ユーロスペース 『花筐』

 映画、すきかなあと思う。映画すきかなあ?シアターコクーンから3分くらいの所にユーロスペースあるのに全く行かず、知らずに血まみれ映画見ちゃって激怒する私は。好きなの?

 そういう大きい疑問符を頭の上に載せたまま、『花筐』を観に行く。

 『花筐』は壇一雄原作、青春の一瞬、全てが未分化な(すべてが性的で、すべてが性的でない)、不思議な季節を捉えた映画だ。語り手の榊山俊彦(窪塚俊介)、その友人の美しい鵜飼(満島真之介)、斜に構えて生きる吉良(長塚圭史)、おどけものの阿蘇柄本時生)は唐津の大学の予科の学生だ。昭和十二年、映画監督山中貞雄が応召した中国で死に、25歳の壇一雄には赤紙が来た。

 この時代の若い人たちは、「部品、消耗品としての死」を奨励され、行き着くところに「自然死でない死」が予定されている。その死を無視したり、受け入れかねたりしながら青春の日は過ぎる。「浪費」されていく日々。その歳月は、とても重い。大林宣彦の語る戦争は一通りではない。母たちの「お飛び!」という励ましであり教唆である声、戦死は「役に立つ」「意味ある」死なのかという疑問(そしてその阿片のようなもののかすかな誘惑)、生を断念する苦しみがつぶさに描かれる。

 千歳(門脇麦)が美那(矢作穂香)の写真を撮るとき、カシャッというシャッター音にどんどん間がなくなっていって、まるで映画のフィルムの回る音に聴こえてくる。(これが「映画が好き」っていうことだ)と思う。失われていく大切な毎日、消えてゆこうとする美しい人。それを定着し、留める。「映画が好き」はこの映画に振りかけられた魔法の粉だ、それは流れ星みたいに観客の胸に飛び込む。今この時代に『花筐』を撮り、送り出すことには大きな意味がある。大変困難な、素晴らしい仕事だと思う。

ブルーノート東京 ジョン・ピザレリ

 セカンドショウを終えたジョン・ピザレリが、小さな丸テーブルの前に腰かけ、軽くお酒を飲んでファンにサインをしている。

 ナット・キング・コールで聴いた曲、チェット・ベイカーで聴いた曲、勿論シナトラ、勿論ジョビン、今聴いたいろんな曲が、酵母みたいに体の中でふつふついってる。

 ブルーノートの舞台は思っているより狭く、ギターのピザレリ、ベースのマイク・カーン、ピアノのコンラッド・パシュクデュスキ、ドラムスのアンディ・ワトソンがぎっしりと立つ。黄色いギターに黄色の明かりがあたり、ピザレリは少し眩しそうにする。きらきらに磨かれたスタンウェイの鍵盤蓋にピアニストの早く動く指が映って、右の高音部に向かってかっこいいフレーズが移行していくのを見守る。ギターのストロークで右手が小指側と親指側に揺れる。口で歌う速いスキャットと、指さきが弾く絃が、凄く揃っている。2曲目、3曲目とどんどん集中がたかまり、はじける泡のような音がピアノとベースとギターとドラムスで、ナイフで削って組み合わせたようにぴったりだ。音が大きくなる。素晴らしいグルーヴ。ピザレリは大きな声を出さない。必ず声を上にぬく。歌い上げないんだなと思う。デリケートなのだ。

 フェイスブックもない時代にどうしてシナトラはジョビンと知り合いになれたのかなとジョビンの孫のダニエルに聞いた。シナトラはジョビンに直接電話を掛けたんだそうだ、というような話をする。朝六時から昼までジョビンは仕事をして、そのあとは「バーに行く」。ふうん。

 その話の後はボサノバを歌う。最後はものすごく達者にディランやビーチボーイズを歌ってくれる。ジェームズ・テイラーには瞠目しました。

武蔵野市民文化会館 大ホール 『ブルガリアン・ヴォイス アンジェリテ』

 不揃いな雪。堅雪、牡丹雪、どんな雪だってよく見ると形は不揃いだ。綿毛のような雪は身をゆすって回転しながら落ち、大きな雪は直線的にゆっくりと地面を目指す。細かい雪は風に流されて横ざまに下へ、下へと落ちてゆく。一つとして同じ雪片はないけれど、雪は緩やかに、夢みたいに、皆で呼吸をあわせて、息をつめながら降ってくる。

...っていうのが、すごーくブルガリア合唱みたいだなと思ったのは、一週間前に東京に大雪が降ったせいだと思うけど、2曲目のTHI VJATAR VEE『風が吹いている』という悲しい(たぶん)歌で、群唱をリードする人が進み出てコブシの利いた節を声を寂びさせながら歌い、その歌をほかの19人の声がデリケートに包んだ途端、脳がショートしたみたいになって、メモしようとしていた手は「雪」と書いたまま止まってしまったのだった。まるで、ゆっくり息づきながら降ってくる雪の野原の真ん中にいるみたいだったよー。

 20人の歌い手が、思い思いに意匠を凝らした民族衣装を着ていて、それぞれの好みが鮮やかに出ている。ベールは光沢のある赤、光沢のない赤、黄、青、白い帽子の人もいる、それをちいさな花の造花が飾っている。袖なしのワンピース様のものを着て、それを銀色の素敵なバックルのついたベルトなどで留めてある。ワンピースの下には美しい刺繍のブラウス、ワンピースの前には豪華な刺繍のエプロン、スカートの下から長く、あるいは短く、縁に刺繍のあるシュミーズがのぞいている。

 舞台には譜面台が一つ置いてあり、その上に何か載せられている。何だろと思っていたら、それはピアニカで、指揮のゲオルギ・ペトコフが、曲の始まる前に数音鳴らすのだった。

 歌い手は半円形に指揮者を囲み、下手に高音、上手に低音の人が並ぶ。ペトコフは左手で、高音部の難しい節回し(こぶし?)を細かく指示する。反逆者を隠す森の木の歌(LISTINI SE GORO)では、4つ、5つと主調が枝分かれするように終わる。例え二人で掛け合いのように歌っていても、それはブルガリア合唱なのだった。蜂の冬籠りの様子の歌(DAMBA)では、蜂のぶんぶんいう羽音を皆でスキャットして、一人が進み出て主調を歌う。ときどき、目を見かわして、笑顔になる。段々、指揮者の手が、繊細な音の絵を描いているように見えてくる。

 アンコールの、日本の『故郷』の前に歌った歌は、とても抽象的な難しい感じがした。こだまのようで、夢のよう。その夢には声がある。ブルガリアでは、何もかもが声を持っている。それは家の柱だろうが風だろうがパン種だろうが花だろうが同じだ。ブルガリアンヴォイスとは、こうした黙っているように見えるものたちの声を聴きとって歌うことなのだなと思う。

シアターコクーン・オンレパートリー2018 『プルートゥ PLUTO』

 ホース、操作盤、コード。今日は最前列、緊張しちゃうなあ。車輪、基盤、スイッチ、扇風機のガード。舞台前面にしつらえられたがらくたの、さまざまを眺めわたす。トルソー、えっ、マネキンの足の先。思わず席から立ち上がってしまう。下手の端の瓦礫から、ロボットの手が二本、空に向かって伸びている。灰白色の瓦礫の中に仕込まれた小さな蛍光灯が、ところどころで光る。確かにここにあるものは「がれき」で「がらくた」なんだけど、観ているうちにみなそれがロボットの顔に見えてくる。この悲しい感じ、これは皆、死に、壊れ、打ち棄てられて「悲しんでいる者たち」なのだ。

 前回の初演と一番変わったのは、芝居全体の「悲しみの総量」が増えていることだと思う。アブラー(吹越満)のちぎれた腕、悪夢で目を覚ますゲジヒト(大東駿介)の眉宇に漂うしっとりした悲しみ。ゲジヒトの妻ヘレナ(土屋太鳳)の第一声、「だいじょうぶ?」にこもっている悲しみ。ゲジヒトとヘレナが自分でもそれと知らずに悲しんでいるので、マニピュレーターがロボットである二人を操作するシーン(背後に一人両脇に一人ずつ三人のダンサーが細かく手に表情をつけて、ロボットの動作を指令し、ロボットたちはそれをなぞって自然に腕を動かしたり視線を遠く飛ばしたりする)も、何だか悲しさが倍増しである。悲しさはペッパーや花売りのアリにも貼りついていて、憎しみを動かす導火線となり爆薬となる。諸悪の根源であるようなMrルーズベルトにも悲しさがあることが暗示される。彼も悲しさの環の一部なのだ。憎しみの連鎖は、表裏一体でこの環、瓦礫とつながっている。アトム(森山未來)は瓦礫を拾い上げ、墓標をつくる。そこには何か希望がある。それは、あなたの悲しみを忘れないということだろうか。

DDD青山クロスシアター 『ぼくの友達』

 ふわっとした長めの髪にサングラス、黒いスーツに白いネクタイの青年トニー(辰巳雄大)。彼の正体はわからない。ただ感じよく笑いながら、邸宅の主イタリアン・マフィアのフランキー(田中健)に、「あなたの友達パーシー・ダンジェリーノ」の友達だといい続ける。トニーはぱっと見、「いかにもジャニーズ」の華奢な高校生のような若者だ。心なしか重心もちょっと不安定だし、頼りない。

 ところが芝居が進行し、身元がばれてくると、彼は一変する。ふらふらと地面に立っていたマジシャンの黒いステッキが、突如花束(それも生きている新鮮な花束)に変わるみたいなのだ。シェイクスピアのセリフ(蜷川に出たつもりでお願いします)やフランキーのまねがもう一つだし、ミントジュレップを飲んだ後の芝居が器用すぎるとか変身が遅いとかいろいろあるけれど、生き生きした爆発力がとても素晴らしい。炉に火の入った、エンジン全開の演技である。「地所」は「じしょ」、「一条の」は「ひとすじの」とも読むので気を付けて。落語だけでなく、本も読んでね。

 田中健のフランキーは、最初に椅子の上に出していた裸足がとてもチャーミングで、滑舌の甘さもそれで帳消しになるくらいかわいい「日曜日のおじさん」だった。日曜日にくつろいでいるおじさんが、思いがけなく恐ろしい人だという厚みがある。妻のシャロン香寿たつき)は、あけっぴろげで、体から信号(性的なフック)をたくさん発している。サインをもらう時のうれしがり方にとてもスケッチが効いていて、たくさんの人にサインしてきたのが生きているなあと思った。すてきな衣装がどれもよく似合っている。

 芝居はフランキーが資金を出すと言い出してから幾分失速。台本のせいもあるだろうけど集中が落ちる。ばたばたしている。もっと素早く終幕に持っていくことが肝要では。

シス・カンパニー公演 『近松心中物語』

 気鬱。でてくると傘屋与兵衛(池田成志)は、おとりまきの弥七(陣内将)にそんなことを言われる。

 舞台では亀屋忠兵衛(堤真一)と梅川(宮沢りえ)、与兵衛と女房お亀(小池栄子)の心中が二重に語られる。梅川忠兵衛が美しく散っていくのに対し、お亀と与兵衛は滑稽で無様な姿をさらす。なぜかって、与兵衛には現代人が投影されているからだ。

 「好き。(ほんとにすきだろうか?)」

 「楽しい。(ほんとにたのしいだろうか?)」

 いつも心に半疑問がついていて、「若君には気鬱の病」と茶化されてしまう。この気弱な憂鬱が形象化されなかったら、この芝居空っぽではなかろうか。

 池田成志の「第一幕その一」は、最初から戯画化されているところが残念である。その後登場するお亀の笑えるセリフが、実感に支えられて浮かないのと対照的だ。

 一方、忠兵衛はさそう女の手を振り切るときの伏し目、見送る梅川と別れて思い切って歩き去る首の向き、金を「調えてみせるよってな」と女の目を避けながら言う暗い翳などとてもよかった。梅川はセリフが少ないので、その客席からの登場の、しずしずと宿命が近づいてくる感じ、泣きながら店先にやって来る歩き方に、全ての思いのたけが籠められているのが素晴らしい。しかし、この二人には、渇望ということが大事なので、まっしぐらで、喉から手が出てなくちゃだめ。喉から手が出るほど欲しいものは、生きていたら手に入らないのだ。八右衛門(市川猿弥)、姑お今(銀粉蝶)が生き生きと演じ、槌屋小野武彦、妙閑(立石涼子)がしっかりと脇を固める。この芝居の生き死には、与兵衛にかかっている。

日生劇場 『黒蜥蜴』

 「フローティングワールド」

 と、思いながらゆっくり目を閉じる。「時間の冷たい急流」を、上手から下手に流れてゆくビルの窓、舞台奥からせり上がってくるエレベーターの骨組みの映像を見ていたら、目眩が来ちゃったのだ。

 たぶん、黒蜥蜴の棲む世界は、風に飛ばされる海の泡みたいに、その無情の鎧もろとも動かされて、「愛」に浸されていく。

 舞台には蒼い鉄に見えるアーチが二つあり、上手に二周するらせん階段がついている。アーチの間に大きな弧を描く半透明の窓ガラス様のものがかかり、これが動く。

 緑川夫人(中谷美紀)が宝石商の娘岩瀬早苗(相楽樹)や明智小五郎井上芳雄)と語る間、戦前のショウガールのようないでたちの黒蜥蜴の手下(原作では侏儒、小松詩乃、松尾望)たちが螺旋階段を伝って、離れたり、絡んだりしながらゆっくり踊る。この二人の存在が、「ピュアな悪」のエロスを漂わせていて、芝居を引き締める。会話の底にある昏いもの、甘美な死、夜の誘惑が、現れているのだ。「家庭の団欒」の外にあるものが、容易に想像できる。家庭の虚偽や愛のいかがわしさが剥がされるところは面白いが、三島が黒蜥蜴(中谷美紀)の恋心をむき出しにしていく無情さと言ったら、「明智小五郎、ずーっと黒蜥蜴の本心知っててずるいなあ」という気持ちにさせられ、常に明智がうわ手であることも(変装が鮮やか)、黒蜥蜴を少し可哀そうに見せる。黒蜥蜴は美しく、鋭い光を奥底に隠している。可憐な花のような(ルヴォーによれば星のような)最後のセリフと裏腹に、彼女は指輪の蓋を開ける。三島は手下の「青い亀」(本作では浅海ひかる、好演)に黒蜥蜴を抱き起させた。だが、ルヴォーはちがう。ここんとこを見て、私はほろりとした。それはまるで黒蜥蜴に捧げられた、可憐な花、可憐な星のようではないか。