配信 『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』

 1曲目2曲目3曲目、椅子に腰かけギターを抱えた桑田佳祐はとても厳しい顔をして、こわい目つきで歌うのだ。ブルーノート東京、並んだテーブルに、キャンドルが無数に灯るのに、無人です。『桑田佳祐 静かな春の戯れ Live in Blue Note Tokyo』。これからこの会場の空気を観客なしで一人であたため、ノリをつくりだすのかー。たいへん。でもティン・パン・アレーの『ソバカスのある少女』とか、そんな顔で歌われちゃったらねー。

 居間の散らかったサイドテーブルの上に、うちもキャンドル出してみたけど、こわい顔の桑田の歌が、うすい。うすすぎる。目を離してついつい皿を台所へ運んだりする。イメージ喚起力がないんだもん。あっさり。

 この散漫な鑑賞が一変するのは6曲目の『愛のささくれ~Nobody loves me』から。「ちょいとそこ行く姐ちゃんがヤバい」、驚きの濃さ。濃淡つけてんの?この感じ、白塗りで空中から闇を取り出すような、今は亡き大野一雄の美しいダンスを思い出す。アングラだ。きれいに整備されていく街の奥底にある、湿ったセックスや、重い失恋や絶望が次々に現れる。鈍いナイフで「夜」の皮膚を裂くみたい、『簪/かんざし』『SO WHAT?』『グッバイ・ワルツ』と、「夜」の中身がどろりと流れ出してくる。中でも『SO WHAT?』は素晴らしくて、「一夜の情事」「基地」「ドアーズ」が混沌の中に重ねられ、歌の短い時間にヒコーキの轟音、ベッドの軋み、ジム・モリソンの『The End』が詰まっている。

 『グッバイ・ワルツ』の情感の濃い歌詞を読んでいると(歌詞が画面左下に邪魔にならないように出る)、とつぜん小津安二郎のことを考え、小津が自分の映画から、丁寧に注意深く取り除いた激しい情緒ってこんな感じだなと、「消えゆく街並みを憂うなよ」を、小津じゃん!と勝手に感動する。過ぎ去った時代への愛惜と、過ぎてゆく時代を眺める年配の男の絶望と深い諦めがある。

 浅川マキの『かもめ』と長谷川きよし加藤登紀子の『灰色の瞳』をいい感じにカヴァーしていたが、最後の最後で、桑田佳祐はこっそり失敗していた。しっかりしろー。

 正直、桑田が現在こんなことになってるとは知らなかった。ちょっとディランみたいで、「失われた歌謡曲」のひりひりする現在形みたいで、絶望と諦念の苦さがほんものだ。

 後半ずっと胸がどきどきしていた。スタッフとバンドに助けられ、椅子に座ったままの桑田の眉もだんだんほどけて行った。でもどうして椅子を立たないのだろう。小津より5歳も年上だからだろか。