紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA  こまつ座 第145回公演 『吾輩は漱石である』

 「手紙を披くと、あなたの声がきこえるけれど、二度三度と読むうちに、その声は消えてしまいます。」っていうのあったよね。わたくし、この芝居を観て、そのことを考えました。

 私も(平埜生成がthe座 no.116で、本作が大好きだといっている)井上ひさしの評伝劇のなかで『吾輩は漱石である』が一番いいと思っていた。なぜなの?わからない。どうしてそう思ったのかなあ。泰平の江戸から急激に移り変わっていく世の中で、「個人」という物があるべきものとして現れてきて、そして「個」と「個」は引きちぎられるように離れて行って、「親」も「先祖」も「妻」も「朋友」も他人、それでほっとしたり苦しかったりする。開化のうしろで、明治はすぅすぅする「淋しさ」を持っていた。この「淋しさ」が漱石の作品に深く浸透していて、井上ひさしはそこを見抜いたのでしょう。どうすることもできない淋しさがこの芝居の本体で、その気配がゴドーの様に「いるけどいない」天皇を召喚し、「三千代たち」を生み出し、「猫」を発見する。この漱石のこころに井上ひさしはすんごくいい結末をつける。世界の裏側の淋しい少年(大事な役だよー。平埜生成)と、修善寺の大患を生き延びた表側の漱石(鈴木壮麻)を結びつけるのだ。失われた30分、失われた兆しを取り戻すように。

 けど。稽古一杯するうちに、皆熱心になっちゃって、熱くなっちゃって、「淋しさ(さむしさ)」が見えなくなっちゃっている。淋しさの「声」が聴こえません。最後のいいシーンが光ってこないよ。これ演出の問題では?理詰めでなく、淋しくないとね。

 賀来千香子、テレビで佐野史郎と出ていた頃と違い、声鍛えていて驚いたが、まだまだだ。肝心な大声のとこで芝居が萎む。栗田桃子もっとどかんと前に出ていいよ。おっちゃん(木津誠之)、小川三四郎(若松泰弘)、ランスロット(石母田史朗)キャラ立てる。