博多座 博多座開場二十五周年記念 『六月博多座大歌舞伎 夜の部 通し狂言 東海道四谷怪談』

 東京の観に来れないひとたちごめん。2024六月博多座大歌舞伎夜の部、通し狂言東海道四谷怪談』、よい舞台でした。始まり週の水曜日、例によって観客がとても少ないけど(県庁と市役所の偉い人、どうしたのさ、なにしてる?)、観終わったお客さんたちは、口々に「このままじゃ帰れん(感想を語り合いたい)!」と言ってました。

 毒と薬、この二つは作用しあって、一つの世界を構成している。毒と薬は紙一重で、どちらも劇(はげ)しい効果を持つ。民谷伊右衛門の紋所が「陰陽勾玉巴」(陰陽の、太極図、巴の白と黒が噛み合ってる。白の中には黒い丸、黒の中には白い丸がある)であるように、明と暗、正と邪も、毒と薬のように相対する性質で世界を作るのだ。

 東海道四谷怪談の世界では、美しい武家娘お袖(坂東新悟)が落ちぶれて楊枝店で房楊枝を売り、夜は地獄宿で身を売っている。ぢ、ぢごくー。それというのも塩冶の家が没落したからで、お袖の夫佐藤与茂七(尾上右近)は行方知れず(主の敵討ちのため市井に潜んでいる)、お袖の父左門(片岡亀藏)は貧のあまり謡(武士のたしなみ)をうたって乞食をする。塩冶の人々は正、対する高野師直のゆかりの栄える者たちは邪、このバランスを突き崩すため、作品世界はぐらぐら揺れる。文政期の世間は陽、仇討の徳目は陰だ。「伝家の」「妙薬」を持っている塩冶の浪人民谷伊右衛門尾上松也)は、仁のためでも義のためでも絶対薬を渡さない。病気の主人(実は塩冶の浪人)のため薬を奪った小仏小平(尾上右近)を拷問し、「盗みは盗み」と乾いた眼で言う。これ、現実的で当世風(文政期風?)の価値観だ。伊右衛門は、たった五両の借金のかたにサッサと薬をやってしまう。

「金」。貧窮している伊右衛門と、見物衆の世間では、金が何より重い。伊右衛門は病みついた妻お岩から、「金になるもの」を身ぐるみ剝ぐ。お岩は伊右衛門に横恋慕した娘(お梅=中村莟玉)をもつ隣の伊藤家から遣わされた「毒薬」で醜く相貌が変わる。「金」のために見かえられたお岩は、伊右衛門を決して許さない。「金」は「毒」だ、お岩は毒された世界を恨みの力でひっくり返してゆく。毒で毒を制するのだ。

 尾上右近、30代の素晴らしい集中力で、観客の集中力をも切らさない。美しく恐ろしい。しかし、「仇をうってもらいたさ」がもっと前面に出る台詞じゃないとなあ。「金」を制しようとする「薬」の無力さが出ない。着物はがれた後の襦袢がちょっとはだけすぎる。鉄漿つけて(私が伊右衛門の内儀です、って…)伊藤家にあいさつに行くとこは、くすぶっていた煙の中からちらちら火が見えないとなー。

 尾上松也、伏し目になって眼の中がまっくろい影になって見えるところで(再々そんな顔をするよね)目の奥の、怖い、暗い、悪い全世界がのぞかないとダメ。深くない。この人は金にすべてを売った文政期世界の落とし子なんだからさ。あと悪い薬を片手で受け取るけど、あれ、あり?薬を何とも思ってないにしろ、元武家の人は両手じゃない?自分の中で「決めて」いれば、どっちでもいいよ。左門を殺そうと思うのが、声をかけて呼びかける2回目か、そのあと独りごちるところかどっち?悪心兆すとこしっかりね。

 毒に薬が効いたのか、毒を毒で消したのか、与茂七と伊右衛門の大詰め素晴らしかった、カタルシス

 この演目がこのキャストで再演になり、お袖と直助(坂東彌十郎)のシーンがあって、一日かけてののんびりした(休憩30分が40分になるとか…)上演になるよう祈っています。

 莟玉、魂が躰を抜けて出てゆくくらい伊右衛門が好きなのがわかり、「あくがれでる」ってかんじでよかったなー。按摩宅悦(市村橘太郎)三方を気にする大慌てのとこ、初めて納得した。