Bunkamuraザ・ミュージアム 『永遠のソール・ライター』

  X E L F A R C と、カメラの商標文字が裏返って反対。鏡の柱に向かって写真を撮るソール・ライターがいる。ソール・ライターは何気ない。(俺の写真さ。セルフ・ポートレートだよ。)襟がとんがって長い。はやりの綿シャツの胸の上にカメラを構え、ファインダー(?)を覗き込んでいる。向かって左の胸ポケットには煙草の箱、腕には薄手の時計がある。「俺」を撮ってるソール・ライターの、右奥に知らない男が立つ。この男は写真の中でぼやけているけど、写真家ととてもよく似たシャツを着ている。シャツはボタンがすべて外され、下に着ている白いTシャツが見えて、気楽そうだ。男は辺りを(店の中)見回している。これ、もう一人の「俺」じゃないかなー?

 ソール・ライターがごく若い時分に撮った「セルフ・ポートレート」は、鼻を中心に縦に分割されている。ふーん。二つに割れている自分。それは気の合う妹デボラとも共通してる。妹の写真は美しい成熟した女性にも、眼鏡をかけた醜い子供にも写り、どちらとは決められないように見える。二十代で精神障害になったというデボラのキャプションを読んで、(大人になれなかったんだなあ)と思うのだった。ソール・ライターの遠景と近景は、彼の写真を強烈に構築的・絵画的にしていると同時に、重なり合う心象・分割された自分をも写しだしている。例えば店のガラス戸にPULLの字が読めるとある雪の日の写真には、広い舗装道路を渡る二人の人物(その頭上を店のアーケードらしき赤が彩る)が水滴でいっぱいのガラス越しに見える。ぼんやりした二人の人物は近しく、暖かく感じられるのに、PULLの文字は鋏で断ち切ったように冷たい。彼は混ざらない二つの温度を一生持ち続け、デボラを死ぬまで絵に描いた。自分と同じく分割された妹のことを、決して忘れなかったのだと思う。

劇団東京乾電池 第30回下北沢演劇祭参加作品『卵の中の白雪姫』

 深緑の古びた街灯と小さい木の椅子、舞台面は木の床が出ている。上手奥の登場口から、七十年代風に髪の長い女の人がギターを持って出て来て唄う。おー。気負いゼロ。淡々と「友達のお父さん」の歌を弾き語る。こんなに肩の力が抜けてて、こんなに世界と自分の居場所をきちんと把握してて、「居方が自分」の人珍しい。媚もゼロ。山口ともこ。乾電池の女優さんだ。すごいなこの人と思ったが、台詞は歌よりぐっと落ちる。腰が決まらない。ふらふらしてる。間違ってもいた。

 ここから芝居は始まる。乞食(吉橋航也)が街灯の下に来る。食事を乞食の傍らで取り、その飢えを見ることで「おいしさ」を感じようとする老紳士(高田ワタリ)と給仕(島守杏介)もやって来る。全ては自分の魔力だと言い張る魔法使い(はにべあゆみ――声大きすぎ)とその小間使い(鈴木美紀)。市長さん(西村喜代子)と泥棒(青木誠人)、そして白雪姫(中井優衣)の卵を運ぶ卵売り(河野柑奈)。

 「白雪姫の卵」、なんか素敵そうだが実体がわからない。けれど人々は300年もそれを待っていた。希望、夢、願い、憧れ。そういうものを託された卵は、実は災厄を運んでくるかも。いやそうじゃないな。「なにをはこんでくるかわからない」のだ。カオナシが突然変容するように。

 今回、はにべを除いて声が割れている者はいない。それぞれの台詞が、突いたトコロテンの先端がめいめい好きな方を向いているようにばらばらだ。それがナンセンス?前の台詞に接ぎながら「果てしない一本のトコロテンの筋」のように作ったほうがいい。

 誰も相手のセリフを聴いてない。芝居が腑に落ちてない。柄本明、出ている人誰もこの芝居解ってる感じしないけど?

てがみ座第16回公演 『燦々』

 大きな劇場にかかっているのが、まざまざと見えるような作品だった。品もあるうえ、格も備わる。てがみ座の人々が懸命に頭上に支える『燦々』は、いつかふわっと浮き上がって飛び立ちそうになっている。

 この再演(リブート?)版では主人公お栄(前田亜季)の想う渓斎栄泉(川口覚)が少し後ろへ退いている。その分父北斎(酒向芳)は前に出て、生き生きした。小兎(こと=石村みか)、みね(野々村のん)、霧里(速水映人)ほか、女たちも陰翳がくっきりしている。

 ざんねんなのは品格の「大劇場っぽさ」が過ぎて、終幕が「ありふれたの」「よくあるやつ」になりかけているところだ。最後に「自分であること」を知り、受け入れるお栄のシーンが凡庸。同じ世界を目指す父と娘―前夫(等明=箱田暁史)と元妻―恋人と自分自身のシーンが長く、ひねりがない。それを一言で言い表す的確なキメの台詞、或いはその応酬が、あればなー。最後水飛沫を浴びたような気持になりたい。「大劇場でよく見る様な」ではなく、この一作にしかないものが要る。これってお栄の画業の悩みと一緒かー。「女であること」「それをひきうけること」は、なかなか短く端的には言い切れないのかもしれない。前田亜季、頑張っているが、たとえば、蘇芳、緋、猩々緋という言葉が口慣れていない。「お茶」「靴下」「楽屋」くらいの感じで出ないと。火事→じっとしてられないってとこが大切。いろいろ本を読むように。川口覚、怒鳴り声が突然チンピラみたいになってしまう。ここ演技が途切れてる。それまではお武家上がりの放蕩画師なのに。

 手をいっぱいに伸ばして俳優たちが支える『燦々』を見上げる。指が日に透けて赤い。白い光がまぶしい。わたしももうちょっと、「自分であること」考えないとなー。

劇団民藝 『白い花』

 渡辺正行が「無理」と「我慢」のコーラの一気飲みを広めてからというもの、それは平凡な光景になったのかもしれない。

 劇団民藝『白い花』では、主人公百合(中地美佐子)が、心の乱れを吹っ切るように、ラムネ三本を次々に一気飲みする。

 ラムネ三本?

 中地は舞台裏でスタッフが揺らしてしまったせいで、T字型の栓抜きを押し込むと同時に白く噴きあがってくるラムネに口をつけ、必死にラッパ飲みする。ほっそりした彼女は壜の底をまうえに上げて努力するがのみきれない。二本目、三本目としゅわしゅわ泡を盛り上げるラムネに口をつける。真面目だなー。そしてこの設定を考えた人間に怒りが湧いてくる。役者をなんだと思っている。たぶん、「その方が面白い気がして」。二次元おたくか。演出で修正が入っていないということは、演出家も脚本に則って、厳密にやっているんだな。真面目だなー。

 一幕、住職(千葉茂則)、おばさん(別府康子)、百合の法事での会話は、ゆるみもなくピシッと仕上がっている。こんなハイレベルな家庭劇久しぶり。飽きさせないし演出もテレビドラマを意識しつつ「見せる」。しかし、二幕になると様相が変わる。まず、芝居の基調がわからん。ベルイマンみたいな目線を合わせた姉妹(姉百合、妹彩=飯野遠)の対決シーンが欲しい気がするのに、芝居は妹を狭い田舎に引き戻し、またとじこめる。姉は考えていることがさっぱりわからず、最終的には「いい話」に着地する。おばさん(好演)が、結婚しろと迫るくせに、自身は特に幸せでもなかったってところ、とても大事だと思うけど、さらっと触れるだけ。たいへん民藝の観客層に適った芝居になってると思った。装置の下手、空(そら)の「抜け」がとてもよくて、秀逸。

そぴあしんぐう 『風間杜夫の落語会』

 イケアのある町。といえば、イケアに行ったことある人なら想像つくと思うが、そういう町だ。大体、私にしてからが、香椎花園より先にある町が、目の端からこぼれちゃってるのであった。

 うつむきながら鮮やかな青と黄色のイケア脇を寒々と通り抜け、カインズ前の信号を渡ると、スシローの向かいのそぴあしんぐうに行き当たり、鼻をすすってホールを見上げる。大きいね。そぴあしんぐうのカフェはフルーツケーキが132円、コーヒー(小さい方)が150円。ケーキもおいしいし、コーヒーも淹れ立て、そして障がい者の雇用が進められてる。オッケー。常勤だといいね。

 テレビで絶叫する新選組隊士だった風間杜夫も、古希だそうだ。あれ(『新選組始末記』)、1977年かー。

 開口一番は桂笹丸。桂米丸の弟子の竹丸の弟子だって。「ポケモンとラップが好き」(ツイッター)、若いねえ。見たとこ眼鏡かけてふわっとした髪型で、建築学科のお兄さんのようだが、本当は経済大学の出身。日商簿記一級。すごい。なぜか袴をはいている。

 噺は「粗忽の釘」だった。壁に打った釘が長屋のお隣に突き出ちゃう咄。最初出てきた女の人が、おくさんかおかあさんかわからない。そして話すとき語尾がワンパターン。高さが揃っているのでひきこまれにくい。損。「お向こう」がどこか悟って「目からうろこだよ」ってとこ大切。ここ大事に言って。お茶菓子が出てきて饅頭を食べ、「うーんおいしい」っていうの、とてもよかった。その場に『居た』。

 落語ってさー、年月かけて面白い話に磨かれているから怖いねえ。それに各人が工夫するからつまんないと「おまえがつまらない」になっちゃう。蒲田行進曲のお囃子が鳴ってさらさらと風間杜夫が登場する。

 ハ ナ カ ゼ ?

 というわけで風間杜夫は一か月に及ぶ風邪の最中だった。なんだよがっかり。と肩を落とす。風邪ひく。ありえない。気を付けてほしい。話は面白い。特に若い時の話が落語みたい。二十数年前に立川談志に誘われて紀伊国屋寄席の高座に上がり、以来落語をやっているらしい。お母さんが楽屋にやって来るマクラは面白いけど、お母さんの台詞にヤマが来るように(3回?)、畳み掛けないとだめ。今日の一席目は「湯屋番」だ。放蕩が過ぎて父親に勘当された若旦那が、出入りの職人の家で居候をしている。居づらくなって(という顔を風間杜夫はしないけど)湯屋に奉公に出る咄。

 もちろん『熱海殺人事件』で私ども高校生は驚倒したわけだけども、2009年の『ありふれた奇跡』を見て、ここでもちょっと驚いた。風間杜夫の台詞が、全部一回肚おちして温もっていた。手渡す言葉がオダノブナガに差し出す草履のよう。

 「うまくなってる」

 そのかげにはこういうことがあったんだねえ。落語って、おけいこなかなか難しいと思う。まずモチベーション、それから「ひとりで」浚う集中力、根気、やってもやらなくてもいいのにやってる「落語が好き」の気持ちの持続とか。

 湯屋の番台に上がって妄想の世界に入る若旦那を、なんか子供になってじぃっと視てる気分だ。若旦那は女中、一人住まいのその女主人、当人と、ころころ変わる。この「ころころ」ってところが風間杜夫の落語の弱みかな。若旦那と湯屋の主人のくだりも変わらないもん。人々が入れ替わっているように見え、なだらかさがない。次の「火焔太鼓」のまくらで話していた城島高原の仮面ライダーショーで、山(丘?)2つ超える時、まず遠くに人の全身が見え、坂を下って次第に下半身が消え、頭が消え、次の山に差し掛かって頭のてっぺんがみえてくるだろう漸近線みたいな味わいがない。ゲストの柳家三三はそこうまい。全部が一筆で繊細なペン書きしたように繋がっている。三三の話は「轉宅」。ほんとに「目から鱗」くらいなめらかで、あっさりしている。ただ「ぬた」だの「おつくり」だの食べる時、さらさらさらっと食べ終わっちゃうけど、ここでもあっさり優先なの?(むかし古い和菓子屋のおばさんが「粋な味よ」とお菓子の試食を勧めてくれてえっ粋な「味」?なに?わからないよ!!と立ってる地面ががけ崩れしそうな気持になったけどこれその延長?ま、そこは「棚上げの函」に入れとこう)お妾さんは色っぽく、泥棒はだんだんにほだされる。煙草屋のおじさんがなー。種明かしとオチのために出てきた人みたいに見えるのだ。びっくりしている泥棒と、嬉しそうなおじさんを、ちゃんと味付けしてほしい。

 風間杜夫の「火焔太鼓」は鼻も通って、すっきりしていた。古道具屋が古ぼけた大太鼓を殿様に所望される話。ただ、もう、オチがわからない人がたくさんいて、残念だなと思いました。

博多座 『スーパー歌舞伎Ⅱ 新版 オグリ』

 スーパー歌舞伎初見(そういう人も珍しいと思う)。けど、スーパー歌舞伎をつくりだした猿翁、三代目猿之助がどんなに創意にあふれる人であるかというのは、観てない者でも知っている。例えば宙乗りは、むかし雑誌でめっちゃくちゃ貶されていたけど、当節、みんなやるじゃない。

 緞帳は開いている。四角いアクリル板が四角くつながってアクリルの幕を成し、その向こうにピンクのオリエンタルな(裳を着てる?)女の人形と、上手側に銀色の襟巻をした黒い着物(その縁取りは赤)の男の人形が立つ。彼らの背後にはもう一枚アクリルの幕があるのか、人形を映して、行列のように見える。行列?もっと遥かな感じ、砂漠を越えてゆくキャラバンの人みたいな印象。長い旅の話なんだね。と思う。そう、この物語は自分自身に至るまでの長い旅路の話なのだ。

 ここからのオープニングはもう、圧巻だ。と書きながら、ネタバレしちゃうとつまんないかなあと危ぶむ。つまんないよね。

 杉原邦生の演出は、出力を大きく上げたり、絞ったりして、観客を驚かせながら惹きこんでいく。かるい触感まで使うの、よかった。しかし、出力を絞るところ、もっとぎゅっと絞っていい。繊細さと抒情がなければ、大胆・豪奢もひきたたない。あら、これじゃニナガワだろか。べつにニナガワになれと言ってるわけじゃないよ。

 京にあだたぬ若者藤原政清(市川猿之助)は関東に下り、常陸の国の小栗判官となって、「小栗党」という、一度しかない人生を謳歌する集団を率いている。その一騎当千の強者たちが、横山一族から花嫁を奪ったのは、一党のひとり小栗五郎(市川猿弥)が花嫁照手(坂東新吾)を恋してしまったからだった。照手には知らない男のもとになぞ嫁ぎたくないこころがある。小栗は照手に、彼女の家の者たちを説得すると約束する。

 小栗が横山の舘に乗り込み、下手に小栗党、上手に横山の家の人々が居並ぶ。衣装の冷たい薄青、ミントグリーン、後ろに藤紫に塗られた六尺棒をもつ家来たちが立って控える。このシーン、色彩がとても美しく、構図も決まってる。こういうの、どう誉めたらいいの?ステージングが素晴らしい?素晴らしかったです。

 この芝居が「超歌舞伎」なのは、封建社会では簡単に蹴散らされる「知らない人と結婚したくない」という女の子の気持ちを、周囲が共感して取り上げるところ。

 この気持ちと共感が、ごめんぺらい。「家のため」というのが真田紐だとしたら、「好きに生きる」「イヤ」が木綿糸一本くらい。小栗の遍歴や照手の苦難が、このただの細い糸を「生きている人間の一部」にするのだとしても、薄くて一幕がもたない。照手の父横山修理太夫市川男女蔵)の歌舞伎の芝居が、ものの見事に真田紐の中に「イヤ」の糸を編み込み、木綿糸はそこで女の子の髪の毛に化して愛しまれ、哀れまれる。憐れみと哀しみのこもる、素晴らしい演技だった。なかなかこの「歌舞伎」を超えるのはむずかしいねー。

 四本の足が空を踊りまわる馬、なびく銀色の旗(この旗の登場理由が、もひとつはっきりしない)、もりあがる水、鮮やかなトンボなど、ショー的な要素がいっぱいで、どれもこれもバラバラになりそうなものだけど、黒衣のような脚本の力で皆何とかネックレスみたいに繋がっている。

 最後の小栗の「気づき」、大事な大詰めではあるだろうが、わたし置いてきぼりになっちゃった。そんなにも?それと、小栗ってさいしょそんなに照手すきだった?照手はいまどき役作りこれでいいの?

 猿之助はじめ皆集中してケレンに負けない。閻魔夫人(市川笑三郎)、女郎屋女将(下村青)、どちらもよくて自然と目が引き寄せられる。商人(小栗の車を曳いてくれる)の市川猿三郎市川弘太郎の芝居が地に足ついていていい。衣装もかわいい。同系色の小さい三角っぽいパッチワーク模様だ。閻魔大王浅野和之とその事務取締りみたいな鬼頭長官(高橋洋)、一番台詞が実感もってよく聞き取れる。浅野和之の博多弁の失敗、あそこまで派手に失敗すると笑える。

 小栗党(中村鷹之資、市川男寅市川笑也中村福之助市川猿弥、中村玉太郎)これといって難はない。しっかりやっている。しかし、ひとりひとりが「ココニイル」と発信しなければ作家にただ「若い奴」とひとまとめにされて終わってしまう。一幕が光らないゆえんだ。ここ、「若い時はバカだったけど、」のシーンなのだ。でも、「バカでぺらい、」それでいいのか。仲間同士の会話とか、ほんとうすい。これは脚本のせい。しかしそれをカバーするのが役者の仕事のはず。市川笑也、まえに出る。引かないで。

シアタークリエ KERA CROSS第二弾 『グッドバイ』

 ラブ・コメかあ。ラブ・コメにはだいたい、ツンデレが必要ではないかと思うのだ。キャラクターの二重性というか、企みのようなもの。でも一方で、コメディはその場その場の台詞を心から真剣に言うことが求められる。ここ、むずかしいよね。企みと真面目。

 昭和23年、雑誌編集長の田島(藤木直人)は、数多い愛人たちと別れることにした。怪力で美女の担ぎ屋キヌ子(ソニン)を金で雇い、二人は愛人たちのもとを訪れる。

…という所は太宰の小説『グッド・バイ』と同じ。一幕は足取りが重いが二幕で息を吹き返す。藤木直人がかっこいい、そこはラブ・コメの鉄則だが、藤木は台詞を言いながら、いつも「その場」にいないのだ。「マインドフルネス」だよー。深呼吸してー。まずアリョーシャ(ドストエフスキー)になれー。下着姿のところ、下着なのにかっこよく見えてしまう。衣装、あれでいいの?そして藤木直人は「下着です。」という全身を、観客に見てもらわなければならない。うわかっこ悪いという瞬間をこっそり、ごく微かに、「企む」のだ。というか下着姿を「引き受ける」。引き受けとらん。これ、藤木直人が自分のグランドデザインをどうするかという問題とリンクしている。どうする?ソニンのキヌ子はたくさん食べる登場のインパクトが強すぎて(笑った)、終幕までラブ・コメ的に回復できない。最後は満場の婦女子の夢を背負ってなくちゃ。企みが足りない。これは演出の問題だろうか。あと「進駐軍につかまった」っていうの、わからなかった。二幕、後輩編集者の入野自由と洋画家の長井短のシーンがいい。このやり取りがスクリューボール・コメディでしょ。

陽気なディキシーランドジャズが流れ、原稿用紙の塔がたつ。ここはきっと田島=太宰のお墓だろう。太宰は自分の悲惨な女性関係を、ひっくり返して喜劇に見立て、去って行ったのだ。