世田谷パブリックシアター 『子午線の祀り Requiem on the Great Meridian』

 天を貫く遠い彼方からの視線が、「息子の死」を見、その死を手をつかねて傍観していた「自分」を見、敗け、失われてゆく「我ら」をみる。自分もまた、その天の非情のめぐりを知る大乱の物語。

 2017年上演版の星空をもっとずっとかっこよくしたバージョンだけど、冒頭のアイデアは、いったん捨てた方がよかった。途中まで野村萬斎と気づかないナレーションが、「マイクを通して」(ここで興ざめ)重く聴こえてくるが、私は世代のせいか、学校の講堂で見せられた教育映画のそれに近く感じる。「足元」「あたまのてっぺん」を意識させる身体的なアプローチ、規矩を越えた感覚的な何かが欠けている。これじゃあやっぱり、時空を飛ばないよ。

 成河の義経は、声を甲高くし、威勢よくやってて素晴らしい。(が、余計なこともやっている。)これに対して萬斎の知盛は――知盛さまは――声を低くして応じる。こちらは足らない。もっと内省的な知盛さまでいてほしかったよ。そうでないと「宇宙のめぐり」とか感知できなくない?パンフレットにハムレットに似ていると萬斎が語っていたが、ハムレットとは違う。この役はもっと「小刀で」抉るような探究、心の弱さ、やさしさ、ほそさをさらすような芝居が求められているように思う。ハムレットで培ったものを出してるだけじゃなあ。よわい所をさらす、それは野村萬斎という俳優の課題である。

 松浦海之介、敵二人(岩崎正寛、神保良介)を両腕に抱え込み、「死出の供をせよ」と海に飛び込む能登守教経を、立ち回り含めきっちり演じている。でもさ、ちょっと足りない。このひと知盛に言いたいことも、かなしいことも、きっともっとあったんじゃないの。それが身体に出てないとね。知盛は「舞台奥で」あの最後の台詞を言い、教経は「舞台前面で」戦う。そこになにかしら意味がある。