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シアターコクーン 『シブヤから遠く離れて』

 古い洋館。中央の棟に三角の屋根がつき、それがエメラルド・グリーンに見え、氷の宮殿――すきとおっているもの――を考える。上手の外階段を上ると2階の張り出しバルコニーに通じ、円いバルコニーをぐるっと緑の葉を出した鉢植えが囲んでいる。舞台手前に、美しい寄せ植えの花壇。いったいこの花はいつの季節の花なのか。

 客電が落ちシブヤ的ビートの音楽、雑踏、風。客席と舞台をつなぐ階段が薄明るくなり、舞台いっぱいにススキが揺れている。洋館の棟の三つの壁が、生と死の間の薄明に観客を囲繞する。

 かつてこの洋館に住んでいた友人ケンイチ(鈴木勝大)を訪ねてやってきた若者ナオヤ(村上虹郎)。だが、その屋敷は今や朽ちつつあり、その一室に美しい女マリー(小泉今日子)が隠れている。

 時が凍ってる。屋敷のことをこう考えると、全ての出来事、仕草、表情が、一つずつ別々にトレーシングペーパーに精密に写され、分厚い束になっているようなこの芝居の全体が見えてくる。大人になりたくないナオヤ。朽ちつつあるマリー。登場するフクダ(高橋映美子)、マリー、トシミ(南乃彩希)が齢を重ねる一人の女のようで、ナオヤやフナキ(豊原功補)、アオヤギ(橋本じゅん)、アオヤギの父(たかお鷹)までも、一人の少年であるような気がした。しかし、そんなことはいい。この芝居は素晴らしく面白い。ここにはどこにも現れない愛が描かれている。それは永遠の愛なのか。フクダとフナキ、フナキとマリー、トシミとナオヤ、それぞれのまなざしが「ない」愛を変奏する。それはまるで水晶玉の中の白いキズに似て、しんと静まり、触れることができない。にもかかわらず、「ない」愛は確かな実感を持って観客に迫ってくる。例えば水晶が、手の中でいつまでも冷たいように。

 橋本じゅん、指先までみっちり芝居が詰まっている。ときどき、体にスポンジみたく場の空気を通した方が、「みっちり感」が引き立つと思う。村上虹郎、がんばっているが、カーテンコールの後姿まで、客は観ていることを忘れずにね。