FUKAIPRODUCE 羽衣 第22回公演 『瞬間光年』

 暗い舞台。波の音。スモーク。

 ランダムに4つ下げられたやや大きめの電球に、飾りのシートがうろこみたいに貼られている。宇宙のただなかに、電球のように吊るされて、自分のつま先越しに、底深い闇を見る。

 窓を開けようとしている男(男ちゃん=キムユス)。男がなかなか心を決めないので、窓がどこの窓だかわからないし、男の足元でうごめく四人の、とても性的な感じのするものたち(淀んだ空気=日高啓介、岡本陽介、飯田一期、石川朝日)が何なのかよく把握できない。やっと、男が窃視者などではなく、自分の部屋の窓を開けるかどうか考えているのだと知る。彼は窓を開けないことに決めた。その日買ったスツールが、宇宙船に変わる。男のリビドーが、宇宙船を飛ばす。宇宙船は太陽系の星を巡る。次々に抑えきれぬ性(さが)を背負った男女(うち一人はAI)が登場し、抑えきれない自分を語る。彼らは超新星となり、星の運命をたどる。

 白のオーガンジーで出来た淀んだ空気たちの衣装が奇妙で秀逸。白い全身タイツの顔のまわりをふわっとしたフードが二重に覆い、胴のあたりで三角形を構成し、足元をゆったり囲む。何というかこの衣装がとても「本気」である。笑ったりできない。プロのものとして真剣に受け止められる。この「本気」が、美しく歌わない羽衣の歌唱、綺麗に踊らない羽衣の踊りを支えている。前回の、目がこそばゆくなるような宮澤賢治的センスは影を潜めた。

hand clap man(岡本陽介)の壁に手を添えて立っている姿が昔の人気スターみたいで可笑しい。インドに行くといった時、当然、ボリウッド風をアレンジした踊りが見られる!とわくわくしたのに、素通りして残念。収拾のつかない膨張と爆発を、一言でおさめた手腕に感心した。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『プレイヤー』

 先週お能観たばっかりだからかもしれないが、異界って、目に立たないほどのゆるやかな坂をすり足でのぼり(あるいは下り)、気づかぬうちにたどり着いている場所なのだろうと思う。あるけどない、ないけどある、そんなところ。作者の前川知大も、異界について、パンフレットで能楽師の方と対談していた。

 地方の公共劇場が主催の、演劇公演の稽古場。地方の俳優、若手、有名ベテラン俳優があつまって、今は亡い新人作家の「PLAYER」という芝居の稽古をしている。「PLAYER」では、ある瞑想ワークショップの団体の中に、「死者」となって友人の肉体(それをPLAYERと呼ぶ)を通し蘇ってくるものが現れる。死者を通じてこの世界を再生しようとする指導者時枝(仲村トオル)に、警察官桜井(藤原竜也)は次第に浸潤されていく。

 入れ子構造の二重の芝居というけれど、そもそも演劇が皆で何かを共有し、テキストの言葉を立ち上げる「PLAYER」のものなので、実際には三重四重の複雑な構造である。最後の気が付いたら違う場所にいる感じが飛びぬけて素晴らしい。観ている私も浸潤されたと思うのだった。

 ただ、カルトの人々の言っていることがとても紋切り型で入りづらく、芝居の奥行きが能のあの、「観たこと全て夢」の「なかった感」に及ばない。「わたしという個人から解放される場所」と時枝が云うと、すぐに禅や能のことを考えたのに、馬場(本折最強さとし)の冥界めぐりのシーンなど浅く、「なま禅」風に仕立ててあるのかなーと思った。

 藤原竜也、冒頭の役に入り込む瞬間がわかりにくくて、そこが好き。足の裏がちょっと狭くて、場の空気がもひとつうまく吸えてない。白石加代子に似せた声は、あまり効果的でないと思う。

カクシンハン第11回公演 『タイタス・アンドロニカス』

 おもしろい!と驚愕し、さっきまであんなにパンフレット1500円に拘っていたのを忘れる。

 可動式の低いイントレに白い覆いが、いい具合に末枯れた感じで継ぎ目の皺を見せている。その上にぎっしりと立つ登場人物たち。エアロンになる俳優(岩崎MARK雄大)が、階数を英語で唱え、それは42階まで上昇するエレベーターだ。上がったエレベーターは急降下をはじめ、皆を時空を越えたところまで運んでいく。

 皮きりにサターナイナス(のぐち和美)が話し始めた途端、セリフの明晰さ、美しさに幸福感が押し寄せる。ちいさな目を見張ってみせるローマ人。聴きたくない話を聞きながら、爪をナイフで削っているローマ人。イントレの下に押し込まれたタモーラ(白倉裕二)の鍛えられた裸体が、幕のたるみや皺のトーンとよくあって、生々しく、スキャンダラスで、よく知っているような、全く知らないような、異国的な感じがする。

 この後木村龍之介の演出は、エアロンに変身していく岩崎の英語を使って、善悪というものが、いかに相対的であるかを簡単に説明する。これ、どうなのか。異化?間口を広げる?説明しすぎでは?

 シェークスピアは復讐ってなんだろうと深く考えていたと思う。カクシンハンの『タイタス・アンドロニカス』は、「穴」のなかで終わる。いつかスウェーデンの人に聞いたベルィマンのハムレットにもちょっと似ている。現代的な復讐の果ては、こうして何もかも終わってしまうっていうのが正解なのかもしれない。しかし、エアロンの子供への愛は、実はEVILそのもの、「生存への執着」、子供は「さらに続く復讐の元凶」なのではないだろうか、とちょっと考えたりした。この劇団にパンフレット1500円、全然払う、もっと払う、さらに大胆な、さらに美しい表現が生まれますようにと思った。

杉本文楽 『女殺油地獄』

 世田谷パブリックシアターの舞台の丈いっぱいに広がる大きな暗がりを、こちらも目をいっぱいに見張って見上げる。人形になったような気がする。あの暗さの向こうに、今日あたしが繰り出す膝、伸ばす指先の、決められた道筋があるのだ。そしてその先にキメラレタ死がある。てなことを考えながら舞台をながめていると、真ん中を止めて目のようになった幕が下りてきて、ひとつ、二つと柝の音がする。笛がなり、いわゆる「薄どろどろ」になって、鬼火が青く光る。中央に何か点々と光るものがあり、それが老人の人形の、着物の柄が光っているのだとわかってくる。老人は下手や上手でちょっと伸びをしてみせる。近松門左衛門。惜しい。このマイクに乗せた門左衛門の音が、不用意。それとどうして関西弁じゃないのか。近松自身による解説が済むと、三味線が三挺登場(鶴澤清治、鶴澤清志郎、鶴澤清馗)。たわんだ、ふしぎなアルペジオが聞こえてくる。湿気を含んだ空気が次第に重くなり、雲を呼び、暗くなる。手探りでゆっくりと、嵐の方へ、キメラレタ死の方へ、追いやられていく。三味線の糸の上を、しゅっと指を走らせるのが、嵐の息みたいだった。

 この後は素浄瑠璃(竹本千歳太夫、鶴澤藤蔵)で不良少年河内屋与兵衛の父親と母親との、子どもを見捨てることのできない辛い親ごころのくだり。子供って、絶対に姿が見えないとわかっていても、いつまでも曲がり角を振り返って様子を見てしまうような、諦めのつかない、始末に悪い、かわいいものなんだなと思った。

 とうとうお人形が登場する。深い舞台から、まず豊島屋女房お吉、それから間をおいて与兵衛。お吉を見守る与兵衛の気配が不吉。眼窩がかげると、怖い顔に見える。「不義になっても貸してくだされ」の所を近松人形が説明していたけど、それは説明じゃなく、芝居で見たい。凄惨な殺しの後、静寂にいつまでも滴る音がよかった。

日本総合悲劇協会 vol.6 『業音』

 〈好きなのにあの人はいない〉明るく暗く危険な愛の歌謡曲が女の声で次々にかかる。7か所で吊られた白い幕。緩んでる。〈あなたと会ったその日から恋の奴隷になりました〉幕の後ろに広がるのは、白く塗られた壁で、キルティングのようなランダムなふくらみを持っている。〈わたしはー、あなたにー、すべてをー、あずけたー〉なんとなく、幕ではなく膜だと思う。空調の風で幕がうっすら動き、たわみの襞が消えては現れる。この幕いきてる、とぞわぞわ来る。他者、とおもう。松尾スズキにとってそれは、女のことだ。ここにたくさんの時計がかかっているのは、女の月経や、子どもを持つリミットを表わしているのかもしれない。予期せぬ生理現象も他者なのだろう。

自殺願望の強い男堂本こういち(松尾スズキ)の妻杏子(伊勢志摩)は元アイドル歌手の土屋みどり(平岩紙)の車にひかれ、植物人間になってしまう。怒った堂本はみどりを拉致して無理やり妻にする。ここに宇都宮から出てきた兄妹(宮崎吐夢池津祥子)や、杏子に引き取られていた老婆財前(宍戸美和公)やゲイの丈太郎(村杉蝉之介)がからみ、魂と肉体、神と業をめぐる物語が進行する。

 予想もつかず、憎むこともできない他者、もしそれを拒絶するのであれば、丈太郎のようにゲイとなるしかない。しかし、丈太郎もまた限りなく自己増殖したいという業に取りつかれている。「生殖」も「テロ」も業だ。そしてどうやらその業は皆、自己愛から生まれている。松尾スズキは口(聖)から尻の穴(俗)を強い線で貫き、さらにそれをひっくり返してみせる。最後に他者みどりはスティグマとともに一人残される。この扱い、どうなのか。Go on。ただの女嫌いに見える。終幕弱く、スティグマが聖化したように見えないのである。役者はみんなよく、ダンスが素晴らしい。

渋谷TOHO 『メアリと魔女の花』

 『君の名は』があんなに当たったのは、6年前のあの地震津波の傷を、語りなおして慰め、なだめ和らげてくれたからだ。大きな天災に遭ったあのトラウマと同じように、原発事故のこと、原子爆弾のことも、日本に住む人々の深い傷になっている。あの時、爆発させないために、取れた手立ては何か。どんな態度で、臨めばよかったのか。『メアリと魔女の花』は、それを語りなおしてくれているように見える。鎮めたい。苦痛を軽くしたい。これは私の、良心の痛みなのだ。

 米林が作った『借りぐらしのアリエッティ』『思い出のマーニー』に比べて、この作品は数倍面白く感じる。冒頭から観客を燃える森に連れ去り、圧倒する。ほうきに乗った少女が凄い勢いで追手から逃げる。腕のような黒雲が、少女を掴もうとする。どのシーンにも、宮崎駿の刻印がくっきりと押されている。しかし、米林は宮崎から、もう逃れようとしていないし、追いかけようともしていない。宮崎駿の影響を、ストーリーテリングの骨法として受け継ぎ、自分の物語を語る。宮崎は私たちにとって、大切な「語り手と受け手の共有財産」となっているのだ。

 少女メアリ(声:杉咲花)の日常を囲む人々、シャーロット大叔母(声:大竹しのぶ)、お手伝いのバンクス(声:渡辺えり)、庭師ゼベディ(声:遠藤憲一)がトーンを抑え、静かな声を出すのが、とても好ましい。残念なのはピーター(声:神木隆之介)のキャラクターデザインと脚本が、生き生きしていないことだ。神木隆之介がどんなに頑張っても、ただハンサムな少年に見えた。

 動物たちをみると、原発事故で街に放たれた牛や馬を思い出し、心が激痛だ。メアリが花を捨てると潔さにほっとする。そして現実が、そのように進んでいないことを思い、再度胸が激痛なのだった。

明治座 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 幕末、横浜の港崎遊郭岩亀楼。病に伏せる亀遊花魁(中島亜梨沙)の世話をやく芸者お園(大地真央)。亀遊はアメリカ人イルウス(横内正)に気に入られてしまい、思う人にも裏切られたと思って剃刀で自害する。それがいつのまにか、立派な辞世の歌を作って死んだ攘夷の志と評判になり、その死を発見したお園は、亀遊を語ってちょっとした人気者だ。話はどんどん実際の亀遊のそれと似ても似つかぬものになっていく。噂を聞きつけて、攘夷派の侍たちが岩亀楼にやってきた。

 通辞の藤吉どん(浜中文一)の、二幕初めの歌いだし「いつか」、ここが、綺麗で集中力があり、よかった。憧れと希望とデリケートさが詰まっていた。藤吉の芝居で一番重要なのは、愛する亀遊に通訳をしながら裏の本心を告白するのに、表から見るとそれが亀遊を売り買いする言葉になってしまっているところだ。もう少し亀遊を意識しているのがわかるようにやってほしい。

 大地真央のお園は、一幕、せりふを全て音楽的にしゃべる。せりふのひとつひとつが譜になっているようで、決して音を外さず、乱れない。二幕のコミカルなシーンでは、逆に堂々と外してくる。かっこいいと思ったが、閉めっきりの部屋で寝ている亀遊への同情心を示すため、あの場で一か所くらい破調が必要だと思う。

 岩亀楼に浪人たちがやってきたとき、刀を携えている手が左右まちまちなんだけど、あれは、①左手(今にも斬られそう)、②右手(そうでもない)、③左利き、どれかな。

 「うそ」と「ほんと」をめぐる面白い音楽劇となっているが、「圧し潰されていくほんと」「圧し潰されている女の人」の芝居としてはどうかなあ。少し物足りない。思誠塾の人々が冒頭ユニゾンでなく二声でうたい、なにかはっとした。