シアタークリエ 『ラブズ・レイバーズ・ロスト ~恋の骨折り損~』

 心のチューニングがめっちゃ難しいミュージカルであった。シェークスピアの、何を思ったか王様と三人の学友、という多めの人数を踏襲し、そのうち二人は髪型が似て、その上途中でパジャマに着替える。混乱してしまう(見分けられない)展開だ。なぜか開演前にジュースを売りに来たバーテンのコスタード(遠山裕介)と、ぶっきらぼうなウェイトレスのジャケネッタ(田村芽美)が、二人だけ芝居の空気のチューニングがうまくいったのか、本番でも光っているという不思議。ちゃんと存在している。特に田村芽美は、ソロナンバー、『Love’s A Gun』が作中出色の出来で(歌の後半猛獣みたいに盛り上げすぎで駄目だけど)、言葉と感情をきちんと届けることができている。他の人々は、シェークスピアの台詞は言わなきゃいけないし、踊らなきゃいけないし、歌うシーンは多いしで、大変そうだった。コップの縁ぎりぎりまでちゃんと水は入っているが、表面張力で膨らんでくるものがない。溢れもしない。「たいへん」っていうのが見えちゃうのだ。海外の作品を抄訳して手渡された感じ、ライヴの息遣いや迫真性、「魅力」に欠ける。大学の先生たち、要る?要るように演じてほしい。ジャーマンポテトズのところが洒落ててよかった。

 中別府葵、歌いだしの「かれに」の所とてもスムーズでよかったが、「男は要らない」と歌う時、コーラス(wow wowっていうとこ)は、おなかの空いた犬(狼?)の遠吠えの気配がちらっとした方がいいと思う。

 ファーディナンド三浦涼介)、私は世代的に眉を剃っている男には髪一筋ほども心を動かされない。しかし、I don’t need loveと歌うまっすぐな声はよかった。眉毛このままいくの。あの眉毛にファンが多いのだろうか。

明治座 『めんたいぴりり  未来永劫編』

 い…逸材?博多華丸を見て仰天する。何よりもその体躯が、子供のころからちゃんとしたもの食べてましたって感じの、ノーブルな気配すらするガタイなのだ。よく分かっている衣装(松竹衣装)の人が、アイロンのかかったシャツと、サスペンダーの附いたズボンを着せていて、アメリカっぽい、スクエアな色気さえ漂っている。その上目鼻は大きく、芝居にいやみがない。架空の飯櫃シーンなどすばらしい。ドラフト一位。

 敢えて言うなら、感情の深さにやや欠ける。日頃から、重いことを流して、身体に落としこまないようにしているのかもしれない。腹に感情を落とさないよう緊張しているので、初演時声が嗄れたのだと思う。あのさ、ドッヂボールを真剣勝負でやるとき、相手が至近距離から力いっぱい投げたボールを、身体を丸めてどすっと受け止めるじゃない?あれがないの。華丸の芝居がこの『めんたいぴりり』の基調になっているために、大変面白く仕上がっているが、深さが少し足りないのだ。軽くていいから、深く。

 東憲司、以前(この芝居福岡の人以外誰が見るっちゃろか)という芝居を観たことがあったけど、とても成長している。シーンの切れ際のピンスポットに残す感情が、次のシーンに効いていて、芝居に地方を越えた普遍性がある。

 わき役の人々もきちんとキャラが立っていて、花島先生の大空ゆうひ、帰らない息子を待つ沙織さん(藤吉久美子)、主人公を支えるつよい妻千代子(酒井美紀)、よるべない丸尾老人(小松政夫)など、方向性は違うのに、どれもぶつかり合わず成立している。台詞が博多弁なので、そのリアリティで、街の人たちの予定調和な恥ずかしいやり取りも緩和されていた。ここ、要注意。

赤坂ACTシアター A New Musical 『FACTORY GIRLS~私が描く物語~』

 板垣恭一がんばった。日本の演劇が「長らく目を背けてきた」貧困と性差別をテーマに脚本を書き、アメリカに曲の三分の一を発注し演出した。題材はアメリカの19世紀の紡績工場、差別されてきた女たちを主人公とする「現在進行形の」(問題は大して変わってないから)物語である。

 これほどまでに、日本のエンタメ系(板垣による)の演劇人の心の清らかさと、その限界が露わになるとはなー。こういう問題をやろうとすること、それが男の人の手によって、というのが複雑な気持ちであるが素晴らしいとはいえる。

 まずセットが素晴らしい。鳥かごよりももっと目の詰まった、顔を押し付けてやっと息ができるような気のする骨組みの壁が、上手と下手に広がり、呼吸のたびに口の中に金気(かなけ)の味がする窮屈な苦しみを連想する。だが板垣は、開演すぐ、中央の幕を開けてバンドを見せる。(またこのバンドの前奏が弱い。)開けちゃっていいの?演出家の考える、女の人の無力感、閉塞感ってそんなもん?ここ最初に開けるのストライキストライキあったのなかったの?)のときじゃない?

 一人としてへぼな歌を歌う者もないのに、合間の芝居が大仰で古臭い。鴻上尚史もいまはこんなことやらない。大仰な芝居をしつつも、一音も外さないアボット・ローレンス(原田優一)がかっこよく見えた。名誉男性(?)役のソニンと会社に強く反発する柚希礼音の、役へのアプローチは真逆なのだろう。心情から役を作るソニンの台詞や歌は胸に沁みるが、型から入る柚希のそれは精巧なプラスチックの花びらのようだ。谷口ゆうなとコリ伽路の二重唱よかった。芝居の後半が盛り上がらず板垣にちょっと怒る。この後に続くはずの女の人のための芝居の機会を潰さないでほしいものだ。

サンパール荒川大ホール 『桃月庵白酒・柳家三三 二人会』

 台風の風がびゅうびゅう、近所の蕎麦屋さんは落語会に行く人たちで満員。サンパール荒川、緞帳は古いが座席もトイレも新しくてきれいだ。

 幕が上がると、ほいほいほいと軽やかに桃月庵あられが現れてふくふくに盛り上がった黄色い座布団にすっと座る。

 「いっぱいのお運びありがとうございます」あー。師匠の白酒に似ていい声だけど、いい声出そうとしている。いい声を人に聞かそうとしているし、自分でも聞こうとしている。いい声ってそれ以上でもそれ以下でもない、ツールだっていう心構えがないな。それじゃあ遠くまで行けないね。あられの開口一番は『子ほめ』、大家さんちに「灘の酒」が届いているのに、それ放り出して子供の生まれたたけさんの家へ行く。噺が二つに割れている感じ。だってわたし「灘の酒」が気になっちゃってしょうがないもん。隣に寝ているおじいさんを赤ん坊と見間違い、赤ん坊をやっと発見して、「ちいせえな!」「…育つかねえ」と物思わしげにいう所が一番面白かった。

 あられが去って、師匠の桃月庵白酒が、「新幹線」、「タルコフスキー」、「アマゾンプライム」とぶっ飛ばしていく。タルコフスキー、ぎりぎりいやみにならずよかった。

 今日の咄『みょうが宿』は以前も聴いた。あの時私はグルテンフリーを提案したけど(『ラ・ラ・ランド』!)、それもあっと言う間に古くなり、今も昔も天ぷらは大変だから、これでいいのかもしれない。敢えてケチをつけるなら、「わさび醤油とともに」の次は「大根おろしを添えて」じゃない?フランス料理店の穿ちって意味で。あと飛脚が宿を立つところがちょっとばたばたしてて、忘れ物を取りに戻った切り替え(宿屋の主人と)がぴりっとしなかった。

 次は柳家三三、めくりに現れる横棒6つに目がちかちかする。地味な感じのお兄さんだなあと思っていたけど、さすが巻上公一の後輩。すこし密度の濃い、「自分の時間」というような空気(切り取れるし、中に入れる)を持っていて、そこに入ると世界がうすいアンバー(こはく色)に見えるみたいなのだ。はちみつ羹か。『妾馬』は、八五郎が屋敷でいろんな目に合う所は省略して、映画的。井戸底を覗く裸の男(実は八五郎)が出るのがいい。ただ、伴天連っていうの、最初はさすがの八五郎も小声で云うんじゃないの。江戸時代って、誰かが畏れながらと訴え出たら、大変な目に遭うよね。(二回目はいいけど)海苔屋のばあさんの「あらみてたのね」って、三三さん45歳でしょ。あんまりだ。ふるすぎる。使いの侍の「居る」、臨場感が今一つ。でも動作がいちいち綺麗で様になってる。歩くところ、「大将のレコ」とか形がよかった。

 ここで中入り、この後まだ噺が二つあるが、『しの字嫌い』(三三)という噺は、どこが面白いかよく分からなかった。せいぞう(田舎者)の訛りがうまい。そこ?「し」と言いかけてやめるところのリアリティがないんだと思う。一番感心したのは三時四十分に終了予定の落語会の二部を、三時に始めてきっちり二十分で終えた三三の技量である。

 さいごは白酒の『笠碁』だった。とっても面白いのだが、なぜおかみさん突然出てくるの?「ぬれてけとはいってません」、唐突でびっくりした。笠の下で身をすぼめた太ったおじさんが、碁敵の家の店先を、左から右、右から左と通り過ぎる胡乱な動きがよく見え、笑った。ただ、どっちの人が8年前のひとで、どっちの人が1年前のひとなのかが、すこぉしわかりにくかったです。

CINE QUINTO シネクイント 『人間失格 太宰治と3人の女たち』

 マリアナ海溝。世界で最も深い海溝、深さ一万メートル越え。

 太宰と海溝と何の関係があるかと聞かれれば、正直ないわけだけど、太宰を扱うならばマリアナ海溝チャレンジャー海淵くらいの深さに、「傑作への渇望」がないとだめじゃない?この映画で唯一それを表わしていたのが、坂口安吾藤原竜也)の「…傑作とは思わなかった」という長めのショットである。ここ、長く残してくれてホントありがとうと思った。これがないと業(ごう)めちゃ薄(うす)だよこの映画。刀の切っ先のように目の前にちらつく傑作、海溝にかかる考えられないほどの水圧が太宰にかかるはず。

 妻美知子(宮沢りえ)が「傑作を」とかいうから安らげない、そこもよく見えない。太田静子(沢尻エリカ)の、すべてがセルロイドで出来ているかのような憧れ、恋、セックス(エロスゼロ)の造型が面白かった。

 静子(小栗旬呼びかける時、チズ子に聴こえる)、美知子、最後の愛人富栄(二階堂ふみ)、それぞれが太宰(小栗旬)と紡ぐ虚構に生き、太宰には「女が三人いる」という追いつめられた事実しか残らない。

 脚本がとてもよくできていて、津島家の玄関のセット、CGの街並みなどが出すぎず映画を助ける。特にあげるなら「お仕事」を巡る美知子、太宰、富栄の痛烈なやり取り、インク(父の業)で汚しあう母と子など、素晴らしいシーンがいっぱいだ。編集者佐倉(成田凌)儲け役。

 問題は、小栗旬ということになる。この人は考え抜く、思いつめるという経験が少なそうだ。詰めが甘いのだ。のっぴきならない、進退窮まる、窮して火の上を渡るようなところがないなと思った。そこが大事じゃん、太宰治

新宿武蔵野館 『ある船頭の話』

 ふーん。オダギリジョー、一撃で日本映画の「なあなあの背骨」折ったね。そのことでオダギリジョーが何としてもこの映画を撮りたかったのが何故か、わかる。撮影クリストファー・ドイル、衣装ワダエミ、音楽ティグラン・ハマシアン。村上虹郎川島鈴遥の若い二人に対する演技の演出もきっちりなされており、二人がぽかんとするシーンが一つもない。世界へ出て、つらい思い(たぶん)をしてきたオダギリの経験が十二分に生かされている。

 でもさ、クリストファー・ドイルの映像――ここに映る水こそが美しい女である――を観るうち、複雑な気分に襲われる。なぜ日本にはクリストファー・ドイルがいないんだろ?スタッフを育てる資金は十分なのか?なんでも「なあなあ」で済ませていない?

この映画のドイルが素晴らしい仕事をすることで、日本の役者が過去、「繕いものをするように必死になって、」怠惰な映像が語らないことを代弁してきたことがあからさまになってしまった。このような凄い撮影の場合、皆クローズドな「居る」状態で映ってOKなのに、役者は何かを言おう、表わそうと皺の一つまでもがオープン、これ見よがしなのである。そしてなんといっても、ダイアローグが、めっちゃまずい。説明台詞が多く、歯の浮くような(ひかりのひとつがおやじさんのような気がしてなあ)言わずもがなの言葉の群だ。皆大変苦労して硬い台詞をいい、音声のSEはわざとらしすぎる。

 オダギリジョー、なかなかやるということは分かった。次は説明を排し、台詞を磨き、スタッフにお金をかけて、出来ることなら育ててほしい。さもないと私たち、観る側も撮る側も、どんなに一生懸命逃げ出したって、最後は説明の海でおぼれ死んでしまうだろう。細野晴臣、淡々としていてよかった。

紀伊国屋サザンシアターTAKASHIMAYA 井上ひさしメモリアル10こまつ座第129回公演 『日の浦姫物語』

 1978年、『日の浦姫物語』。杉村春子が「わが子よぉ」というのを見て、「泣いた」と友達にウソを言いました。その当時、「泣けない」「無感動」ってことが自分の中で大きなテーマだったのだ。世界は私と関係なかった。こどもだもん。「近親相姦」という仕掛けは関係ない人々を「芝居」「物語」に引き込む、ずいぶんと荒っぽい、あざとい、古式ゆかしい手立てだなと今回見て思った。「近親相姦」=「哀れな」、「汚らわしい」、なんらかのつよい反応を引き出さずにはいられないよね。だから中世の作者はたくさんこの手を使ったんだろう。否応なく、世界の中に「私」を放り出す。

 三段のグリッド状の格子が何度も降りてきて、「哀れな」人々は隔てられていること、世界の物事には規矩があり、それは破れないこと、しかし、血や雪(=水)は上から下へ、それを抜けて流れてゆくことを示す。

 この鵜山仁演出の『日の浦姫物語』は、物語が悲惨を極める頂点で、巧妙に、ドライに、面白くなる。日の浦姫(朝海ひかる)と魚名(平埜生成)が事情を知り、赤ん坊と自分たちの関係性を詳しく説明するところなどがそうだ。悲惨と笑いは紙一重、すれすれに演じられる曲芸飛行のようだけど、そのせいか、日の浦姫の感情のつながり、魚名の当惑、混乱などはきれぎれで、薄まる。平埜生成、声を張ると割れちゃってがっかりだ。「魚尽くし」いまいち。弓を引くシーンはよかった。(沢田冬樹も)。

 舞台の上ではいつでもツブテがお手玉になり、お手玉がオアシや食い扶持にかわる。その可変性、小石が魔術師の手の中で美しい羽に変わるように、目をぱちぱちさせながら、水が絵巻物の中を流れ流れて格子を抜け、里を抜け、次第に海へたどり着くのを見守るのだ。