吉祥寺オデヲン 『1917 命をかけた伝令 』

 知もあれば勇もある、情け深くて面白い、源平合戦の登場人物を、あっさり戦斗で死なせてしまった作家がいた。後々になって作家は言う、「あれを死なせるのではなかった。」物語はその人が生きてた方が数倍面白かったはずだけど、彼はどうしたことか生き長らえない。私は作家本人に教えてやりたくてうずうずする。戦争ってさ、誰でも等しく、ふとむなしく死ぬところだよね。あの戦記物書いたとき、貴方はそのことを理解していたのに。

 黄色い花の咲く野原を後に、カメラはなめらかに手前に下がり、休息を取る兵士たちや洗濯場から入り組んだ塹壕へと(進むにつれて壕は高く、古くなる)入っていき、二人の若者(ジョージ・マッケイ、ディーン=チャールズ・チャップマン)を見えないアリアドネの招く暗がりに落とし込む。将軍の命令を受け、1600人の兵士の無駄な攻撃を中止するため、前線を通って、伝令をつとめるのだ。『1917』、すんごい面白かったけど、私何回も途中死にかけた。有刺鉄線の中で、或いは狙撃のために、転んだために、敵と出くわしたために、何度も何度も私は死ぬ。登場人物の何倍も死ぬ。(よくまあこんな戦場で足が前に出るもんだなあ)とビビりながら画面に見入り、映画の始まりは神経がそそけ立って、うまく映画と同期できない。しかし、段々に目が慣れ、戦場に抵抗力がついたところで、意外な人物が「ふと」死んでしまう。わかってるなー。ワンカット撮影は、「ふと」死んでしまった「私」たちの視線であるような気もした。主人公はカンバーバッチでもコリン・ファースでもない、普通の若い者だ。彼は偶然に選ばれて戦場の迷宮から生きて出る。入った時とは別人になって。…と私は思ったんだけど、パンフレットでちょっと、疑問になった。サム・メンデス、『リーマン・トリロジー』も、これも、「糸」「綱」がモチーフ?多くない?

渋谷HUMAXシネマ 『グッドバイ 〜嘘からはじまる人生喜劇〜 』

 小池栄子優勝。小池栄子がテープを切らんとするその瞬間まで、隣を大泉洋が顎を振ってちらちら小池を見ながら力走する。

 扁平の麦わら帽をかぶり、オレンジ赤のワンピースを着て路地を歩いてくるキヌ子(小池栄子)の美しさ。映画「おてんば娘の大冒険」の画面に見惚れるその口元に、無邪気な白い歯が真珠のように並んでいる。「損させないってほんと」と目はきらきらひかり、箪笥を持ち上げた時には素晴らしいと思った。助演の女優もいい。日本の女優はきっちり仕事できるのに、「させてもらえてない」と感じた。少し猫背の「夢二体型」を「すてき」ではなく「怖い」と思わせる緒川たまき、しゃっきりしている水川あさみ、訛りの浮かない木村多江橋本愛は愛人の中で、ひときわ美しく撮れてないし、台詞が硬い。青いターバンが似合ってない。スタッフ・監督の一考を要する。青木さん(緒川たまき)のCGは生々しくて心が冷め、大泉洋の迫るシーンは陽気さがなくて長すぎる。必要?作家の連行(松重豊)に「(あの女を)仕留めたのか」と聞かれ、「仕留めてません」と返す台詞がもくろんだとおりに働いてなく、間抜けで冗長なやり取りになっている。あと、採掘場のメイクが残念。髭なのに、バイトの若い者みたいにしか見えない。

 大泉洋小池栄子の向こうを張るべくがんばった。妻に別れを切り出された後など、存在そのものが青くなっているように見える。ルパンで連行にいう「別れたいです」の一言は、ここだけは血を吐くようにマジだった方がよかった。

 『八日目の蝉』の小池栄子は、あの役を「通しきった」とこがすごいと思ったけど、このキヌ子は抜きんでている。大泉洋は、これからも小池栄子と一緒に作品を作りたいといっていた。それならこのペース(かなり早く、きつい)で走り続けて、再度合流しなくちゃダメである。小池栄子は、飛ばしてたもん。

下北沢 駅前劇場 綾田俊樹・ベンガルによる綾ベン企画vol.14 『川のほとりで3賢人』

 綾ベン企画vol.14『川のほとりで3賢人』、前売り・当日4500円、初日と二日目16:00のみ特別料金4000円。

 公演の前半、割引する若手劇団は多い。たぶん、芝居が固まってなかったりするからだろう。今回のこの割引は?

 …かたまってなかったね。全篇、味でなんとかしてたね。それは広岡由里子の言わねばならぬ硬い長い台詞に、早めにベンガルが割って入る(助けてた)のからもわかる。

 上等のスパゲッティ(デュラム小麦のセモリナ粉)で、ゆでてもふきこぼれず、茹でたお湯で出汁になる程おいしいのに、麺がなぜかぽきぽき短く折れている。

 広岡由里子の福祉課主任馬場マチコは、とても難しい役だ。最初から最後までだれなのあんた!?と観客に思わせなくちゃいけないし、主任らしくもしなくちゃいけないし、独り言も言わなくちゃならない。そのなかで、うっすらしたホームレスへの蔑みのさじ加減が絶妙だった。けど、ぽきぽき折れているのだ。食感がわるい。なめらかさが欲しい。台詞をもっとしっかり入れて。

 京本(綾田俊樹)と二本松(ベンガル)が、「時間がたつのは早いなあ…」と顧みるシーン、喧嘩をするシーン、打ち明け話をするシーン、重すぎず軽すぎず、とてもいい。けれど思い返してみると、シーンの繋がりが粗い。ぽきんと音がしそう。これは作家に責任がある。

 川のほとりに住む二人のホームレスのところへ、福祉課の女が訪ねてくるという話に、突飛なエピソードが絡んでくる。蛇のとこがシュールなのに(あんまり笑えない)、バンドエイドは普通でつまらない。俳優もその辺の調整が大変だろうとおもう。

シネ・リーブル池袋 National Theatre Live In Japan 2020 『リーマン・トリロジー』

 いそがしやいそがしや、磯辺の石に腰かけて、心静かに糸を解くなり

 縺れた凧糸、縺れた首飾り、縺れた刺繍糸、そういうのを年寄りの所に半泣きで持ち込むと、こう唱えて解いてくれたもんだった。

 舞台の上にはバンカーズボックスに見える(アメリカ人が馘首になるとき身のまわりのものを詰めるあれ)アクリルの透明セット、中には「会社」が詰まっている。そしてその会社は、もう使えないとあきらめて放り込まれた縺れた糸――アメリカの暗部を彩るリーマンブラザーズの歴史――だ。箱の中身は3人の男たち(サイモン・ラッセル・ビール、アダム・ゴドリー、ベン・マイルズ)によって丹念にほぐされる。ほぐされたその糸は、かつてリーマンの男たちが真剣に、そして慎重に渡った綱渡りの綱だったように見えてくる。

 たった3人きりの俳優が(いそがしや、いそがしや、)リーマン家の男たち、女たち、リーマンを支えた男たちを演じる。四人目の登場人物と呼ばれるピアノ演奏も、複雑で単純なアメリカン・ドリーム(金持ちになる、金持ちでいる、そしてもっと金持ちになる)に翳をつけていく。とてもシンプルで強い芝居だ。しかし、なじみがないせいかもだけど、一幕目は「よくある」話にしか見えない。リムパーの貧しさやみじめさが伝わらない。一族最後の経営者、三代目のボビー・リーマン(彼が出て来て話がおもしろくなった=アダム・ゴドリー)が、サイモン・ラッセル・ビールをにらむとき、それが「父なのか妻なのかわからない」のが、芝居の「弱さ」に見え、強みになっていない。

 タルムードの呪文のような朗誦がはじまると、私の頭の中は冒頭に戻って糸をほどくまじないでいっぱいになる。心静かに糸を解くなりだよ。

Bunkamuraザ・ミュージアム 『永遠のソール・ライター』

  X E L F A R C と、カメラの商標文字が裏返って反対。鏡の柱に向かって写真を撮るソール・ライターがいる。ソール・ライターは何気ない。(俺の写真さ。セルフ・ポートレートだよ。)襟がとんがって長い。はやりの綿シャツの胸の上にカメラを構え、ファインダー(?)を覗き込んでいる。向かって左の胸ポケットには煙草の箱、腕には薄手の時計がある。「俺」を撮ってるソール・ライターの、右奥に知らない男が立つ。この男は写真の中でぼやけているけど、写真家ととてもよく似たシャツを着ている。シャツはボタンがすべて外され、下に着ている白いTシャツが見えて、気楽そうだ。男は辺りを(店の中)見回している。これ、もう一人の「俺」じゃないかなー?

 ソール・ライターがごく若い時分に撮った「セルフ・ポートレート」は、鼻を中心に縦に分割されている。ふーん。二つに割れている自分。それは気の合う妹デボラとも共通してる。妹の写真は美しい成熟した女性にも、眼鏡をかけた醜い子供にも写り、どちらとは決められないように見える。二十代で精神障害になったというデボラのキャプションを読んで、(大人になれなかったんだなあ)と思うのだった。ソール・ライターの遠景と近景は、彼の写真を強烈に構築的・絵画的にしていると同時に、重なり合う心象・分割された自分をも写しだしている。例えば店のガラス戸にPULLの字が読めるとある雪の日の写真には、広い舗装道路を渡る二人の人物(その頭上を店のアーケードらしき赤が彩る)が水滴でいっぱいのガラス越しに見える。ぼんやりした二人の人物は近しく、暖かく感じられるのに、PULLの文字は鋏で断ち切ったように冷たい。彼は混ざらない二つの温度を一生持ち続け、デボラを死ぬまで絵に描いた。自分と同じく分割された妹のことを、決して忘れなかったのだと思う。

劇団東京乾電池 第30回下北沢演劇祭参加作品『卵の中の白雪姫』

 深緑の古びた街灯と小さい木の椅子、舞台面は木の床が出ている。上手奥の登場口から、七十年代風に髪の長い女の人がギターを持って出て来て唄う。おー。気負いゼロ。淡々と「友達のお父さん」の歌を弾き語る。こんなに肩の力が抜けてて、こんなに世界と自分の居場所をきちんと把握してて、「居方が自分」の人珍しい。媚もゼロ。山口ともこ。乾電池の女優さんだ。すごいなこの人と思ったが、台詞は歌よりぐっと落ちる。腰が決まらない。ふらふらしてる。間違ってもいた。

 ここから芝居は始まる。乞食(吉橋航也)が街灯の下に来る。食事を乞食の傍らで取り、その飢えを見ることで「おいしさ」を感じようとする老紳士(高田ワタリ)と給仕(島守杏介)もやって来る。全ては自分の魔力だと言い張る魔法使い(はにべあゆみ――声大きすぎ)とその小間使い(鈴木美紀)。市長さん(西村喜代子)と泥棒(青木誠人)、そして白雪姫(中井優衣)の卵を運ぶ卵売り(河野柑奈)。

 「白雪姫の卵」、なんか素敵そうだが実体がわからない。けれど人々は300年もそれを待っていた。希望、夢、願い、憧れ。そういうものを託された卵は、実は災厄を運んでくるかも。いやそうじゃないな。「なにをはこんでくるかわからない」のだ。カオナシが突然変容するように。

 今回、はにべを除いて声が割れている者はいない。それぞれの台詞が、突いたトコロテンの先端がめいめい好きな方を向いているようにばらばらだ。それがナンセンス?前の台詞に接ぎながら「果てしない一本のトコロテンの筋」のように作ったほうがいい。

 誰も相手のセリフを聴いてない。芝居が腑に落ちてない。柄本明、出ている人誰もこの芝居解ってる感じしないけど?

てがみ座第16回公演 『燦々』

 大きな劇場にかかっているのが、まざまざと見えるような作品だった。品もあるうえ、格も備わる。てがみ座の人々が懸命に頭上に支える『燦々』は、いつかふわっと浮き上がって飛び立ちそうになっている。

 この再演(リブート?)版では主人公お栄(前田亜季)の想う渓斎栄泉(川口覚)が少し後ろへ退いている。その分父北斎(酒向芳)は前に出て、生き生きした。小兎(こと=石村みか)、みね(野々村のん)、霧里(速水映人)ほか、女たちも陰翳がくっきりしている。

 ざんねんなのは品格の「大劇場っぽさ」が過ぎて、終幕が「ありふれたの」「よくあるやつ」になりかけているところだ。最後に「自分であること」を知り、受け入れるお栄のシーンが凡庸。同じ世界を目指す父と娘―前夫(等明=箱田暁史)と元妻―恋人と自分自身のシーンが長く、ひねりがない。それを一言で言い表す的確なキメの台詞、或いはその応酬が、あればなー。最後水飛沫を浴びたような気持になりたい。「大劇場でよく見る様な」ではなく、この一作にしかないものが要る。これってお栄の画業の悩みと一緒かー。「女であること」「それをひきうけること」は、なかなか短く端的には言い切れないのかもしれない。前田亜季、頑張っているが、たとえば、蘇芳、緋、猩々緋という言葉が口慣れていない。「お茶」「靴下」「楽屋」くらいの感じで出ないと。火事→じっとしてられないってとこが大切。いろいろ本を読むように。川口覚、怒鳴り声が突然チンピラみたいになってしまう。ここ演技が途切れてる。それまではお武家上がりの放蕩画師なのに。

 手をいっぱいに伸ばして俳優たちが支える『燦々』を見上げる。指が日に透けて赤い。白い光がまぶしい。わたしももうちょっと、「自分であること」考えないとなー。