東京芸術祭 2023 芸劇オータムセレクション 太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ) 『金夢島 L'ILE D'OR Kanemu-Jima』

「変やない?」その一言で、沙汰やみになった、「ノーズパテ」であった。せっかく専門店で、演劇部の予算使って買ったのにね。昔々、「東京の演劇」でも、顔を彫り深く見せるため、「ノーズパテ」で工夫していた。そこには西洋人に見えないということの焦燥と悲哀とあこがれがまじりあっていて、当時の演劇メイクの見本を見ても、高校生すら複雑な気持ちになったもんだった。

時代は下って今日、夢の中をベッドで漂うコーネリア(エレーヌ・サンク)の日本では、役者は皆、顔の凹凸を肌色のマスクで消している。(夢の抽象日本人は、こんな感じなんだ)、年配の私はちょっと衝撃を受け、複雑な気持ちになりかけたが、「ノーズパテ」のことを思い出してフフッと笑ってしまった。ここにもきっと焦燥と悲哀と憧れがあるのであろう。そして、こここそは「夢の日本」であり、フランスだってそこにはっきり混じっている。あの数年間の、鼻と口を塞ぐ息苦しい、息のできない感じが、マスクで芝居に写されているのだ。あの時の世界のありよう、あの時の感じ方が、如実に表れてる。

 コーネリアは幻想の日本に来て、芝居を織り上げるように人物を配置してゆく。誰かが主人公ということはない。本日ただいまの世界を捉えるために、その織り糸は長く、日本の小さな島の選挙、演劇フェスとカジノをめぐる対立と陰謀、遠くアラブの世界までが一息に織りなされる。香港の悲惨、中国の身勝手、中東の不安、難民の苦しみが露わになり、それぞれがぎらっと批判される。たとえば、「フクシマに原発を作るべきではなかった」。

 しかし、どの批判も、天上から俯瞰したもののように感じられ、どっちかというと、モームの小説に出てくるペルシャじゅうたんみたいなのである。人生、自分の模様を織り出していくのみ、っていうかさ。「織り上げる」そのことに向かって話が収れんしていくような気すらする。「演劇を織る」「夢を織る」、そこどうよ。

日本の私(たち?)は糸が短い。世界が見えない。糸を長くする、かかわりを考えるということを補助してもらった感じがした。舞台は美しく、呼吸しながら盛り上がっていく布の海とか最高。

 大五郎一座が大五郎(ドゥッチオ・ベルッジ=ヴァヌチーニ)の話を聞いているときの身体の安定に感心しました。