東京オペラシティ3F近江楽堂 『ヴェーセン  30年の軌跡』

 初台、東京オペラシティ三階近江楽堂、120人が収容人数の音楽ホール。20年以上前からあるっていうのに、今日初めて入ったのが悔やまれる。

 見上げるとドーム状の高い天井には十字形のスリットが切られて夕方の明かりを通し、角々に「あ、舟越保武」と一目でわかる、こころが洗われるように清楚な女の聖人のブロンズ像(等身大)や胸像が置かれている。今日はその片方、小さなオルガンを左わきに持つ聖セシリアの前で、ニッケルハルパに触らせてくれた。(というのに10分押し、だめだよー時間守らないとー)よーくみたが頭の中の疑問が膨らむばかり。観客のお兄さんがずーっと音色を試していたが、お兄さんはバイオリン経験者らしく、堂に入った扱いだった。

 擦絃楽器で鍵盤楽器、ってとこで説明する気力がくじけそうになるけど、バイオリンのボディに、フレット部分が鍵盤操作なのかな。(電話で家族に説明するのに、「大正琴を弓で弾く」とわたし言い切った。)右手は親指と人差し指で弓を持ち、首からベルトでかけたボディの、フレット的なとこの下側についてるキーを、左手の指で「持ち上げる」。

 舞台には左から時代のついたビオラ、幅の広いニッケルハルパ、幅の狭い古いニッケルハルパ(17世紀と言っていた)、右に木目(ウェグナーみたいなたくさん生産する時代より前の、「スウェーデン指物の粋」って感じの木目)がとても美しいギターが置かれている。

 すぅっと客電おちてヴェーセンが登場する。ヴェーセンてさ、「本質」「騒ぎ」っていう意味あるけどそういうこと?動詞でシュッという鋭い音を立てることも辞書の隣の単語に載ってるけど、それもぴったりだね。

 ビオラのミカエル・マリーンはリンドグレーンのエーミールの「びょうし」風帽子をかぶっていて、ニッケルハルパのウーロフ・ヨハンソンは赤のボーダーに黒いジャケット、ギターのローゲル・タルロートは黒地に黄色のシャツに砂色のジャケットだった。皆背が高くて、スウェーデンの人らしい。

 今回のライブは「ヴェーセン30年の軌跡」と題され、11枚のアルバムを組み合わせて毎晩違う物を演奏する破格の企画だ。浚っても浚ってもまだやることがあるよね。なんてことは気にもしないって感じですいすい演奏が始まった。

 鋭い細いニッケルハルパの音色と、それを支えるヴィオラとギターの音。このニッケルハルパの揺るがない高い声で、全体がぼやっとすることが決してない。ウーロフが左右に小さくステップを踏むと、ニッケルハルパの「音」を見ながらミカエルとローゲルもまた揺れる。近江楽堂が籠で、それが揺れているみたい。

 ニッケルハルパを聴いていると、紙のように鋭いと思う。紙ってきれいだけど気を付けないとしゅっと手を切るじゃない?あのくらい鋭くて繊細だ。そして清らか。ニッケルハルパはきっと扱いが難しくて手を焼くのだろう。紙の厚さ一枚分音がずれると、ウーロフの顔が曇る。ビオラニッケルハルパと競うように、影をつけるように走りあたたかく、ギターはそれを追いかけているような気がした。五線紙の五線のようなものが、アンサンブルから流れ出て観客を包む。美しく調和した音、美しいピチカート、美しい残響。そして「つつまれてる」と思ってた五線が、次にまっすぐこちらに向かってきて、胸の中に入ってくる。

 冒頭の節に何度ももどってくる凝った構成の曲などを聴いている辺りでは、「曲名がわからない」という雑念でいっぱいだったのだが、アンコールの「TANIA」を聴くころには、胸の中にたまった音で泣きそうになっている。舞い上がる音楽。木のビオラ、木のニッケルハルパ、木のギター、このシャープさ、このやさしさ、これは、木が声を出しているのだ。

明治座 『由紀さおり 50周年記念公演』

 『下町のヘップバーン』

 下町で食堂を営む川端ますみ(由紀さおり)が、もと恋人の芸能事務所社長溝口栄次(渡辺正行)と、映画プロデューサー島本孝太郎(篠田三郎)の間で、ちょこっと揺れる話。

 篠田三郎は最初に下手から登場して川端食堂の戸をガラガラ開ける間ももう真面目な島本になりきっている。渡辺正行がなー。顔の表情をくるくる変えて、駄々っ子のような憎めない感じを出しているのだが、ここ、こらえてほしかった。そこんとこ「我慢」できたら、善人の裏切者とか、いろんな役がやれると思うよ。

 合間で由紀さおりが素敵な星のセットをバックに「ムーンリバー」を歌う。この歌が飛びぬけているので、(なぜ若いますみの娘の美絵《久住小春》がヘップバーンじゃないのか)という疑問が吹っ飛ぶ。

 

二幕

 幕が開くと、羽根のショールを纏った紫のロングドレスの由紀さおりが中央に立っている。足がしっかり舞台を踏んでいる、地に足がついていることにまず打たれる。こうでなければ声ちゃんとでないよねー。

 フリルがついているように難しい上がっていく音階で始まる「Time To Say Goodbye」。アンドレア・ボチェッリの大ヒット曲だ。あれ、50周年の最初の曲がグッバイなの?とおもうが、「旅が始まる どこに続くのこの道」という歌詞で、旅立ちの歌なのがわかる。原曲もやっぱり、旅立ちの歌らしい。力みなく、自然に由紀さおりは歌う。危なげなく、堂々としている。オープニングナンバーにふさわしい。

 歌い終わると、段差の狭い階段を、ちょっとコケットにドレスをもちあげ、ハイヒールを見せて降りてくる。

 「ヘップバーンから歌姫になりました。」すこし色っぽく、そしていや味が全然ない。それは由紀さおりが、とてもクレバーな女の人だからだろうと思う。歌のうまい人はいくらもいる。だけどそれでクレバーな人、センスのいい人というのはなかなかいない。50年にもわたる長い年月、きびしい芸能の世界を生き抜いてこれたのは、由紀さおりが賢く、歌にも、芝居にも、コントにもセンスがよかったからだ。

 続いて「L-O-V-E」、「SMILE」、グループ結成18年のコーラスグループベイビー・ブーと歌う「真夜中のボサノバ」と続く。

 ゆめでもしあえたら、というベイビー・ブーとのハモリがきれいでうっとりする。由紀さおりはいろんな歌い方ができる。声の出し方をいろいろに変えているけど、巧いので気づかれない。さりげなくやっているのだ。後頭部にオペラチックに響かせたり、歌謡曲風に舌にまといつくように歌ったり、細く高い音をきちんと澄ませてだしたりする。お客さんの集中が半端ない。お客さんの耳がトガッテルように、黙っている林が聞き耳を立てているように感じられる。雨のように音を吸い込む林。日本語の歌を聴くってこういうことなんだなと思った。

 ベイビー・ブーが、歌声喫茶でリクエスト第一位になっている自分たちの持ち歌を歌う。「花が咲く日は」、しっとりした歌でした。

 二幕の締めくくりにベット・ミドラーの「ローズ」の主題歌を日本語で歌った。訳詩は高畑勲だ。ここが白眉。一つ一つの歌詞が白い小石のように心に沈み、地図のように絵を描く。

 タカハタイサオガシンデカナシイ

と思い、でもこの歌が生き続けててよかったなと思う。ここで休憩、最後の歌でまだ泣きながらお弁当を食べました。

三幕

 歌のうまい知らないおにいさん(林部智史)が登場して、スモーキーに持ち歌の「あいたい」を歌う。うまいなあ。歌がちょっと途切れるところがとても素敵に聴こえ、ベイビー・ブーといいこの林部智史といい、由紀さおりはよく吟味して共演者を選んでいる。つぎに彼は「母さんの歌」を歌っていた。3オクターブ半も声が出て、カエターノ・ヴェローゾみたいなのに、なぜ「満月のトナーダ」とかうたわないの。この後林部さんは、いずみたくメドレーを由紀さおりと歌って去っていった。

 そして、「夜明けのスキャット」。一挙に小学生の昔に帰る。簡単には忘れ物を取りに帰れないような長く遠い通学路を、黄色い交通安全の帽子の頭をうなだれて、心の中で歌いながら歩いた「大人の歌」だ。ルールールルルー。

 由紀さおりは編曲を違えたり感情を溜めて歌って歌を変えることなくやさしく歌う。若い時から由紀さおりのファンだったと思しいおじさんの背中がピンと伸びている。

この後コンサートは「ルームライト」「俥屋さん」「りんご追分」「糸」と続く。「俥屋さん」の小唄の部分が、洋風の銀のフルートが繊細に歌っているみたいによかった。「りんご追分」は編曲がかっこいい。打楽器にあわせて歌うのだ。最後はアンジェラ・アキの書いた曲で締める。広い広い野に立つ「あなた」と「わたし」が見えるようだった。

日生劇場 『ラブ・ネバー・ダイ』

 オペラの曲「ありがとう、愛する友よ」を聴くといつもアンドリュー・ロイド・ウェバーを思い出すし、その逆もある。きれいで、堂々としていて、覚えやすい。あんまり堂々としていて、あんまり覚えやすくて、そこがちょっと恥ずかしい。

 2019年『ラブ・ネバー・ダイ』は、そんな覚えやすさの気恥ずかしさとはかけ離れたミュージカルだった。

 まず演出にゆるみがない。まわり舞台を使い、「ミスターYのファンタズマ」に登場するファントム(石丸幹二)の手下たちの暗さと妖しさが本物で、にぶいグレーを掛けたパステルのような色とりどりの衣装の色調もいい。特に「フリークトリオ」のフレック(知念沙耶)の両手足を掴んだスケルチ(辰巳智秋)とガングル(重松直樹)が彼女をブランコのように何度も揺らし、くるっと回転させて肩に載せるのに驚いた。(この後フレックには、前後に開脚したまま美しく平然と二人の肩に載るシーンもある。)まわり舞台に立つ馬蹄型のプロセニアム・アーチが舞台の表になったり裏になったりする。セットは緊密に使いこなされ飽きない。

 そこで繰り広げられるのは「情」の物語である。演出のサイモン・フィリップスがこのプロダクションを特別だといったのは、「子別れ」とか「親子の情」とかが、私たちの心性に食い込んでいるからだと思う。淡々としてても、悲しさが出ちゃうのだ。

 キャストは一人一人に作られた見せ場に精いっぱい応える。一つの欠けもなく、「ラブ・ネバー・ダイ」というアラベスク模様を全力で作り上げていく。少年(熊谷俊輝)の声、その存在が、そこに光を当てる。

 えー、ラウル(田代万里生)可哀そうだし、不実な女はこうなっちゃうのか。っていう以外は、いい芝居でした。

劇団東京乾電池公演 『飛んで孫悟空』

 子どもの頃、子供向けの芝居をよく見に行っていた私は2つのことをおぼえた。

一、お芝居って正面向いてセリフを言いながら、後ろの人に話しかけることがある。

二、子どもに解りやすくてやさしい芝居は、大体面白くない。

今日の『飛んで孫悟空』、よかった。客2(中井優衣)が龍(吉橋航也)に望んで食べられようとし、代わりに三蔵法師諫早幸作)が食べられると名乗り出、次々に食べられると皆が言い出すところ、こわく、おもしろく、むずかしい。その面白くて難しい部分が中ほどに来、決して終盤で教訓めかないのが素晴らしい。

アナログな舞台の幕によるセット(砂山の形に吊られたタクラマカン砂漠)、するすると音もなく登場してきっちり持ち場を果たす孫悟空(高田ワタリ)の檻など、狭い空間の中で全てが「おんぼろ」で、すこし妖しく、「よく働く」。

馬のビジュアルの、もとは白かったけれども汚れた感じ、二人の妖怪(宮田早苗、八木下萌)の中華風メイクも決まっていて(工夫の跡がある)、龍の片目の出ているとこは、隣の4,5歳の子がうっすら怖がっていたくらいでユーモラスだった。

 問題は声である。前回観た『やってきたゴドー』でも、怒鳴りあう台詞が、手で無理やり折ったベニヤのように割れていたが、この芝居でも、台詞がギザギザしている。ツァーコンダクター(竹内芳織)の声がどなりすぎて割れており、惜しい。かといって、あまり滑らかにやると、子供の私が「けっ」と言っていた「子供向けの芝居」になり、むずかしいけど、そこ探ってほしい。声の分量と調節、テクスチャーのようなものがうまくいっていない感じを受ける。

ジェーン・シベリ@モーガンサロン 『JANE SIBERRY SECOND SHOW』

 代田橋の夜。暗い。寒い。カフェがない。歩道橋が苦手な私は、200メートルくらい逆戻りして横断歩道を渡る。

 小さくFisherと名前の出ているモーガン・フィッシャー邸にたどり着いた。近い。グーグルマップ、ありがとう。

 キーボード(黒い布がかけてある)の置いてある部屋は、「音楽室」という趣で、40~50平米くらいある。天井にはよくある石膏ボードが、珍しい市松模様に貼られ、カルダーその他のモビールが空気をかき回す扇風機に揺れている。椅子はどこのライヴハウスより上等でふかふか、30人弱の人がぎっしり座る。

 若いシンガーのエリザヴェータが音声チェックでハミングしたらびっくりするほど素敵だった。細いストラップの黒ワンピースで弾き語りする「Snow In Venice」。注意深く複雑に縫い合わせた布地の、袋になった隅々に息が通ってる。裁って縫った曲だと思った。ロシア語でうたったところがすきだったな。

 元旦が誕生日のモーガン・フィッシャーが続いて二曲演奏する。1950年生まれだなと思っているうちに演奏が始まる。(えーー?)ものすごい上等の演奏。キーボードの音の、一つ一つの音の波紋のぶつかるところ、その上に指を置いたら鋭い傷がつきそうにシャープ。美しい。そして、そのうたう歌は、あとでジェーン・シベリに「イノセントボイス」と言われちゃってた程のんきでふつう。声のせいで全部がちょっと前衛ぽく聴こえるのだった。

 酸欠をしんぱいするくらいに一杯の会場に(外のドアを開けて冷たい空気を通していた)、ジェーン・シベリが登場した。(開場と同時に、彼女のビデオ、インタビューがスクリーンに流れていた。とつぜん――デュラン・デュランを思い出すような――「ジェル」をたっぷりつけてショートヘアを逆立てた若い女性が歌を歌っている。80年代。コーラスの女の人二人のテクノっぽいカクカクした振付と、カラフルな衣装が、「そうだったなー」となつかしい。インタビューを受けるジェーンは美しく、眉が弧を描いて、その下の目が考え深そうに見える。)ビデオでは、儚い感じの女の人に見えたけど、今目の前にいるジェーン・シベリは唇を意志的にきゅっと結んで黒のレザーぽいジャケットを着、いかにもレーベルから出て自分自身でインディペンデントに曲を発表している人っぽい。80年代、あの時代の波に乗って、あの最先端を演じることが、実は少し苦手だったのかもしれないと歌が始まってから思う。頭の上にピンカールをした髪のうずまきがいくつも載り、それが似合っている。カナダのトロント出身のシンガーソングライターで、大学では理系だったそうだ。ギターの弾き語りで歌詞がわからないとちょっときびしい(「日本語だけ喋る人?」「はーい」と手をあげると私一人の場違い環境だった)よね。優しい声、風が通るようなファルセットヴォイスなんだけど、その中に声の芯が出ていて、ひゅうっという強い風が混じっているようだった。この「声の芯」で、ジェーン・シベリーはほかの「よくある」歌い手から遠く離れる。何事かを言おうとしている人なのだと感じる。「Bound By The Beauty」は、初期の作品のようだけど、美醜や欲望に縛られている自分を鋭くつかんでいて、世界に肯定されがちな「きれいな女の子」であったはずのジェーン・シベリが、こんな省察をしていたのか、賢い子だったのねと思うのだった。500年前の森に歌詞がジャンプするところもいい。何を見ても自分の犬を思い出すという、日光がレンズで「犬」に焦点を結んでいるような面白い歌もある。(「Everything Reminds Me Of My Dog」)お店の人が、電話が、タクシーが犬を思い出させ、地下鉄の男の人と目が合うたびやっぱり犬が思い出され、彼女はもうクッキー25枚くらいあげてしまった気持ちになる。隣に座った外国の女の人がくすくす笑い、とても楽しそう。ライブの楽しみ方が違うなー。ジェーン・シベリは、日本の鴉の鳴き声がカナダと違う、低くて「かぁ・かぁ」というといっていたけど、手拍子だって、私のは「かぁ・かぁ」と日本語ぽく鳴っていて、隣の女の人は難しい拍子を自分で作り出していて能動的なのだった。へえーと思う。

 最近(2016)のアルバムの中から「Living Statue」を歌ってくれた。ベルギーでみた白い像のことを歌ったって言ってたかな。あー、無著・世親の像(!)だって、腕を伸ばして手に持ったカメラのファインダー覗くと、腕の搏動のせいでカメラが動き、像が生きてるような気がするよねー、と、関係あるようなないようなことを考えながら、すこし厳かな感じのする曲を聴く。

 それからジェーン・シベリは、緊急事態のリセットの方法を教えてくれた。6カウントで息を吐き、6カウントで息を吸い、そして6カウントで息を止める。感情でなくロジックを使う。ちいさな動作に集中して丁寧にやる。ああーパニックになったとき思い出せるといいな。このあと、ものすっごい歌えるお客さんと、軽くデュエットなどし、私以外のお客さんは歌い(低音部をつける人までいた!)、ジェーンは朗読し、楽しいライブは終わった。

シアターコクーン・オンレパートリー2019 DISCOVER WORLD THEATRE Vol.5 『罪と罰』

 ドストエフスキーって、読むたびにびっくりする。「ええー」「そうきたか」私の読んだ本の中では、一番くらいにびっくり度が高い。あと女の人たちの一筋縄でいかなさも一番。びっくりしたい人、ご一読ください。

 今日の『罪と罰』はとても優れた芝居だった。難を言えば、モブシーンが平板、並列的で、ドストエフスキー的なこてこての、油絵の具の上に油絵の具を次々に盛り上げていくような熱狂的な祝祭感が薄い。

 装置はところどころに平場を設けたねずみ色の大階段、よれよれのマットレスや長椅子や脚立、ぼろの椅子がひっくり返っていた。(すぐあかぎれを連想する。水仕事で切れた指先となんか親和性があるのだ)社会の最底辺、その一番下にラスコリニコフ三浦春馬)のベッド代わりの長椅子が位置している。これに対してラスコリニコフを追うポルフィーリ(勝村政信)は、上がりきった階段の奥の暗がりから現れる。大きく開いた口のように、暗い奈落はラスコリニコフやほかの人物を待ち受けているのだ。開けっ放しの口蓋の粘膜に舌が貼りつくのに似て、ラスコリニコフの「人を殺す権利」の犯罪の裏には、女――セックスの問題が貼りついている。教会の鐘の音と呼び鈴の音、脅え、いきりたち、またドストエフスキーのように失神し、青ざめ、怒り、ラスコリニコフは彼の運命を行く。三浦春馬、目の覚めるような、心ふるえるような好演で、素晴らしい。冒頭の台詞が浅く硬いのは初日のせいかな。松田慎也、勝村政信が目立っていい。三浦春馬と松田慎也に一つずつ「若者アクセント」あったけど一瞬時空飛んだよね?あり?南沢奈央足音が大きいのと、台詞早口すぎる。大島優子内省的に(自分に)台詞云おう。麻実れい、発狂してからの「家なんかないんだよ」大切に。

渋谷TOHO 『ボヘミアン・ラプソディ』

 「フレディがスポーツ用品店に買い物に来たんだって」

 「ふーん」

 すっかり大人のつもりの二十歳。中二時分のクイーン熱のことは忘れてしまい、フレディ・マーキュリーも日常と地続きの、等身大の存在になっていた。1年や2年で、熱が上がったり冷めきっちゃったり、ああもう、人気っていうのはねー。

 その人気というあてにならない綱の上で、けん命にバランスを取りながら、楽曲という自己証明をかざしつつ進むクイーンとフレディ・マーキュリーは、イメージを変えながらヒットを飛ばし続ける。ランニングで短髪のフレディを観た時は(別人だ)と思ったし、醒めた大学生は(しぶといバンドだなあ)と感心したりもしたものだったけど。

 今日、銀座線の吊広告が、車両全部『ボヘミアン・ラプソディ』の「大ヒット御礼」のそれになっているのを見て、私が昨日見た映画は、なんでまたそんなに当たったんだろと少し不思議になった。ヒースロー空港の荷物運びから世界的なバンドへ、ザンジバルからイギリスへやってきた複雑な生い立ち、ゲイであることの葛藤、AIDSの死。

 いろいろあるけど、やっぱ、フレディ(ラミ・マレック)という人のキャラが立っていて、そのキャラを、映画が過不足なく表現し、ライブの歌がわくわくする、この二つが大きいと思う。そして誰であろうが映画に登場する全ての人が一人残らずきちんと、過不足なく語られる。中でも、婚約までした恋人メアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)に深刻な話をするところなど、悲しいけれどちょっと笑えていい。クイーンが演奏するどの曲も知っていて、いい曲に思うという自分に衝撃を受けた。クイーンてインプリンティングだったんだ。