。真情は伝わるけど割れていて、それじゃ大劇場に立てないよ。大浦雛乃はお姫様発声をしない珍しい女優で、役に近づくより、役の方から迎えに来てもらうというスタンスのようだ。「じぶん」が確立できて、発声がぱりっとしたら、いいかもしれない。

 今回一番よかったのは佐々木このみの猫(のびのびやっていた)と、最後に叫ぶ梅澤貴理子(わらった)だった。なにより、この二人には「脳」がある。「脳」を奪わず、便利に使わず(小器用にせず)、大切に育ててほしい。「さっちゃんの花火」の箕輪菜穂江、「実話」ってなかなか通じないよ。「ナマケモノ」が一番いい芝居してるようじゃダメ。みんな、ちゃんと自前の脳を持て。脳を預けてると、あっと言う間に年を取るよ。

新橋演舞場 『二月競春名作喜劇公演 華の太夫道中   おばあちゃんの子守歌』

 『華の太夫道中』 

美術 伊藤憙作。

 パンフレットの作・演出・題名の次に、その名の出ているのを見て、(あー、そうだろうなあ)と感じ入る。

 だってこの芝居、必ずしも「太夫さん」が主役じゃないもん。女の人たちが代々お灯明を上げ、格子を拭き、床を磨く島原遊郭の宝永楼、そこに流れる時間、引いては「京都」そのものを描こうとしている野心作なのだ。

 そこをばしっととらえた装置。宝永楼の内部は立派。でかい。小ゆるぎもしない。柱、お仏壇、厨、細緻にまた大胆に再現された宝永楼を、男たち、女たちが嬉しそうに、悲しそうに通り過ぎていく。

 戦争が終わって三年、労働争議の喧騒にまぎれて、2万円という金で売られてきた喜美太夫藤原紀香)と、宝永楼の女将おえい(波乃久里子)の交情が、ぽつりぽつりと舞台上に現れる。

 一番よかったのは3幕の太夫の道中を控えた宝永楼のざわめきの盛り上がりだ。あっちでお客様、こちらで男衆さんが草履をそろえ(何気なくてよかったよ)、いつもと容子の違う仲居頭(井上恵美子)がはきはき働き、禿は道中の歩き方の稽古をし、すべての騒ぎが有機的な生きものめいて盛り上がっていく。ここの演出がしっかりしているので、北条秀司の意図、伊藤憙作の装置が生きる。

 すこし頭のゆっくりした喜美太夫って、ジェルソミーナ(道・1954)がモデルかな。藤原紀香、よかった。足りない子という役は、賢い女の人なら皆できる。でも暗い気持ちにならずに見られるのは、北条秀司の「品」と、藤原紀香が無心だったせいだと思う。輪違屋主人善助(曾我廼家文童)とおえいのやりとりが、よかった。丹羽貞仁、控えめすぎる。遠慮しないでも少し客席向いて。3度も同じやり取りあるから工夫して。

 

 

『おばあちゃんの子守歌』

 「日本は20世紀をもう一回やりたがってる」という意見を見て、(そうなのかなあ)と思っていたけど、この芝居観ると、(もしかしてそうなの!?)とちょっと思う。

 なぜいま一度目の「東京オリンピック」の芝居?船場の製薬会社の令嬢喜代子(春本由香)が駆け落ちする。それをおさめに駆け落ち先まで出かける喜代子の祖母節子(水谷八重子)、祖母に続いて世間体を気にする父平太郎(渋谷天外)もやっぱりやって来る。悲しいこともありながら笑わせられ、よかったなあと思ってお客さんは帰っていくのかも。それならそれで私が何も言わなくてもいいよねと考えたりする。

 でもさ、これ、実は喜代子の境涯の裏に、小説『シズコズ・ドーター』(12歳で母が自殺、父はすぐに会社の部下と再婚、家の中で孤立)みたいな話がくっついているよね?じゃあそこもちゃんとやろうよ。言わなくてもみんな体の中にその重さをおさえてないとね。話が薄くなっちゃうよ。一場の平太郎とか、苦痛がないから只の説明に。

 昭和39年、女の人の24歳から先は断崖絶壁、「こしかけ」よりも長い期間働く女は「オールドミス」だった。世界は単純で、ものさしは一つ、それが懐かしいのかな。あの新婚家庭、あんなに貧しいのにテレビあったね。

 駄菓子屋の主人(曾我廼家寛太郎)のびっくりするところ、久しぶりに体が生き生きしている人を見た。水谷八重子(声大きくね)のみが赤ん坊の抱き方上手、扇治郎はクッションみたいにひっくり返していた。伊藤みどり、台詞忘れないように。

 新喜劇、これからどうすんの?20世紀もう一回やる?21世紀も随分過ぎちゃってるけど?