東京芸術劇場 プレイハウス 芸劇オータムセレクション イヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出作品上映会 『声』

 ハロー?という女(Halina Reijin)の電話を掛ける声が、音楽でかき消されそう。いつお芝居が始まったのか、正確にはわからないほどだ。私たちが生きる実人生と、舞台の女の人生が早くも混ぜ合わされ、二重になっている。しかし、舞台上には四角いがらんどうの箱のような部屋が設えられ、客席側に大きなスライドのガラス窓がはめ込まれている。ざんこくやね。このガラス一枚あるだけで、女の悲嘆、苦しみが遮断され、無情が観客席にしのびこんでくる。覗き部屋、オランダの「飾り窓」というのを思い出しちゃうね。女はモーヴ色のスリーピン(かっちん留め)をつけ、ミッキーとミニーが後ろを向いているサックスブルーのセーターを着、黒に赤の三本線ジャージをはいている。幕開け、彼女は少女めいているが、芝居が進み、別れなければならないことが女を傷めつけると、とても年を取って見えてくる。彼女は恋人の靴とキスし、匂いをかぎ、なめる。靴とのセックス。わかれの辛さに嘔吐する。「夢と現実」も二重だが、「夢は寝ているうちは現実」と彼女はいう。混乱の中で、女は古い電話機とケータイの二つを持っていることがわかる。過去と現在も二重、部屋の中と外も二重、近いと遠いも二重だ。部屋の中には彼女がいて、どうやらその近くに恋人の置いて行った犬もいるのだが、彼女の苦しみと犬のかなしみがやっぱり二重になっている。女が男の靴を履くと、女と男さえ二重写しだ。コクトーの『声』って、ドレスの女がしっとりと狂乱する話かと思っていたよ。この『声』では、女は子どもっぽい服で登場し、煙草をすぱすぱ吸っている。最初、「声」で表わされる電話の女は架空の存在なのだ。だが、女は架空に向けて、じりじりにじり寄ってゆく。

 嘔吐シーンとか、もうなんか、ほんと残酷だなと思った。ガラスで隔てられているから感じる残酷。心許せない感じの演出であった。

渋谷パルコ8F WHITE CINE QUINTO  『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』

 おうちに帰り着くまでが遠足です、とどこの町でも先生が口にしていたせいで、今誰かがそういうと笑いが起きる。お菓子を先に食べちゃう子、寄り道する子、鼻血出す子、いろいろだったよね。笑ったりはできないけど、ザ・バンドの軌跡は「帰れない」遠足みたいだ。

 ロビー・ロバートソンは1943年トロント生まれのミュージシャンだ。ユダヤ人の父は彼が生まれる前に死に、母はモホーク族のインディアンだった。インディアン居住区の親戚たちのセッションを聴いて育ち、ギターに夢中で、高校をやめてプロになり、ロカビリーのグループで腕を磨く。同世代のリヴォン・ヘルムらとバンドを組む。そのバンドがボブ・ディランのバックをつとめたことで知られるようになった。バンド、「ザ・バンド」だ。ドラムスのリヴォンがディランのバックで受けるあまりのブーイングにへこんで一時バンドをやめてしまう。音楽をやる人、サウンドを聴き取る人というのは繊細だよね。そして音楽をつくりだす人には無軌道なところがある。度々の交通事故や、ヘヴィすぎる薬物の摂取が、ザ・バンドを思わぬ事態へと運ぶ。

 ミュージックビジネスって、向こう岸が見えない川に似てる。ザ・バンドの人々も、それぞれリュックや服を頭に括り付け、力の限り泳ぐ。音楽を聴き取るあの繊細さ、優しさをかなぐり捨て、出来る限りタフにならなければ。そのバランスを取るのは、すっごく難しかっただろう。何人かが突然の死や、怒りに満ちた死を迎えるのを知ると、(あー、向こう岸にたどり着けなかったんだ。もう帰れない)と悲しさがこみ上げる。力が脱け、速い流れに体を持っていかれる。だるくなる腕、呑みこむ水を感じる。帰れない遠足というとザ・バンドの人は怒るだろうか、でも生き延びたロビーを見ていると「遠足感」が拭えない、それは映画の撮り方によると思うよ。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『人類史』

 虚空のように真っ黒の舞台。上手の奥から、四つん這いの生き物が一つ現れる。このサピエンス(知恵ある者)以前の何かであるらしい者たちの這い進む姿が、とてもかっこよく、美しい。頭より高い場所はどこにもないように見え、低い姿勢で斜め前に出す足先の角度から、優美さが漂っている。おみごと。いままで芝居で所謂猿人がうほうほいってるシーンたくさん見たけど、こんなにシャープで綺麗なのは初めてだよ。振付、エラ・ホチルド。また、踊りを踊るシーンで、足踏みが4回、手をたたくのが1回と、それがミニマル音楽のように途切れず続くシーンにはっとする。音楽、志磨遼平。振付と音楽でものすごくハードルが上がりました。

 200万年前、這い歩いていた猿人はふと星を見、手を伸ばす。二足歩行が可能になって道具を使い、声帯が自由になって言葉が生まれる。ひとは世界を知りたいと思う。人類史の中から農作が始まったエジプトと、ガリレオとペストの時代が選ばれる。

 残念だけど、ガリレオの話は一段がったり落ちる。まず、子ども(サルヴァトーレ=名児耶ゆり)のトーンと神童アンドレア(昆夏美)のトーンが近く、キャラがかぶってる。追い出される娼婦(マリスカ=大久保眞希)や自分の善良さに集中するヴェロニカ(奥山佳恵)、自分を鞭打つ修道僧(ニッコリーノ=福原冠)が盛りだくさんで中途半端だ。もっとみんな鋭い、悲惨な感じじゃないの?

 星と星、物と物に引力が働くならば、人と人にもあるだろう。東出昌大昆夏美の間にそれが働くとき、暗がりに群がり咲く小さい花のような密やかな感じが欲しい。たいせつでしょ。

 東出昌大、一幕で胸郭が筒のようになって、身体に共鳴する深い声出ていた。そこ大事にねー。ひらひら翻る声を利用するのはもっと後で。奥山佳恵、侍女の時芝居多すぎるよ。気を付けて。

シアターコクーン COCOON PRODUCTION 2020 『フリムンシスターズ』

 分断と分裂。昼と夜(輝く二丁目の看板)、右の階段と左の階段、上手と下手で高低のついた二つの赤い戸口。グレーのコンクリートを模した壁に、一際鮮やかに海が描かれる。あー、この海がいろんなものを隔てているね。沖縄と東京、ゲイとゲイでないもの、日本人と外国人、移民とそれ以外、奴隷とそれ以外、あの世とこの世、それらがみんないっしょくたになって、顔を客席に向け、一斉にダイブしてくる。

 混沌!はっきりいって、一再ならず(置き去りにされた…)と感じる。沖縄から東京にたどり着いた玉城ちひろ長澤まさみ)は夜中のコンビニで働き、コンビニの二階に住み、賞味期限切れの弁当で命をつないで、コンビニの店長(オクイシュージ)と寝ている。ちひろは引きこもりと変わらない、何もかもがコンビニエントで淀んでいる。だから目を覚ましたちひろは「どぶの中」「奴隷」と自分の境涯を一言で語るのだ。ちひろは走る、憧れのスター(砂山みつ子=秋山菜津子)と奴隷の間を埋めるべく、何より奴隷でいたくない。

 この世界では被害者と加害者は不分明だ。妹(八千代=笠松はる)は姉(秋山菜津子)の車に轢かれるが、それ以来姉を罰し続けている。店長の双子の片割れ(明智=オクイシュージ二役)はゲイを弾圧するが、子供の時にゲイに心を殺されたのだった。善悪共に渦を巻くこの作品では、あの銃を手にしたチラシのようにはカタルシスは得られない。複雑な背景の人々を結び合わせ、「自由を差し出すのはうんざりだ」という大団円に至るのが奇跡のよう。いいかえると道が細い。自由って何。そこには善悪を越えた場所、劇場がある。長澤まさみ、「それ以上」がない。身体に物を言わせる。例えば「猫背」。フィナーレ、全員に「物狂い」のような偏執的な明るさが欲しい。只事ならぬ混沌の中への置き去り感が、ここにこそ必要。

あうるすぽっと ロームシアター京都 レパートリー作品 『糸井版 摂州合邦辻』

 4度、5度と繰り返される合邦(武谷公雄)の殺人シーンは、それが現在の東京に起きる子殺しでもあることを強調している。父(武谷公雄)と小さい娘(玉手=辻=内田慈)のシーンが長く演じられ、二人はセンチメンタルな歌の掛け合いで繋がりを訴えあう。これさー。役者信用してなくない?武谷と母役西田夏奈子は、古典の台詞の中に心を籠めることが巧みで、芝居に実がある。父と子どもの場面は、最初の「浪人だから」くらいまでで充分だ。

 冒頭シーンはじめ、歌が多い。みな、眩しいほどに歌を信じており、観ながら「とうとう古典の中からミュージカルが生まれてきた」という感慨を途中まで持った。惜しい。父娘の歌が長すぎるというようなことから表れるセンスの甘さ。二幕の月を語るやり取りの恥ずかしさ。「いまわたしとっても惜しいものを観ている」と思った。

 内田慈は力演するが、玉手の邪恋は「偽りだから」という理由でからっぽに作ってある。義理の息子俊徳丸(土屋神葉)の太ももをまさぐる手も、俊徳丸に向ける熱っぽい視線も、うつろなのだ。ここ、どうなの?観ててちょっとつまんないけどなー。

 俊徳丸、きれいな歯並び、伸びやかな声、「西洋物から来た人」という違和感がちょっとある、しかし浅香姫(永井茉梨奈)が訪ねてくるとき、柱の陰でうずくまり、放心しているうしろ姿が哀れでよかった。難しいと思うが、はじめ、浅香姫を愛していることを目で示さないと玉手との差が出ない。浅香姫の方も同じだ。表情から「実」が匂わないとよくできた紙芝居になってしまう。特に内田が「からっぽ」をきちんとやっているので深めてほしい。

 西田夏奈子、今日ちょっと泣きすぎたね。役者はみな頑張っている、この頑張りに見合うようなセンスを望む。

ヒューマントラストシネマ渋谷 『スパイの妻』

 常套句(クリシェ)でない。この作品が海外で評価されたのは、まずそこだろうと思う。この題材(日本軍の人体実験)は、日本では空気の薄い、誰も行きたがらない暗い場所にある。だからそこで起きる出来事を、まだ誰も見たことがないのだ。状況も主人公も、先が読めない。わたしなんか観終わって外へ出ても、喉の動脈が拍動してわなわなしていたよ。

 1940年、裕福な貿易商福原優作(高橋一生)は、商売のために出掛けた満州で、無残な光景、国を挙げての秘密を目撃する。それは許せないものである。その妻聡子(蒼井優)は、優作が実現しようとする正義を共にし、そのことによって愛を貫こうとする。

 憲兵隊の隊長津森泰治(東出昌大)は聡子の幼馴染で、いまだに聡子を愛している。登場するなり彼は優作に身の処し方を忠告する。泰治は優作に見えない所で、強く眉を寄せて優作を見つめる。体の中にある、分裂した本音――聡子への愛ゆえの憎しみが外に現れる。そして聡子も、夫の陰に女の姿がちらつくと、顔の下から泰治と同じような瞋りの表情が浮かび上がる。愛が信じられない苦悩だ。優作は正義を語るけれど、そこにはやはり見てしまった者の苦しみがある。三人はひとつの阿修羅像のようである。たたかう神の悲しげな顔。この顔は、あの薄い空気を吸う誰も行きたがらない場所から生まれてくる。ぎりぎりの人間の顔だ。にしては、すこしみんな軽いかも。東出昌大、扱いにくい自分の声を、かかとを土にめり込ませながら手綱を取っている。聡子と話すときは無垢に、憲兵隊長としては暗く。いい。でもまだまだこれからだ。「十四」は「じゅうよん」より「じゅうし」がよくない?蒼井優、すてきだが文雄(坂東龍汰)の見捨て方が凄すぎてむごい。もう少し工夫があってもよかった。高橋一生の最後のシーンの撮り方がよい。日本映画と思えない。

練馬文化センター小ホール イッセー尾形の妄ソー劇場

 舞台下手に衣装ラック、小机に水のペットボトルが見える。その下にかつらがいくつか。中央に二重、両脇に一段だけ階段がついている。奥に信号機がうっすら傾いで立ち、開演前の地明かりは青い。イッセー尾形による会場内諸注意、あんまりおもしろくない。「ふー真面目に読んだぞー」って、予定調和。

 ふわっと舞台が明るくなり、魔法のように、知らない男が彼の「いつもの(と思ってしまう)佇まいで」、真ん中に立っている。「問題を整理しましょうよ」と突然言う。すくめた首、肩が上がっているから、短い感じのする両腕、物のいいオレンジのセーターを着込み、ベージュのチノパンに真っ白のスニーカー。長髪なのに73分け。この人いい車に乗っている。その車で信号機の代わりに誘導灯を振っている人を轢きかけた。言い合いになり、奥さんにはばしっと云ってやるというくせに、何だか不利になってばっかりだ。かと思えばがにまたの85歳、生きがいに防災団結成をあてがわれたおじいさん。それと知りつつサイレンに高揚する。次は女学生、セーラー服じゃない所が新しいが、かつらはおさげ。メガネ屋のおじさんと話しているときと友達に話すとき、身体が違う。おじさんには少し肩をすぼめているが、友達に話す姿は胸が開く。細かな身体の違いで人を演じ分けている。コロナが話に出て来てちゃんとアップデートされているが、女中さんが「お茶の水博士じゃないのよ」というところ、こないだスタバにいた女の子はアトム自体知らなかったよ。この後の立体紙芝居はどういう趣向だろ。いちいちお面をつけるので表情はわからないし、紙芝居屋のおじさんは大きなジャケットを着ているから身体の繊細な味付けもわからない。声も一色。360°人の気配があって、出てくる人の身体のかたまり方、ほぐれ方が凄いのに、この紙芝居は…。イッセー尾形、得意を封じて、どこへ行くのか。