ナイロン100°C 44th SESSION 『ちょっと、まってください』

 開演前、キャスト表の、

     廣川三憲:男7(警察署長)

     藤田秀世:男8(会社員)

というその多めの数をみて、それがもうすでに、別役世界を拡張しているようで、ちょっとわくわくする。下手に、窓を照らす大きな月、青い月光。

 魚の開きのように、同じ建物が、外から中から、または俯瞰で眺められるようなセット。それは一軒のお屋敷である。ここに金持の一家が、男女の使用人を一人ずつ使って暮らしている。だが実は、この家にはもうお金がない。一方、街を放浪している乞食の一家の娘(女2、エミリー=水野美紀)が、この家の息子(男4、ピンカートン=遠藤雄弥)と結婚するといいざま、外から中へ、窓を使ってぽんと飛び込む。しかもそれは、息子と「知り合う」前なのだ。外と中、たくらみの裏と表が苦もなくつながり、夢と現実も段差なく滑らかに接続していて、登場人物の誰ひとり現実に引き戻そうと「つっこむ」者もなく、不条理世界がどこまでもどこまでも広がる。そこには風が吹き、月がのぼり、電信柱が立つ。別役の世界にケラは深く入り込み、その水をくみ上げ、いま、このたったいまのひりひりするような「雰囲気」を細緻に組み立て観客に向かって蒸散する。いわくいいがたい、「空気」とされるもの、それがこんなにも精巧に舞台上につくりだされていることに驚く。別役的飛行船の、決着も鮮やかだ。

 どの登場人物もうすきみわるく、かわいく、真剣で、乞食の兄(男2=大倉孝二)と妹(水野美紀)のかすかに背徳的な感じが印象にのこった。役者はみな、薄皮を剥がしたようにくっきりとうまい。ずれ続ける世界をしっかり体現している。

新国立劇場小劇場 『プライムたちの夜』

 暗い色の布地がかけられた安楽椅子に、85歳のマージョリー浅丘ルリ子)が、いかにも具合悪そうに横になると、自然と私の頭には、エッグチェアにきれいに足をそろえる浅丘ルリ子が蘇り、いやでも「記憶のニュアンス」について考えるのだった。人工知能?そんなこと、一個もおもわなかったよー。これは、「記憶」についての物語、記憶をいくら重ねても、他者が「本人」に迫ることのむずかしさを、色合いを変えながら伝えてくる。たとえそれが、母と娘であっても、夫と妻であっても、「本人」の予測しがたさに到ることはできない。最後のアンドロイドのシーンは、まるで記憶の亡霊の団欒のようで、ブラッドベリのファンタジーの味もし、孤独で、さびしいけれど、すてきな幕切れだった。

 浅丘ルリ子の芝居を間近にすると、何十年も主役を張ってきた女優の力をまざまざと感じる。それは第一に、研ぎ澄まされた聴く力だ。一日も稽古を欠かさないバレエダンサーの躰のような、しなやかで繊細な「黙っている時間」、そしてしたたかで鋼のように響く声、繻子のように滑らかな声、きらきらする華やかな声。

 一幕では上手からマージョリーが登場し、二幕では下手からテッサ(香寿たつき)が現れる。この演出を見ても、母と娘の、死者を間に挟んだ愛憎を描くドラマであることは明らかだ。しかし二人の母子関係=力関係の描写がうまくいっていない。場を仕切りたがる者同士であるならば、主導権を取ろうとするところがもっとあったほうがいいし、娘マイカと直接話もできないほど支配的(たぶん)であるテッサの造型と、鬱になっているテッサ(鬱ってもっと重くて圧倒的)のスケッチが、今一つ。別人格のテッサがよかっただけに、惜しいと思う。

シアターコクーン・オンレパートリー2017 『24番地の桜の園』

 くしだかずよし、攻めてる。そこにすごく吃驚する。尊敬する。この攻めの姿勢を評価するかどうかで、作品の評判が、変わっちゃうんだろうなー。

 ヒロインのリューバ(ラネーフスカヤ夫人)を親しみやすい小林聡美が演じる。原作に、「気さくで、さばさばして」(神西清訳)いるとあるから、適っているけど、日本では、本当に貴族だった人などが演じているので、ここも「攻め」だとおもった。

 閉じている舞台には濃緑色の羅紗を思わせる幕がかかっている。ビリヤード台の感触。ツークッションでセンターポケットへ、とレオニード(ガーエフのこと=風間杜夫)のセリフが聞こえてきそうだ。

 リューバやアーニャ(松井玲奈)の衣装が、頭と手足が木で出来た布人形のそれのようでものすごくかわいく、フィギュアがあったらほしいくらいである。窓やドアのついた壁は使用人たちの人力で滑るように動き、主人たちは労せずに家の内外を行き来する。一幕の照明は枠に四角く吊るされて、セットの上に低く下がり、登場人物のやり取りは、記憶がしばしばそうであるように、そこのみが明るく照らされる。フィールス(大森博史)のいいセリフが早々と出て、驚いて笑ってしまったが、行きつ戻りつする全ての対話やシーンが、それぞれシャボン玉に入ってふっと飛んでいくように儚かった。だが、ビリヤードみたいにちょっとせわしない。どっちかだとよかった。

 二幕に入ると桜の園を出る人々が、ディアスポラや引き揚げや亡命や震災の避難に重ねあわされている。「わらうところ」とそうでないところが、夢のように入り混じっていて、チューニングがむずかしい。ロパーヒン(高橋克典)が歌を交えて高揚する場面とてもよかったが、コンパクトにね。

イキウメ 『散歩する侵略者』

 高速道路の車の音と、波の音とが混ざって聴こえるような。けれどやっぱり波の音だろうか。はるか遠くから打ち寄せる長く続く波音。悪い夢のように椅子がいくつも、思い思いの格好で倒れている。アスファルトの上にアスファルトが乗り上げたように見える三分割された舞台、真ん中の地面は坂になっている。その坂の上に立って、こちらに背を向けた一人の男が海を見ている。男の名前は加瀬真治(浜田信也)。三日間行方不明になった後、保護された。しかし彼はもう以前の真治ではない。脳の病気らしいと診断された真治は、毎日散歩に出かける。同時に、町には奇妙な病気が流行り出し、隣国との軍事的な緊張が高まる中、残酷な心中事件が起きる。

 観終わって、あの長い波の音は、恐怖を運んでいたんだなーと思う。薄い皮一枚隔てて私たちを浸す恐怖、頬を掠めながら振り下ろされる刃。今にもはじまりそうな戦争、普段は意識しない、世代の違うものたちへの畏怖(大窪人衛と天野はなが楽しげに悪魔的な若い“異物”を演じる)、夫や妻の人格が変化してしまう姿。皮一枚で危うく成立している毎日を、芝居は衝く。でも奪われるばかりでもない。仕事をやめた青年丸尾清一(森下創)は、自由になり、新しい考え方を得る。

 浜田信也がまばたきさえ抑え、「人格が変わって帰ってきた男」を演じる。全編通して、とても素敵な男の人に見えた。全員がストイックに話の結構を支え、そこから生まれるリアリティが恐怖やカタルシスを成立させている。内田慈、先走った気持ちが溢れちゃわないように気を付けてね。

 妻加瀬鳴海(内田慈)の、真治の肩をおさえる手が優しく、あの概念は、もしかしたら、奪いきれないのかもしれないとロマンチックなことをちらりと考えたのだった。

東京芸術劇場 『表に出ろぃっ!』English version  ”One Green Bottle"

 「テレビを体に埋め込まれた部屋」、配線色のゴールドとシルバーとコッパーがだんだらに、揚幕みたいにすべてを染め分ける。

 開演10分、イヤホンガイドを外す。なぜなら、目の前の芝居とイヤホンの中、二重に芝居が進行し、ニュアンスが複雑になりすぎて追いきれないし、何より見ている芝居が面白いからだ。これ、どっちとも聞ける人がいれば、それはそれで楽しいと思う。でも英語駄目な人がイヤホンガイド取ったって、ぜんぜん大丈夫だ。

 まず父(ボー、名前のついているところが西洋風だなと思った=キャサリン・ハンター)が古典芸能のレジェンド的存在で遊園地に行きたがっていること、母(ブー=野田秀樹)がアイドルのコンサートに行きたくて熱くなっていること、娘(ピクル=グリン・プリチャード)は大事な友人との待ち合わせがあること、これだけをおさえていれば、あとは芝居が面白い所に連れて行ってくれ、思わずつりこまれることの連続である。特に、父が遊園地で見せる変化や娘がカルトを語り始める時に感じる空間の広がり方などがよかった。

 現代のルータースマホなしではどうにもならない社会や、孤立した核家族の孤立した成員を語る芝居だと、きれいにまとめることができる。クイズのdeathのくだりでためらいがないのは、意味がつきすぎちゃうからかな。ドライな会話?野田秀樹は実は、シンプルで素直な人なのだなと感じる。ガードを下げ、自分を曝し、相手の繰り出すパンチを待っている。ってところにパンチを出すのも気が引けるけど、話も作者の動機、フラストレーションも単純で、深さが足りない。家族それぞれの孤独やそれぞれへの怒りの切っ先を鈍く感じた。なにより、渇き、そして「水」というコントラストが、もっと鮮やかだったらよかったと思う。

東京芸術劇場 東京芸術祭2017芸劇オータムセレクション『オセロ―』

 軍服姿の男(キャシオー=ロベルト・デ・ホーフ)が背景の襞の寄った幕を次々に剥がすと、幕は風をはらんで躍り上がり、沈み込み、舞台の人物に飛び掛かる制御できない巨大な生き物のように見える。中から現れるのは鉄骨の矩形の部屋、細い黒い骨組みを除いてすべてが大きなガラス面で出来ていて、裏側には出入り口が二つ付き、正面はスライドで開く。薄い白い華奢なカーテンが、中と外を隔てたり、引き開けられて中をむき出しにしたりする。

この矩形の部屋が、ある時は手の中の心のように、小さい、または見えないものを表わしていて(デズデモーナ=ヘレーヌ・デヴォス  は中で雑誌を読み、オセロ―の心の中の点景のようだ)、ある時は愛するものたちを愛の言葉の真っ最中にもばらばらにしている絶望的なディスコミュニケーションを硬質に表現する。ロダリーゴー(ハルム・デュコ・スヒュッツ)がキャシオーを攻撃するくだりでは、部屋はものすごい勢いで現代に流れ着き、部屋の向こうで殺される女(ビアンカ=アンネ-クリス・スフルティング)はまるで知っている誰かであるような気がする。そして終幕、オセロー(ハンス・ケスティング)がデズデモーナを殺し、イアーゴー(ルーラント・フェルンハウツ)がエミリア(ハリナ・ライン)を殺すこの部屋は、どこかの家、どこかのマンションの一室にぴったりとおさまり、今も不信と疑いと嫉妬のために繰り返されるありふれた殺人を、身近にひきおこされたリアリティある悲劇にしてみせる。

 軍人たちの面子と「おとこらしさ」、ムーア人、アラブ人であることの影が精妙にシェイクスピアを彩る。オセローは肉体は老境に向かいながら(下降)、その年齢と軍功にふさわしい地位を(上昇)を得ている、ということが、服の脱ぎ着で明快に受け取れる。イアーゴーが口をきけなくなるのが何故かが、わかりやすくて怖い。

劇団スーパー・エキセントリック・シアター 第55回本公演 『カジノ・シティをぶっとばせ!!~丁半コマ揃いました~』

 いろいろびっくりである。まずキャストの配役表がない。誰が誰だかわからない。1000円を超える立派なパンフレットがついているのに。カジノを日本に作るあれやこれ、その候補地の一つ京都の片田舎、梶高校の同窓会のシーンが、冒頭なのにかなりのりが悪い。清水(きよみず)京都市長三宅裕司)の動きもぎこちない。どこか悪いのかな。辛そうに見えた。三宅裕司のぎこちなさがやっとおさまり、芝居がなめらかになるのは、市長(のちに府知事)の友人伏見(小倉久寛)が登場してからである。三宅の目が小さく躍る。うーん。妻の「清水音羽」がすごくおもしろく、「秘書の本願寺」も滑舌がびしっとしているのに、三宅は彼らと本気を出してコントしない。女優が裸体になってもいやらしくないことがあり、その芝居にエロスのない世界の憩いを求めて若い女たちが集まる時代。そんな時代になってますよと言いたい。

 「ミュージカル・アクション・コメディをコンセプトに、社会に警鐘を鳴らし、かつその重厚なテーマを笑いというオブラートに包み、より多くのお客様に伝わる作品を作り続ける」(パンフレット、(株)スーパーエキセントリックシアター代表取締役大関真)。昔々、戦前の軽演劇のころから今に至るまでの流れの中で、こんな風に、弱いものを撃つ芝居ってあったんだろうか。あったんだろうね。そしてやっぱこの(株)っていうのが曲者だよね。お金が流れる=善だもん。ルーツの違うものが悪の手先だったという最終的な形に仰天した。台本吉高寿男。その異質な人々が静かに紛れ込み、不気味な照明に包まれる。演出は三宅裕司だ。

 「日本人は最高の民族だ」(パンフレット、三宅裕司)。そう、でもね、いろんな国のいろんな人が、自国をそう思っていることをお忘れなく。