浅草九劇 札幌座・道産子男闘呼倶楽部 『五月、忘れられた庭の片隅に花が咲く』東京公演

 鄭義信の濃い芝居。夕張の炭鉱、事故、そして静かに凋落してゆく街を、崩壊した小さな家族の中に映し出す。どこも手堅く、しっかりできていて、綻んだ関係をまるでギリシャ悲劇のように語る。これ鄭義信の得意技だよねー。いつも通り。でも、ものすっごく集中してしまいました。完全に線が切れて、トランス状態のようにも見える見捨てられた青年ハルヒコ(犬飼淳治)が、父アキヒコの兄タツ斎藤歩)と取っ組み合うと、私はもう目でそれとなく舞台上の凶器の有無をはらはら確認しちゃったのであった。みすぼらしい炭鉱住宅を、家族は出て行ったり、戻ってきたりする。前提となるのは、ハルヒコの母アケミ(智順)と、夫の兄タツとの断ち切れない、愛とも言い切れない繋がりなのだが、ここがねぇ。齋藤歩がタツを老人に作っているので、火花のようなスウィートさがゼロなのだ。そこがゼロだと、アケミの「やり直したい…」という悲しいつぶやきが宙に浮いちゃうよ。ただ逃げ出したい男に見える。それから、炭鉱事故を追想するのは、この人何回目なの?わからなかった。(目線決めて。)そんな男をひっつかまえてこっちを向かせかき口説くハルヒコは偉い。けどさ、犬飼淳治は喉をマックス使っているので、声が「ぎりぎり」。も少し抑制利かせないと、家庭の惨劇を至近距離から観るのもたいへんである。智順、観客が「わけを知った」後半よくなるが、冒頭の台詞うるさすぎる。ハルヒコの友人マッチャン(津村知与支)は達者な造形だが、ここ、鄭義信の危険信号、こんな記号的な男の人、もう時代に追い抜かれてる。笑いは『てなもんや三文オペラ』ほど拙くなかったように思う。長兄クニ(黒沼弘己)、もっと堂々としてていいよ。結局一番いいと思ったのは、炭鉱事故の犠牲者を「死んだ」ことにする判を取りに来たハヤシ(泉陽二)の厳しく抑制された芝居でした。

 (配役表がないので、名前がかたかなになっています。)