梅田芸術劇場×チャリングクロス劇場 共同プロデュース公演第1弾 『VIOLET』

 1964年9月4日、田舎町のスプルースパインを出て、ヴァイオレット(唯月ふうか)はタルサのテレビ伝道師(畠中洋)の元へ向かう。それは長い旅だ。長距離バスグレイハウンドには、ヴァイオレットだけでなく、「それほどでもなかった人生」を打ち明ける老婦人(島田歌穂)や、黒人の兵隊フリック(吉原光夫)と白人の兵隊モンティ(成河)の二人組も乗っている。ヴァイオレットの顔には過失で父(spi)がつけた大きな疵がある。彼女はその疵が消えることを願って伝道師に会おうとしている。

 老婦人の席を「とってあげない」ことで、ヴァイオレットは「それほどでもない人生」を選ぶ気などないことを明確にする。きっと伝道師への熱狂は母譲り、「強い引きで」幸運をつかもうとするところは父譲り、心の中の自分を傷つけた父と和解することにより彼女は「自分自身」に気づいてゆく。っていうはなし?わかんないよ?弱い。

 全体に白い短冊に嫋々としたためられた筆文字のお願いみたいだった。歌が弱く、モノクロ。やっぱ、一か月のものが三日になっちゃうと、こんななのかなあ。

 唯月ふうかイングリッド・バーグマンの頬が欲しいと歌うヴァイオレットは、灼けつくように飢えている。なのに声が一色で、間に合わない。吉原光夫の柄はたいへんよい。品位があって体つきが誠実で大きい。なのにあり得ないくらい歌がよれよれだった。こんなことで大丈夫なのか?がっかりして筋がよく分からなくなった。伝道師が上手のカメラと下手のカメラを十二分に使って演技する。いつもカメラ目線で面白かった。父親が、出来ることはしたというのどうかなとおもうけど、spiがうたうと信じられる。さいご、決然と前方へ進むヴァイオレットと後方のフリック、ここ苦さだよね?

KAKUTA 第29回公演 『ひとよ』

 泣いちゃった。といいながら、全然話に入れなかったのである。まず、舞台は山の中のタクシー会社だ。「拘束時間は出庫点呼~帰庫点呼まで」などの貼り紙や疲れてぼやけた感じの流し、ありあわせの椅子を置いたテーブル、無線室と、もう欠けているのは火力の強いストーブと干した温泉タオルくらいかなという仕上がりだ。上手から下手に向けてだんだんに高くなるよう勾配がつけてあるのに、セットの中央上にあるタクシーらしきものが水平に置かれている。んんん?ここで引っかかった。パンフレットを読むとこれは絵看板らしい。しかし中に人が乗り込み、実際のタクシー内の会話が行われる。なんか腑に落ちないまま話はぐいぐい進む。母稲村こはる(渡辺えり)が「ごはんある?」と何気ない調子で登場し、腕を吊った長男大樹(若狭勝也)、頭に包帯を巻いた次男雄二(荒木健太朗)、頬に血をにじませた長女園子(異儀田夏葉)に自分のしたことを、ごはんを食べながら説明する。一幕通して皆出力の調整ができていず、最後の二幕の慟哭を効かすためには、母の雰囲気(コロシタ…コロシタ…と空間が脈打ってる感じ)のボリュームを下げるべきである。あと髪はたなびかない。

 酔っぱらった園子に帰ってきた母が覆いかぶさり、園子が「気持ち悪い…くるしい」という場面で、次のシーンの園子(こどもたち)の複雑な心を予想したのだが、そこはそれほどこじれなかったなあ。無線係の柴田弓(小林美江)のとりみだし方が素晴らしい。飛行船が観客の心に全く見えなくて、時間のゆっくりした別次元の流れがわからない。ここ大事でしょ。

 どの人物もぴりっと描きこまれている。甥の丸井進(久保貫太郎)がいい人で、救い。みなとてもうまい。しかし、今日は芝居がきちんとリレーされていなかった。

アソビル 『バンクシー展 天才か反逆者か』

 マスクの下で鼻に皺を寄せる。

 (ミッキーマウスやん)

 バンクシー展のとっつきは、本人の作業場と、黒いフードをかぶって思いに沈む男の顔のない人形が展示されているのだった。こんなに有名な無名の人見たことない。ネズミをくりぬいたステンシル型のボードが数枚落ちている。日本の都知事が笑顔で指さしながら写真に納まったあれの元だ。ミッキーマウスくらい有名で、ミッキーマウスくらい人気者で、でも会うのはディズニーランドのミッキーと握手する以上に難しい。機械で刷り上ってくる(映像に映る)作品を見てもちょっと引く。大量生産か。すっかり皮相な気持ちになっていた。その気持ちの頂点は、まじめで控えめな感じの女性教師が、建物から切り出したバンクシーのグラフィティ(落書き)を、うやうやしく学校の記念日に披露するところで来る。ひゃー。なんだよー。ミッキーマウスバンクシー

 しばらく肩を落としていたが、突然はっとする。なにか価値の倒立が起きているのだと気づく。これさ、つまるところ、バンクシーには関係ないよね。新婚の車が缶カラを引きずるように、バンクシーは「評価」「評判」という幾多の缶をぶら下げている。彼はミッキーに見える。彼はミッキーに見えない。それはみんな「バンクシー」に付与されたものだ。資本主義を批判し(パンクスが並んで資本主義を否定するTシャツを買う)、ウォーホールと絵画市場の商業主義を揶揄し(ケイト・モスを使ったウォーホール風の作品)、戦争に反対する(ゴルフセールに侵入する戦車)。彼は反響を待ち、評判を聞く。それは風刺作家、グラフィティの作者であればとうぜんだ、だが名声が彼を追いかけてきて、彼を骨抜きにし、金漬けの別人、或いはミッキーにしようとする。

 ここからの反転がバンクシーは非凡だったと思う。缶カラを引きずれば「音がする」ということを十二分に活用し、自動で絵をシュレッダーにかけたり、紛争地でホテルを経営したりする。しかもその反骨にぶれがない。そうでなければディストピア(?)遊園地「ディズマランド」で、こんなにも暗い気持ちになるはずがないのだ。ゾンビのような怖さを醸し出すキャンディ、池に揺れるたくさんの人の乗る船(難民を想起させる)、もんどりうって倒れるお姫様の馬車、つるつるした資本主義社会のすぐそばに、理不尽でつらい生活が棲んでいる。(そういえば三人家族に赤い照準があたっている絵をみて、バンクシーに戦争の息を吹きかけられたようでぞっとした。)

 ミッキーマウスバンクシーの共通点があるとすれば、「手がきれい」ってとこだ。作業場のスプレー缶は全然汚れてなく、作品を汚さないよう、きっとバンクシーは指先に気を付けている。そしてミッキーはと言えば、輝くように白い手袋で有名だ。

 バンクシーのこれからは、缶カラの音や量を見誤らないということにかかっている。そして、反骨の心を雪山をのぼる杭のように打ち込んでいかなければ、ちょっとでもぶれたら、いつ、なんどき、こどもに「や、あいつのてをごらん!あいつこそミッキーだよ!」って言われちゃうかわからないのである。

テアトル新宿 『ソワレ』

 村上虹郎が進歩していた。おれおれ詐欺の受け子をやり、分け前を受け取った後、上半身がこんにゃくのように不安定に揺れ、目線を定められず何度か切り替えるところ、自分に耐えられない、だるい、絶望ともいえない絶望が匂う。俳優として頭ごなしに駄目だしされ、こわばるところもよかった。

 しかし(村上にはあまり責任がないのだが、)この映画の一番大きな疵は、「翔太(村上)がなぜタカラ(芋生悠)と逃げるのか」という、物語の分岐点に説得力がないことだ。「傷つくためにうまれたんちゃうやん」て、唐突。ジャン・ルイ・トランティニャンが、ロミー・シュナイダーの顔に手をあてたとたん(昔の映画でごめん)言わないことがすべて明らかになる感じ、現れた月が海の上に一瞬で一筋の道を作る感じが欠けている。

 影が躍るところはとても素敵。でもさ、シーツのあおられるシーンは匠気が勝ち、レイプシーンやヌードのたからのバストショットは要らないよ。工夫がない。あと職質のお巡りさんどこに行ったのかな。

 タカラと翔太、翔太とタカラ、どちらかが幻想の人物でもおかしくない。路上に放り出された子供(芋生悠は17,8歳のタカラそのものに見える)のひりひりするような孤独の物語は圧倒的に語られる。それから、こちらは完全に村上虹郎の責任であるが、終幕タカラの事に気づく翔太のアップが硬い。体があんなに柔軟に扱えるのに、顔が自在でない。どうした。

 マニキュアのエピソードの残した翳がとてもいいなと思った。録音の関係か、台詞のはっきりしない所がある。タカラの母(石橋けい)、父(山本浩二)、むずかしい役をしっかり演じる。

オフィス3◯◯ 「女々しき力プロジェクト~序章『消えなさいローラ』」

おんもしろかったー。と劇場を出、この『消えなさいローラ』がたった三日間しかやらないことを考えると、煌々と電信柱の明かりに照らされた侘しいアパートの一室が、あっと言う間に吹き飛ばされる砂の一粒のように思われてくるのだった。儚いねぇ。この芝居は三日で終われるようなものではないのだ。課題は多く、謎は深い。

 テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』を下敷きに、芝居はすらすらと始まる。渡辺えりの一人ぼっちのローラのトーンが、一ミリも外さない。充分な深みと、ローラの内実を伴っている。ローラ?ローラです。このモノローグを聴くだけでも、芝居を観に来た価値はあった。しかし、後半に向けてのブラックなお茶会のシーンや、尾上松也がだんだんに職を変え、ローラと母に迫るシーンがやや冗長。練られていない。尾上松也はすこし台詞を歌うが、歌っちゃだめ。歌うとビニールの上を水滴がころころ転がるように、心に沁みない。松也は葬儀社社員であり探偵であり、そして次第に不在の男そのものに見えてくる。別役はここで立ち止まらない。ローラにとって待つこととはなんなのかを究めようとする。待つ時には、何かをしていてはいけない。それは一生けんめい何もしないことなのだ。ローラ、職もなく恋人もなく、生きる術のない、この世の役割から外れた女。終幕芝居は反転し、もう一人のローラを照射する。居場所のないもの、どこにもいられないもの。しかしその者はローラに消えなさいと命じる。それは生きよという声に聞こえた。

 尾上松也、いっちゃなんだがめっちゃいい役である。まだまだできそうだ。歌に入るところが自然でとてもよかったが、今日はハモリが全然うまくいってなかった。渡辺えり、母とローラがかさなるところがスリリングでない。

アップリンク渋谷 『8日で死んだ怪獣の12日の物語』

 『スワロウテイル』(1996)以来、岩井俊二からは目をそらし続けてきた。あれ、かっこいい男の子と、すてきな女の子が、果てしなく誉めあうのを、じっと見ているような映画だったよね。凝ったセットとセンスいい映像を、やっと日本の人が作れるようになったのに、そこで喋る肝心の役者は、全滅だったよ。ほぼ半世紀ぶりの岩井俊二作品、どきどきだ。

 『8日で死んだ怪獣の12日の物語』は、コロナ禍の中で、コロナを避ける私たちの、コロナを巡るファンタジーだ。無人の街をさまようカメラは汚れた地上を忌むように、しかし離れがたいように、ちょうど二階の高さをすーっとすすむ。物語はズームによる対話(のん、樋口真嗣監督)と主人公サイトウタクミ(斉藤工)が通販で手に入れた怪獣を育てる一人語りの動画などが繋ぎ合わされ、斉藤工はほぼ素(演技しない)を求められている。傍から見ればたいへんな窮状に陥っているサイトウの先輩(オカモトソウ=武井壮)との会話もほぼ素、暗い話が軽く、平然と出る。身に沁みない、他人事のような言い方。あり得る話だ。しかし、素とはなんだろう。それが日常であれば、ズームであっても、私たちは演技する。この「日常の演技」に関する目盛が、ちょっと大まか過ぎる。サイトウは可愛く映るが、もっと明度を落としてほしかった。怪獣はちっとも大きくならないし、「処分」の後ろめたさも今一つだ。「ヒーロー」「コロナに勝つ」、粗雑な言葉が慎重に選ばれ、今という今、たった今を表わしている。岩井俊二はファンタジーをどう思っているのだろうか。ファンタジーを好きという感じが全然しないけど。

 怪獣が空高く行く映像がものすごく素晴らしく、軒端の陰から子供の私も「あれ」を見て、サンダルはくのもそこそこに追いかけて行ったことがあるような気さえした。ただし、登場は一回で十分さ。

アップリンク吉祥寺 『劇場』

 「劇団おろか」。もうここで笑う。自分たちを「おろか」と名付けるセンスと、実際にその名の劇団があっても不思議ではない現実っぽさとの絶妙のバランスだ。そしてそっと差し出される悲劇喜劇の木下順二追悼号、載っているのは別役実の戯曲だった。大げさでも的外れでもない、等身大の「演劇」が登場する。リアリティの精度高い。劇団員辻(上川周作)の遠景シーンは、そこにかぶせられる「辻の乗っている自転車は、ぼく(永田=山崎賢人)があげたものだった。」というナレーションの「あげた」が大変効いていて、笑わずにいられない。蓬莱竜太の脚本も、「沙希(松岡茉優)ちゃんのお母さん嫌いだわ」という台詞がやや粗さを感じさせるのと、最後の大切な、演劇についての台詞がつるっとしている以外は緊っている。

 この話は普遍的な話のようで、物凄く個人的なものだ。沙希はなぜ永田と別れないのか。(永田が神だからというのは置いておく。)無口で愛想のない男なのに、その言葉には笑いを含んだニュアンスがある。思わぬことを言うのが新鮮で、チャーミングだ。――というわけで、一言にまとめると、永田のフラが全く表現されていないのだ。手をつないでと頼みながら、いざつながれると「まだ迷ってたのに」と呟く可愛げが、全篇通してちっとも生きてない。どうして演出されてないの?山崎賢人が悩んで、違う方向に行くことを懸念したのかもしれないが、これだと「早く別れた方がいい話」でおわってしまうじゃん。最後のシーン素晴らしいのに。

 作品通して、抱き合って裸になる場面がない。それは「そこじゃない」という意味と、沙希が胎内(沙希の部屋)に永田を抱き留めているからという意味だろう。抱き留められていることの「重さ」が映画に薄かったかもしれない。