新国立劇場小劇場 シリーズ人を思うちから 其の壱 『斬られの仙太』

 奥に向かってきゅっと上がる平面の上には、たくさんの人が迷った動線のような跡がついていて、これはもう「急こう配の坂」だ。俳優たちはその上で、転がり落ちないように気を付けながら、足に力を入れて、命のやり取りをするのであった。坂の上は定規で引いたような直線で、その向こうは見えない。後ろの幕に橙色のぼんやりした明かりがあたり、まっくらな坂で綺麗に区切られて、目に心地よい。明かりの届かない幕の両脇は黒々とした影で覆われ、命と死のせめぎあいのように見える。

 天狗党が大の苦手。「肥料になるものは死んで腐らねばならぬ」(天狗党に殉じる加多源次郎[小泉将臣])とか、ほんといや、人に死を強いるのも嫌だし、「男児です」と力むのもわからん。

 天狗党の人々、各藩の志士、天下に志のある侠客甚伍佐(青山勝)、仙太(伊達暁)、だあれも自分の足元など見ていない。今より良い自分、今より良い明日を求めて、上へ上へと上がろうとする。影の黒衣に操られているとも知らないのだ。現代とちっとも変らない物語が展開する。仙太は真壁村の百姓である。窮状をお上に訴えた兄が咎められ、誰も助けてくれないのを知って絶望し渡世人になる。剣の腕前を買われ、天狗党に加わるが、そこでは派閥や党略が働き、無知な仙太を追いつめる。仙太と段六(瀬口寛之)が腰をかがめて爪判を頼んで廻るのに対し、天狗の人たちは颯爽と立つ。これだけでいろんなことが明らかだ。ものすごく兄思いの仙太なのだから、「佐分利の土手」と分かった時は、もっと身体に「来る」と思う。お蔦(陽月華)とお妙(浅野令子)が地髪でまげを結っているのに感動した。「あの人はあなたの事が好きなのだ」ということがどうしても教えられないお蔦、いいね。しかし、自分の問いに答えず「木偶人形」と呟く仙太には、絶望して泣いてもいいんじゃない?

シアタークリエ KERA CROSS第三弾 『カメレオンズ・リップ』

 カメレオン色の真実。カメレオン色って、何色なんだろ。幾重にも重なる額縁ごとに違う色が浮き出してきて、それが登場するおのおのにとっての「ほんとのこと」「うそ」なのだ。私の中ではこれはお屋敷に住む弟ルーファス(松下洸平)に収れんしていく物語だけど、姉のドナ(生駒里奈)を中心に考えたりする人もいるだろう。ツマミを動かすと色が変わる子供のボード玩具のようだね。

 まず、この芝居は全体が洗練されたコントで出来ている。面白いコントなのだが、その出来が、あまい。眼科医のモーガン(森準人)はコントの芯を掴んでずいぶんうまくやる。なんというか、品があるのだ。化粧品会社の社長を装ってやって来るビビ(シルビア・グラブ)ははみ出しそうではみ出さないぎりぎりの線、あっそこから先はやりすぎですよの内側できっちり演じる。ドナの同級生シャンプーの野口かおるは、前回観た時より格段に良くなっていて、この女がドナを狙う気持ちに無理がない。声もよくなった。けど、まだまだできる。二階でのコントのもりあがりがもひとつ。生駒里奈のドナは、初演のDVD観ちゃったのかなあ。台詞がいま、口に出しているところしかイメージできてない。台本と顔の距離が3センチしかない。もっと顔を離してセリフの全体の意味をお客に伝えてほしい。ドナとルーファスの冒頭シーン、声が丁寧でない。二人ともトーンが違う。松下洸平は声の割れをちゃんと修正してきたが、この戯曲はその上に、「コント」の完成度を要求してくる。しかも品が大事だよ。岡本健一ファーストサマーウイカの「ぬいぐるみに言わないで俺に言え」というとこは、ぶっきらぼうな愛の告白みたいなもんだと思う。岡本健一、スウィートなシーン嫌いなの出来ないの?坪倉由幸、コント巧くなって損になること一つもないのでは。セットわかりにくい。音楽多すぎ。

紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA  劇団民藝創立七十周年記念 『どん底――1947・東京――』

 まじかー。帝政ロシアの「どん底」生活の話を、1947年の東京に移しただけで、そのままやる?そして一番盛り上がる娘の叫びが省略?できる若い人は仕立て屋(齊藤尊史)と靴屋(本廣真吾)で、あとのメインキャストは年配の人ばかり?ちょっと、気を失いそうになりました。丹野郁弓だから大丈夫、きっと、大災害の避難場所やコロナを重ねてくれるよ。という期待もむなしく、話はゴーリキーの「まんま」進む。

 泥棒で生活を立てる特攻帰りのシンちゃん、尾形新一の橋本潤は、「距離感」がまだつかめていない。遠くにいる人には遠くにいるように、近くにいる人には近くに向かって、声の大きさを調節し、息を吐いてその息に音をのせる癖があるからそれもやめないと。こんなのすぐ直るから心配いらない。でも、「民藝の速度」でやってたらうまくなるのが60過ぎちゃうよ。のん気にしてちゃダメ。シンちゃんに思われる山岡テル子の森田咲子がいう「なんだかこわいの」という台詞は、前の自分の台詞とつながりがなさ過ぎて、なぜこわいかわからない。そして死にかけてるおかみさんの野田香保里、『ならず者』(高倉健主演映画1964)の南田洋子の咳をみて。ほんとヤバい咳だから。牝豚というひどいあだ名の菊江(庄司まり)好演。

 民藝の人たちって、劇団どうしたいのか全然わからない。このまま年配の上手い人たちが主役で静かに劇団の幕を引くのか、齊藤や本廣などの若い人に主役を渡して繋いでいくのか。基本の修練をやっている橋本をフィーチャーするのは、まるで「まだ若い人がも一つなんですよ」というエクスキューズのように見える。赤と緑の服でぴょんぴょん弾けてる日色ともゑにはすごい受けたけど、どういう民藝でありたいのか考える時だ。

歌舞伎座 四月大歌舞伎 『桜姫東文章 上の巻』

桜姫、どんな人かと思っていたら、こんな人だったんだね。今まで本でしか知らなかった話が組み絵みたいに立ちあがってきて、極彩色で、わくわくした。

 白菊丸(坂東玉三郎)と清玄(片岡仁左衛門)が花道をやってきて、白菊丸が優美にふんわり転ぶと、

 (あっ)

 と清玄が助け起こすのだが、その清玄の方へ、ゆっくり頭をめぐらせて目を見かわすとき、(いた…ぁい)と言ってるみたいでかわいく、笑った。この発端の二人は全体的に甘く、「つらいよねー」「ねー」って言いあってる恋の場面に見える。白菊丸も「ふと」身を投げてしまうし、全篇貫く因果がこれでいいのか。

 自転車に乗ってて車にぶつかりそうになった少し風変わりな女の子が、近づく車にパニくってハンドル放したり目を閉じたりしないで、「前を向いて力いっぱいペダルを漕いだ」って話を思い出す桜姫。桜姫はピンチでもあきらめない。一生懸命ただいまの「自ら」に正直に生きる。出家したいと思ったり、悪い男に惚れこんだり、その時その時、ぐぅんとペダルを踏み込むのだ。

 赤い着物に遠山と桜の縫い取りの御殿の姫、出家を願う姫は、言葉の一つ一つ、母音の一つ一つが小さく帆を張ったように凛としていて、釣鐘権助仁左衛門二役)との恋の場面ではそれがつながって音楽のようになり、三囲神社の土手をさまようと、声が平たく、灰色になったような気がした。これに対して清玄のほうは、白菊丸に掛ける言葉が濡れ濡れしていて、その後の総てをぜーんぶ暗示している。可哀そうな人なのさ。二役の権助は、しゃっきりしているけど、すこしにごった声。いかにも女が惚れそうな細身の粋な立ち姿で、折助らしくお庭さきにしゃがむのも様になっててかっこいい。これが好いた男と感づいた姫に、座敷へあがれと言われて草履をぽん、ぽんぽんとはたいてあがってくる。一つ目の音は大きく、続く音は小さい。あの音聞いてるだけでもドキドキするよね。何するかわかりませんよ、いいんですねと小さく耳元で念押しされてるみたい。横風な感じで姫の膝に足をのせる権助は、足の重さ、身体を観客に意識させる。桜姫はためらわない。男の手で帯を解かれ、自分から男の着物を脱がす。御簾からこぼれる姫の桜色の着物の色。この官能的なシーンは局長浦(上村吉弥)と役僧残月(中村歌六)の滑稽な情交と二重写しになっているんだね。

 にしては、百叩きに遭う桜姫は、何かの法力に守られているように痛くなさそうだったなー。そんな話じゃないじゃん。肉体性ということで言うと、ここ、痛くなくちゃダメじゃないの。

 いくつもある「ぎっかりときまる」シーンで、視線がぴんと張った勁い糸のように感じられて、うつくしく、胸がすくようだった。

 開幕三日目だからか、紐の始末がもたついたり(下手にするすると吸い込まれていった)、台詞がいまひとつ(お局五百崎さま…)だったりした。三日目でも切符(劇場の人たちはチケットの事を観客に対して「お切符」という、歌舞伎座へ来た!とおもった)の値段は同じだよ。

世田谷パブリックシアター 『子午線の祀り Requiem on the Great Meridian』

 天を貫く遠い彼方からの視線が、「息子の死」を見、その死を手をつかねて傍観していた「自分」を見、敗け、失われてゆく「我ら」をみる。自分もまた、その天の非情のめぐりを知る大乱の物語。

 2017年上演版の星空をもっとずっとかっこよくしたバージョンだけど、冒頭のアイデアは、いったん捨てた方がよかった。途中まで野村萬斎と気づかないナレーションが、「マイクを通して」(ここで興ざめ)重く聴こえてくるが、私は世代のせいか、学校の講堂で見せられた教育映画のそれに近く感じる。「足元」「あたまのてっぺん」を意識させる身体的なアプローチ、規矩を越えた感覚的な何かが欠けている。これじゃあやっぱり、時空を飛ばないよ。

 成河の義経は、声を甲高くし、威勢よくやってて素晴らしい。(が、余計なこともやっている。)これに対して萬斎の知盛は――知盛さまは――声を低くして応じる。こちらは足らない。もっと内省的な知盛さまでいてほしかったよ。そうでないと「宇宙のめぐり」とか感知できなくない?パンフレットにハムレットに似ていると萬斎が語っていたが、ハムレットとは違う。この役はもっと「小刀で」抉るような探究、心の弱さ、やさしさ、ほそさをさらすような芝居が求められているように思う。ハムレットで培ったものを出してるだけじゃなあ。よわい所をさらす、それは野村萬斎という俳優の課題である。

 松浦海之介、敵二人(岩崎正寛、神保良介)を両腕に抱え込み、「死出の供をせよ」と海に飛び込む能登守教経を、立ち回り含めきっちり演じている。でもさ、ちょっと足りない。このひと知盛に言いたいことも、かなしいことも、きっともっとあったんじゃないの。それが身体に出てないとね。知盛は「舞台奥で」あの最後の台詞を言い、教経は「舞台前面で」戦う。そこになにかしら意味がある。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『メトロポリス伴奏付上映会 ver.2021』

 わざと簡易に立てられたスクリーンの下手手前には、ビブラフォンアコーディオンピアノコントラバスがある。楽譜の上に光が当たり、四角い白さが際立っている。上手は「メトロポリス」に林立する塔のように見えるものが台上にいくつも並べられ、その円形の台座の湾曲が照らされて銀色だ。その他、即座に「電気」を思わせる配電盤のようなものが見える。下手は「木」、上手は「メタル」でまとめられ、それぞれ「技術」と「頭脳」を表わしている、かな。1927年の、この『メトロポリス』に新たに音楽をつけた(阿部海太郎)(生駒祐子)(清水恒輔)(巽勇太・装置)が登場する。黒のキャスケット帽に黒の上下、背中にはそれぞれ番号がついている。メトロポリスで働く労働者と同じだ。

 この映画を観るのは初めてだけど、「大衆と映画」について考えてしまう。大衆の指導者となるマリア(そして人造人間)(ブリギッテ・ヘルム)は映画の事じゃないだろうか。フリッツ・ラングは映画がプロパガンダとなって大衆を扇動する危険について気づいてたし、「こどもを見失う」=戦争の接近を感じてもいたし、大衆そのものが変質して全体主義となることを予言してもいる。

 人造人間の造型が美しい。程よく肉感があるのに、決して人間には見えない。マリアとフレーダー(グスタフ・フレーリッヒ)が愛を認めあう時、その目に狂気を感じる。映画――マリア――を観る眼差しの狂気の源だ。音楽は一音の間を波のように行き来して調音する冒頭から過不足ない。特に、メトロポリスの心臓部に水が出る辺りから、美しいやさしい旋律が流れていて、悲しいシーンが拒否感なく染み込んでくる。樋を流れてくるビー玉の音と相俟って、「こころ」(映画)が「手」(音楽)と「頭脳」(音)をつなぐんだなと思った。でも上手の音は、何をしているのかさっぱり見えん。残念。

劇団俳優座 No.345 『雪の中の三人』

 逸脱、決められた枠から外れること、それが許されるのは、トブラー(森一)が億万長者だからだ。トブラーは貧乏人を装い、下男のヨハン(加藤頼)はトブラーに命じられて裕福な事業家を演じる。一方フリッツ・ハーゲドルン(田中孝宗)が家業の肉屋にもならず失業し続けているのは、逸脱できないからじゃないかなあ。金のない者は逸脱できない、特にあんな母を持っていれば、だってあのお母さん(青山眉子)の背負うソーセージの屋台の悲しさをご覧よ。この可笑しい話のなかで、屋台のサラミがゆらゆらする度、客席で粛然とするのだった。人は見かけによらないけど、大概の事は金で解決でき、雪だるまのように儚く友情は溶ける。逸脱できない貧しい青年が幸せになるためには、世界の箍が外れたような、恐ろしく大きな逸脱が必要なのだ。ケストナーの夢だよね、これ。

 タッチは軽く、面白く進めようと小山ゆうなは努めるが、円形の二重を叩くボーイ(山田定世)とフリッツの手に軽さとノリがない。みんな「やらされ」てちゃだめ。自分の社長になれ。その点マレブレ夫人の瑞木和加子とカスパリウス夫人の安藤みどりは社長。観客からレスポンスを貰わなければならないシーンとか、孤独だと思うけど、よく頑張った。もっと素でいいよ。観客が「尋ねられてる」ってわかるように。衣装も優雅でよく似合ってる。森一はトブラーよりずっと頭が切れて大人なのがばれちゃってる。もともとの柄が違うのだ。加藤頼どこと言って過不足のない芝居だしお酒飲むところもちゃんと飲めてる。でも社長が足らん。フリッツは猫嫌いでしょ。ていうか猫を知らない。猫の部分もっと緻密に組み立てないとつまらない。

 雪だるまが消えていくという皮肉な感じがいまひとつ演出から伝わらなかった。ここが弱点です。