シアター風姿花伝 カクシンハン第13回ロングラン公演「薔薇戦争」WARS OF THE ROSES 『リチャード三世』

 王冠は血塗られた太陽だ。

 グロスター公リチャード(河内大和)は太陽の影にうつる自分のねじれた姿を呪いながら、激しく王冠を求める。七枚に分かれているくしゃくしゃの和紙のような後景のスクリーンの間から、リチャードは足先を見せ、逆子として生まれる。河内大和の背は曲がって、鍛えられた腕が奇妙に目立ち、右足はつま先しか地につかなくて、ダンサーのような上靴をはいているのに、左足には重い軍人風のブーツがある。人が去るとリチャードは軽く、小さく本音を言うが、それは暗く、重い。彼は辛抱強く淡々と身内を陥れ、自分を仇と憎む女(アン=真以美)の愛を勝ち取る。アン、弱い。もっと流れるように、息継ぎスムーズに。

 リチャードが王位に昇ろうとするときの宣伝と作られた熱狂は、観客をたやすく巻き込む。あんまりかんたんなので(やだわー。)と思うのだった。そのあと突然スクリーンに映し出された不意打ちの昏さ、それから10分の休憩。拍手した人困惑してるかなと辺りを見回すが、別に芝居なのでいいと思っているのか、皆そのことには触れないのだ。そんなもんなのかなあ。『ヘンリー六世』の4時間半、『リチャード三世』の半分を使ってたどり着いた現代の私たちの、醜悪さのただなかにいるのに。

 宮本裕子は王妃のかなしみを手堅く演じ、そこに覆いかぶさるようにランカスター家のマーガレット(真以美)がいることで物語の模様が大きく複雑になる。

 岩崎MARK雄大エドワードは一度ほんとうに心からさめざめと泣きながら演じた方がいいのでは。いつも「芯」をよけてる感じがする。よけると人生短いよ。

 近藤修大、ケイツビー、いい役だね。がんばれ。

 

 

 

 

 

 

シアター風姿花伝 カクシンハン第13回ロングラン公演「薔薇戦争」WARS OF THE ROSES 『ヘンリー六世』

 文句はいろいろあった。劇場のサイズ感がつかめていず、皆怒鳴って声が割れている。只でさえ役柄の把握が難しいのに、赤薔薇ランカスター家のグロスター公ハンフリー(別所晋)と白薔薇ヨーク家のリチャード・プランタジネット(大塚航二朗)が、髭の生やし方から顔の感じまでが似通っていて見分けにくい。工夫はされているが、脚本以上のことが起こらない。どうしたのさー。

 しかしそれもヘンリー六世(鈴木彰紀)の独白にかぶせて三味線が鳴り響くまで。ここで本当にはっとする。居並ぶ赤いジャージと白いジャージの人々を割って、冒頭でヘンリー王はホイッスルを吹き鳴らし、今から「外的な時間」「ゲーム(戦争)の時間」が強制的に流れることが、ユージ・レルレ・カワグチの刻むドラムスもあって一目瞭然なのだが、それとはべつに、三味線は、「内的時間」「個人の時間」が歴史にはあり、それは自由に伸縮しながら生き物の中を「流れている」と「わからせる。」ん?してみるとキャストの人たちは、もっと個人時間生きなくちゃダメじゃない?簡単に言うと、深さが足りないよ。全体の時間の時は怒鳴ったとしても、劣等感卑屈追従嫉妬愛怒りなど、心底から、心の裂け目からやらなくちゃ。カクシンハンはどっちかというと、スキル優先になりがちで、「肚から言う」っていう愚直なとこが薄い。ついでに言うと、肚から言うのと怒鳴るのは違います。

 最後のマーガレット(真以美)の慟哭はすばらしかったが、他の箇所ももっとできる。

 私はウォリック伯の野村龍一に一番可能性を感じた。とんでもない恰好でいい台詞を言う面白い役で、この配役に野村はよく応えていたと思う。ヨーク家の記念写真の後ろに、観客の私たちはいる。「小休止」の平和の時間に、流れ込んでいる。

東京芸術劇場 プレイハウス 『お気に召すまま』

 赤い幕が襞を寄せて「額縁」の中にある。開演時間が近づくと、幕は船の帆のように風を孕んでかすかにふくらむのだった。

 私の頭の中では、あの幕は風で手前の客席の方へあおられて、高く高く、裾がミラーボールにつくくらいに持ち上がり、役者たちは「額縁」の「消失点」に消えていくのではなく、客の方へ雪崩れてくる。

 当代一の若手女優と、当代一の人気若手俳優をフィーチャーして、これ?役割や服で選ばされている「自分」、それを外していったら自分て何っていう話だったのか。最初、シーリア(中嶋朋子)が「ソナタ」「アナタ」「オマエ」とロザリンド(満島ひかり)を呼ぶところで、おっ、となったのだが、セックスのあれこれ、全てが露われている状態が、こんなに一本調子なものだとは。隠しているから顕れた時ドラマチックなんじゃないのかな。そのせいで、

 「あたしゃあんたに惚れとるばい、惚れとるばってんいわれんたい」(民謡:「おてもやん」)っていう、「いわれんわけ」が紙屑のように軽くなり、満島ひかりの動機が保たず(別にギャニミード〈満島ひかり二役〉とオーランド〈坂口健太郎〉が愛しあってもいいし)、結果、きゃあきゃあいうばっかりになってしまう。満島ひかり、まず会話しよう。台詞もきちんと発語できていない。冒頭のシーリアとロザリンドのシーンが、この『お気に召すまま』の世界を示さなければならないのに、まだまだ中途半端。(例えば扇って、社交界ではもっとたくさん使い方があったはず。)ここで置いて行かれちゃった。山地和弘がとても楽しげに堂々と二役を演じる。坂口健太郎古代ギリシャのオリンピック選手みたいだったが、ギャニミードを愛する人と思い込もうとする動機が薄い。みんな台詞言えてないよ。台詞ちゃんと言って。話はそれから。あと32回、がんばろう。

板橋区立文化会館大ホール 『柳家小三治独演会』

 板橋区大山、すてきなカフェのあるところ。凍らせた紅茶のキューブの上に紅茶を注ぎ、レモンのスライスを5、6枚浮かべて、レモンをつぶして飲む。ゆるいジャズっぽい音楽が聞こえ、冷えて汗を浮かべたコップのように、すべてがゆったりとくぐもって遠く感じられ、最高。と、いうような場所から10分、板橋区立文化会館で今日は柳家小三治独演会。

 会場に入るとホリゾントは青く、六曲二双の屏風の前に、高座がぴしっと設えられ、屏風と高座の間に足袋で歩く「道」が作られている。天井からサスペンションライトが真下の座布団を白く照らし、それは茶にも朱にも見えるけれど、最初に柳家三之助が登場した時に、紫だということが分かった。

 三之助の咄は「のめる」、八つぁんが言う幕開けの呼びかけ「ご隠居」が聴こえない。誰かわからない。「つまらねぇ」という口癖の建具屋の半公と、「これでいっぱい飲める」という口癖の八つぁんが、互いの口癖を直そうと、先に言った方を負けとして50銭賭けている。ご隠居の知恵を借りて半公を負かそうとする八つぁん、100本の練馬大根を小さい醤油樽に詰めようと思うが、「詰まるだろうか」「詰まらねえ」と言わせるために四苦八苦する。それと気づかない半公はおかみさんに大きな「四斗樽もってきてやれ」というのだった。すると八つぁんは「おかみさん!しまってていいの!」と慌てる。ここ大事じゃない?八つぁんのみならず、咄家の行住坐臥、ふらが出るところじゃないの。ここがだめ。ここがいまいちだった上、呼び名の半公と八つぁんが途中で一回入れ替わっちゃったね。将棋の手、金銀何とかの都詰めというのもよく聴こえなかった、というのは、言ってもわかんないしというこころだろうか、ご隠居はわかってるのでそこはちゃんと聞きたいです。

 つづいて小三治が高座に上がる。磁器の湯のみの青と白が爽やかだ。

「おげんきですか。」間。

「私の方は、こんな程度ですね。」間。

ここはいい。笑える。でもとても間を取る。今日の咄は二つとも、とても間が長い。たたみかけない。どうしたんだ小三治

 今日いちばんおもしろかったところは、出雲の神さまの話だ。日本中の神さまが集まって、縁結びをする。

 「きょうはおまえの縁結びの番だよ」(神さま)

 「そうかい」(神さま)

 この、「そうかい」がとてもよかった。小三治の日常、考えていること、空気、すべてを背負った盤石の愛嬌。とても軽く添えて出すひとことなのに、全部が現れている。

 ここんとこは枕で、咄は『厩火事』と『千早ふる』だった。とにかく間がながい。女髪結いのおさきさんが、毎日夫婦げんかして泣きこむ先の「旦那」の身元がわからない。道で行き会うやっぱり女髪結いのおみつさんの手の疵の描写がリアルすぎ、そっちにフォーカスしちゃって、「行き会った」ってことが伝わらない。そして別れろが長いよ。

 オペラグラスだと、「間」もきちんと埋まってて、沈黙に火のしがぱりっとかかってる。でも一番後ろの席で、扉がひゅうひゅういうのを聴きながら座っていると、何だか凍らした紅茶に鬆(す)が入って、味が抜けちゃったように思えてくる。そのかわり、顔が涙でかゆくなるくらいに泣いちゃって、そこに髪の毛が貼りついているおさきさんの顔(見える)が、ちょっと平静になって旦那の話をまぜっかえすところは面白かった。最後に亭主の八が「もろこし」になってくれて、聴き手の私もおさきさんの100分の1くらい涙出た。でも落ちがある。そこが落語偉いなあ。

 中入り後、扉が開けっ放しになって音が止んだ。重畳。今度の話は「千早ふる」、これは学生の時すごく感心して(江戸時代の人凄いなあ)、友達に話そうとしたらすっかり忘れていたという思い出の噺だ。面白いけど、畳み掛けないからテンポわるい。梅雨明け、師匠、体調最悪?また行きます。

2019年7月シアタートラム公演『チック』関連企画 戯曲リーディング 『イザ ぼくの運命のひと』

 ヴォルフガング・ヘルンドルフ(1965-2013)ドイツの作家、脳腫瘍を発病し、手を尽くしたが回復の見込みがなく、拳銃自殺。

 スクリーンでそんな作者の説明を読みながら、舞台を見ると、中央に上手と下手で少々高さの違う二重が置かれていて、アヒルの親子のお風呂玩具、海賊の宝箱、拳銃、洋書が、リーディングの始まるのを待っている。上手には赤と珊瑚色、ピンクの鮮やかだけどしっとりした色合いで設えられた少女の部屋、コーヒーテーブルの下に潜む、二つのくまちゃんのぬいぐるみと見つめあう。

 少女イザ、14歳、世界の時を止めようと思っている子、太陽を指でつまんで押し戻したいと思っている子、「大人になりたくない子」、そのせいで精神科に入院し、「クスリ」を飲んでいる子。女らしく振る舞うことを求められるちょうどその地点で、イザは旅にさまよい出る。ベージュの愛想のないTシャツ、膝までまくり上げた(ほそっこいすねがむき出し)迷彩パンツ、飛び跳ねる赤い髪、土井ケイトはイザを性別のないこどもらしく造型する。イザはのろい貨物船に飛び乗り、ずぶぬれで歩き回り、どこかうつろな大人の男たち(亀田佳明)の話を聴きつづける。

 このリーディングを輝かせていたのは、まず国広和毅の音楽である。わざとらしい所、気恥ずかしくなる所が一つもない。いやみなくリーディング――土井、亀田――によりそっている。

 亀田佳明の言葉がクリアできちんとイメージを伝えてくるのに比べ、土井の朗読はもひとつ隅々を「伝えよう」という気持ちに欠ける。それは演じることの方に懸命だったからだろう。土井のイザは素敵な女の子であった。子供時代を抑圧して鬱になる女の人たちの心の中に棲む、けしてけしてけして大人にならない子、アシダカグモと友達の幼年時代を手放さないイザだった。

M&Oplays produce 『二度目の夏』

岩松了版『レベッカ』。そう思ってみると水面下でこわいことがいろいろ起こっているような気がする。水面下のレベッカ。『レベッカ』って、ある大貴族のもとに嫁いだ女の子がえらい目に遭う話。屋敷は前の奥さんの気配でいっぱいで、夫は自分を愛してはいない。前の奥さんを崇拝する家政婦がいる。

 染色会社(ここが怖い!頭の中で染物を水にさらす工程に思いをめぐらすと怖い)を経営する田宮家の若い当主慎一郎(東出昌大)と妻いずみ(水上京香)は別荘で夏を過ごす。仕事で忙しい慎一郎は、いずみの話し相手として、自分の年下の親友北島(仲野太賀)を招いた。別荘は芝居のように慎一郎やいずみ、北島の動向をみまもる視線でいっぱいだ。慎一郎は当主として振る舞い、よき夫として振る舞い、親友として振る舞う。妻への結婚一周年プレゼントを衆目の中で渡す。慎一郎の真実ってなんだろうなと考えながら、その真実は辿りついたら『レベッカ』のようにとても矮さい者であるような気がする。手足の醜い小さな真実、世界のあらゆる真実は皆、微細に揺れ動いている。それが真実だとおもうことはできても、断言はできないと岩松了はいい、虚妄のうちに登場人物たちは生きる。愛は慎一郎を怯えさせる。愛の中では虚妄と揺れる真実、嫉妬が泉のように湧き出しているからだ。でもさ、「二度目」なんだよね。

 東出昌大、たとえば「そば粉」っていう台詞を、正確に丁寧に発語してほしい。「そば粉」、声が割れてるよ。あと、芝居がなめらかでなく、ヒントがいっぱい。その割にわたしわけわからなかったけど。まず、「台詞をちゃんという」ことを目標にした方がいい。自分のハードル上げすぎている。片桐はいり菅原永二の役をうらやましがっていたが、これもいい役だと思う。

新国立劇場小劇場 『骨と十字架』

 よーく調べたね。お疲れ様。解散。

 …ってなりました。聖職者の登場人物が5人、名前が呼ばれるのはたったの二回ほど、歌も出ないし踊りもない、しずしずと会話が進行するだけなのに、観客の注意をきちんとひきつける脚本だ。

 ティヤール神父(神農直隆)は古生物学者である。彼が進化を語った論文が問題となり、時代は20世紀(たぶん)だというのに彼は査問にかけられ、中国へ宣教師として追いやられる。彼はそこで北京原人を発見する。学問と神の岐路のように思われるその場所で、ティヤールは何を思うのか。

 ――という作品なのだろうか。これ、まだ作品ていえなくない?このプロット、まだ原プロットに過ぎなくない?ここに作家の意見や異なる成分が入って、それは初めて「ドラマ」になるんじゃないの?『骨と十字架』の助詞がかわるだけ?

 袂は「分かつ」もので「分ける」ものではないし、ハンコ、退屈なハンコみたいにきっちり調べられてて優等生。そんなら教科書読んだ方がいいし、冒頭など二重の含み(愛とか憎悪とか嫉妬)もなく淡々と進む。腕利きの役者が何人もいて、何とかしようとするが、そこが浮く。

 伊達暁が凄く成長していて(ひさしぶりだねー)、目を見張った。声が割れたの一か所だけ。でもティヤールにもっと死ぬほど嫉妬した方がいいと思うよ。この人にはそれだけの理由があるじゃん。弟子の佐藤裕基は、全力でティヤールを愛し、近藤芳正は渾身の力で否定する方がいい。『ベン・ハー』を撮ったとき、あまりの退屈さに、監督がメッサラはベン・ハーを愛していた(チャールトン・ヘストンには内緒)っていう裏プロットをこしらえたみたいにね。