下北沢 小劇場B1 TAAC『狂人なおもて往生をとぐ』

パンドラの箱が空いて、あらゆる悪徳、秘密がガサゴソ、ちゅーちゅー飛び出しているような現代と同じように、1969年ごろの日本でも、いろんな禁忌がさらけ出されつつあった、でも、近親相姦や教師の痴漢の衝迫力は、69年のほうが何倍もすごかったような気がする。山崎ハコに『兄妹心中』という歌があるが、それってもともと民間の伝承歌で、子供の頃口伝えできいたときにはぎょえええとそのまがまがしさに飛び上がったもんだった。…というところから話を始めるのも、今日観た『狂人なおもて往生をとぐ』はすっかり減じているその衝迫力と、清水邦夫の、日本の「生活」の根源を疑う筆の力に、ずいぶん寄りかかっちゃってるなあと思うのだ。「父」は金を稼ぎ、「母」はセックスを提供し、「家庭」は「子供」を生産する。どの俳優も、パートをきちっと受け持たされているけど、山盛り絵筆にのせた絵の具で始めて、かすれてもよれても、最後まで線を引く。一息に引く。つまり、演出に曲(きょく)がない。タカイアキフミの、かんがえはどうなの?

 清水邦夫は家族制、父権制を否定してみせる。「畜生」「畜生道」として否定されてきた行為、不義が、ばんっと畳返しを(一瞬で?)するように、自由や解放につながってる。あの頃はそれが何かの明るさ、ユートピアを志向していたのだろう。「革命」。そこがなー。鮮やかでない。いま演じられる今この芝居では、家族制からの逸脱が、「死」をあらわしてるの?造花をカラダの上に散らしている若者は、死んだように見える。時間を表す水の滴り(とてもきれい)、そして「漏れていくもの」、がっぷり四つでまじめにやったんだろうけど、今一つだ。

 長男出(いずる=永島柊吾)と母はな(千葉雅子)は、声が足りてない。永島柊吾が母に甘えるところは出色だけどさ、声がしゃがれるために光らない。どっちも一本調子だ。ちゃんと演出したのか。甘いよ。愛子(福永マリカ)は立ち位置が不分明だ。三上市朗はしっかりやるが、憎くなるような偉そうさ、自分の位置に甘んじている感じ、疑わない感じが薄いね。世代のせいかなー。