新国立劇場小劇場 シリーズ未来につなぐもの 『楽園』 

 うちの近所のお地蔵さんに頭を下げる人が年々増えてるのを見るにつけ、なんだろ、目には見えないもやもやした網、「従順」や「奉仕」をひたひたと要求してくるものを感じてひゃあーとビビっているのだが、いまのところだれもそれを気にしてないみたい。たとえば今日の『楽園』は、大変よくできた、面白い芝居だったけど、祭祀については、人間界と荒ぶる自然の間の、契約や、まじない、慰撫のように見えた。やばい側面〈強制〉、でないねぇ。増子倭文江の祭司の司さまが、ラジカセで踊るとき、背景の赤い花や、下がる蔓が、先端まで樹液のみなぎる、なんかこう、のたうつ危険なものに見えるはず。けどそこまで怖くない。ここがなー。弱いかなー。拝所でのやり取りは、軽妙で楽しく、底が割れてもドロドロしていない。こうした作劇と、祭祀の根が、嚙み合ってないのが惜しい。緑(生命、自然)が危険なら、祭祀も危険やん。

 どのキャストも「その人そのもの」に見え、手堅く、息があっている。「女の人は名前を奪われている」ことが名づけがないことから明らかだけど、テレビを作る「東京の人」(土井志央梨)にまず名前が与えられちゃうんだね。うーん。拝所にいる人たちは奪われてばっかりなの?沖縄に居る人、奪われてばっかりじゃない?と、ちょっと思った。

 劇中ですごいのは、司さまが腰かける色褪せたポリ容器で、このリアリティが作品を支える。おばさん(中原美千代)の涼しげな柄シャツ、その娘(西尾まり)の突然の関西弁(もっとはっきり)、若い子(豊原江理佳)のたばこの「年寄りが作り出した〈今風〉」ではない異物感、村長の娘(清水直子)と、区長の妻(深谷美歩)の対立するTシャツ。子供がいる、いない、ケッコンしている、していない、離婚している、していない、主義主張、いろいろな面で分断されるはずの女がここには祭祀のために集まっている。「東京の人」のエピソードがよくある感じで、ドキュメンタリー映像を撮るのに「今日行って今日撮る」凄まじさだった。「若い子」が理路整然と彼女を論破する。テレビの人のうっすいぺらぺらと、じぶんのぺらぺらを、そっと比べてみるのでした。