よみうり大手町ホール 『ダブル・トラブル』ブロードウェイチーム

 ジェーン・ラッセル、アステアと、15、6枚の額入り写真の飾られたシックなリハーサル室(録音ができ、ピアノや小さなカウチや、大きな机、木製レリーフの壁、木の切嵌めの模様など素晴らしい)がミュージカル全盛のハリウッドのお金持ちぶりを再現している。

 ところが、この写真の中の1枚――時代は下るけどジェームス・ディーンかもしれない――が、外れて落ちる。何度も落ちる。ジェームス・ディーンが怒って家に帰るくらい落ちる。従ってこのセットの評価はゼロだ。それでなくても早替えの連続の役者は緊張しているのに、これじゃあねー。

 ニューヨークからミュージカルナンバーの作詞作曲のために呼び寄せられたジミー(原田優一)とボビー(太田基裕)のマーティン兄弟。ハリウッドでのボスガーナー(太田基裕)と映画監督のクリースト(原田優一)は、今すぐ曲がほしい。兄弟のもめごとの種となりやすい女関係を絶って、二人は曲作りに取り掛かろうとする。そこにいろんな邪魔が入る。一番大きな邪魔は、レベッカ・レフューデルマガニス(原田優一・太田基裕)と名乗る、ヒット曲を狙う美人女優だ。原田も太田も芝居が達者だ。原田の演じるエージェントのクイックリー、映画監督はとてもよかった。一方太田は娘役が娘にしか見えないほどうまく、クイックリーと秘書の場面はとても安定している。しかしそれに比べると、黄金の耳を持つ音響係は「借り着」にすぎない。また、レベッカの役は「大きな役」なので達者なだけじゃダメ。「深さ」「貪欲さ」がなければしょせん借り着の物まねだ。あんたがた役者でしょ。その上、レベッカの、このオチはどうよ。幹となる兄弟役に腰が入っていないため(早替えのせいだと思う)1幕は退屈。ところが、全てを諦めた兄弟は突然輝き始める。歌も芝居もいい。早替えが終わったせいじゃないか。

PARCO THEATER 『ピサロ THE ROYAL HUNT OF THE SUN』

 万里の波濤を越え、二週間の退屈な待機に耐えて、インドよりもコロナの猖獗する国にやってきた異国の客人。初日の芝居を観るために、劇場の真ん中あたりに座を占めるウィル・タケットの、きりっと立てた背筋を見ながら、「異国」について忙しく考えるのだった。だってあたし、インカ王くらい後ろ(うえ?)の方に座ってるんだもん。

 孤児で私生児のピサロ将軍(渡辺謙)はもう何も信じることのできない、不信の中にいる。インカへ旅立つ六十を越える彼は独身で、この芝居の中で「二人の息子」を持つ。一人は献身的に彼を信じる15歳の小姓マルティン大鶴佐助)、もう一人は「神」を名乗るインカの王アタウアルパ(宮沢氷魚)だ。王に会うための厳しい旅、不意打ち、アタウアルパの身柄を巡る緊迫したやり取り、アタウアルパとの約束を破ったために、マルティンピサロを捨て、ピサロ自身はアタウアルパに置き去りにされる。「異国の神」と「キリスト」が双子のように描かれ、最後に老マルティン外山誠二)が神の恵みを聴き手に願うと、「何の神の」「どんな恵みだったのか」がすっかり判らなくなる。この芝居を観れば、ずいぶん最近まで神聖な「神」の存在していた自国のことを思うわけだが、そこんとこちょっと遠慮勝ち、掲げられた大きなインカの太陽が、うっすら赤く見える位。やっぱ客人やね。芝居は大変面白いが、それはシェーファーの戯曲「のように」面白く、今、この場で「それ以上」がなかなか起こらない。「背き」「背かれる」関係がもっとたたみかけられるべきだよね、渡辺謙、身体が痛そう(ほめてる)だが死の匂いがしない。生きてる時より死んでる年数の方が長いんじゃん、「神の国」から締め出されているこの男の絶望が欲しい。牢獄、どんな太陽に照らされていても、それはそこにある。

彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 彩の国シェイクスピア・シリーズ第37弾 『終わりよければすべてよし』

 曠野である。ひとすじの風、空気を孕んだ何者か、または笛のような音がして、真っ赤な野の草をふと揺らす。

 あっ にながわさん

 一瞬空を見上げるような気持になり、「ここ」があの世とこの世の通路であることを感得する。赤い野原(曼珠沙華らしい、そう見えないけど)はルシヨン公爵夫人(宮本裕子)の屋敷であり(赤いカーテンが外の闇を見張っている)、ヘレン(石原さとみ)の書斎であり(血肉のある赤い人体模型と目に黒い死を溜めた骸骨)、血を吐き死にかけたフランス王(吉田鋼太郎)が、バートラム(藤原竜也)に不意に幻視する昏い死の世界である。ダイアナ(山谷花純)のベッドに入り込むバートラムの情欲で花は一層赤く燃え上がり、次には生き恥を呑み込んで生きるパローレス(横田栄司)の、決しておさえこめはしなかった恥の色になる。ヘレンの朽ち葉色のドレスが、吃驚するほどバートラムの紫の軍服と似合わない。ここがポイントですね。ちぐはぐな二人。想う人の冷たい台詞で追い払われるヘレンの心細そうに曇った眉、戦場へ追いやったのはわたしと心から叫ぶ声(こんな男なのにね)、浮気な若者を世界一の男に研ぎあげる彼女の恋が、年配の私をほろりとさせる。冬は棘をつけ枯れたように見える薔薇も、夏には美しい花を咲かせる。黒と赤は別々のものではなく、同じ一つの異なった姿なのだ。とってもロマンチックに仕上がっていたけれど、

 ヘレン:自分の好きなように手放すにはどうすれば?  という、徒手空拳の身の上で、娘がありったけの知恵を使って世界に挑む冒険ものとして観たかった。藤原竜也、もっとわがままで。嫌われていい。最後に浄化されるから構わないよ。石原さとみ、最初舞台を駆け回る意味が解っていない。溝端淳平、最初のシーン、明度を落とす。山谷花純、最後の訴え、ちょっと芝居大きい。

アマゾンプライム 『ハリエット』

 奴隷のミンティ(シンシア・エリヴォ)は自由黒人のジョン・タブマン(ザカリー・モモー)と結婚しているが、どうしても自由にはなれない。農場主が死に、売られることになったため逃亡を決意する。農場で虐待を受けた後、昏倒して眠る病気を持つ彼女は、牧師や水夫(いわゆる逃亡奴隷を逃す地下鉄道の人々)に助けられ、フィラデルフィアに逃げのびる。ハリエット・タブマンと名を改め、南部に残る夫を救出に戻るが、夫は新しい妻といた。ハリエットは何度も南部へ入り、奴隷たちを連れて自由州、さらにはカナダへと還る。決して失敗せず、正しい判断で危地をのがれるハリエットは「モーゼ」と呼ばれるようになっていった。

 「黒人と白人のドライブ映画」って、こういうことじゃないの。黒人が逃げ、白人が追う。同じ道を辿る「時間差のあるドライブ」だ。時間が重なれば、そこには「死」が待っている。こんな現実が延々と続いている限り、「黒人から見た『グリーン・ブック』」なんか、平和に撮れやしないよね。

 映画の始まりが、ごちゃごちゃと縺れたように情報過多で、とても捉えにくい。シンシア・エリヴォの眠っているのとははっきり違うナルコレプシーの身体、自由黒人と奴隷の表情、ふるまいの違い、連れ去られる姉たちの幻影。こみいってる。そして、最初から最後まで、「時間差で」「ともにドライブする」農場主の息子ギルモア(ジョー・アルヴィン)への憎悪を籠めた複雑な感情が描写されていない。ハリエットのギルモアに向ける最後の表情も、複雑さを欠く。ギルモアの、「食い詰めることへの恐怖」「母への恐怖」は活写されているのに。夫ジョンの後ろから一節だけそっと歌を歌うシーンに、それまでのハリエットの感情が総て伝わる。シンシア・エリヴォはあれだけの歌唱力があるのに殆ど歌わないが、こことてもよかった。

渋谷La.mama 『KERA solo live My living trick A Night of Small Show』

 メモ取りながらドリンク持つの無理。と早々に引き換えをあきらめ、上手後ろの隅っこに、リュック背負って立ってる。

 アウェー。

 だってあたし演劇部上がりの演劇班だもん。KERAが劇団立ち上げた時、どのくらいawayだったか、ちょっとだけ考える。

 そよそよとこざむいビル風が吹き、道の突き当りに上がり下がりするエレベーターの見えるマークシティが立つ。蔦の絡んだ「ラママ」入り口に、いい感じに放っておかれたツツジが伸び放題に花を咲かせている。初めて来たのかな、初めてではなさそうだけど、いつ、何故来たかは思い出せない。「ラママ」は少し変形で、中にいるとひし形みたいに感じる。下手にキーボード、真ん中に譜面台、上手にギターが二本おかれている。譜面台の奥にピアノがあるかな。出入り口脇の、鏝あとを盛り上げたデザインの壁に厚くペンキが塗られ、ミュージシャンがマジックでさまざまにサインをしている。「銀杏BOYZ」というのが読める。80名限定ライヴ。

 黒の山高帽とスーツのピアニスト(佐藤真也)が、ちょっとロマンチックなピアノを弾く。「そんなしっとりしたの弾くと…(笑)」と、あとから舞台に上がったKERAは戸惑って見せる。緊急事態宣言が解除される日に有頂天のライヴがあって、明日からまた宣言になる日に自分のライヴがあるという話。「だから次のライヴは…」と冗談を言う。

 めっちゃ難しい歌いだしの『STARDUST』。ジャズ…。「And now the purple dusk」むずかしいのにKERAは知らん顔して歌う。音を外しても堂々。「but,」という一音だけが素晴らしい。うすい上品なグレーの帽子に、白とオレンジの飾りがライン状に小さくついている。生成コットンの膝丈の上衣を羽織ってる。中は白Tシャツとジーンズ、茶色のスニーカーのつま先で、とんとんと拍子をとり、右手の人差し指も、マイクの上で拍子を刻む。年を取ったら誰しもスタンダードジャズを歌ってしまうものなのかなあ。次は『神さまとその他の変種』。こっちはいい。手に汗握った『STARDUST』のことをすこし忘れる。

 「ああ もう 日が暮れる

  ああ もう 夜が明ける

  時はたつ 繰り返す 止まれない」

 「流れゆくもの 滞るもの

  海の中にはクラゲがぽつり」

 ピアノがぴろろんと鳴り、かわいかった。「歌う」ということについて考える。だって、『STARDUST』聴くんだったらナット・キング・コールとか、たくさんいるんだよ巧い人が。そこであえてKERA が歌う意味。

 KERAは途中で『クスリルンバ』という薬の名前を挙げるだけで出来てる歌を歌っていた。センスよく字数も『コーヒールンバ』の替え歌に合っている。一番は穏当だけど、二番は毒があり、それもKERAらしい。

 なんか生成りの上衣の裏には色とりどりの試験管が並んでいて、それをKERAが調合してるみたいなんだよね。KERAの歌は「歌を聴く」って感じじゃない。「調合具合を見る」感じだ。パンクだからか。でも歌の事もすごく意識してる。その証拠に今日のバックのミュージシャンて門外漢の私にもうまいなあと思わせる。ピアノは最初こそちょっとしんみり系だったけれど、KERAとの掛け合いも素晴らしく、ギターの伏見蛍(教育テレビに出ているんだって)もうまくてかっこいい音で、私のいるところから姿の見えないヴァイオリン(向島ゆり子)の加わった『Cheek to Cheek』とか、『STARDUST』と別物のようだった。ん?すると最初調子が悪かっただけなの?なぜあのむずかしい曲を一番目に持ってきた?KERAの歌の世界を拡張するためでしょ?「歌を聴く」世界の話だったら、あの歌は却下だよね。とても無理。「調合具合を見る」ならアリだ。「歌を聴きつつ調合のハイセンスを楽しむ」なら、もっと歌い込みが必要。がんばれ。

本多劇場 ゴツプロ!第六回公演 『向こうの果て』

 舞台後ろに重なり混み合う無数の根っこ、上手から三分の一あたりにすきまがあるけれどそのすきまは思い切って暗く、そこに手でさわれない、見ることもできない、闇の根が張っているように感じられる。その根のあるところは津軽だということになっている。瞽女(ごぜ)、門付け、そんな言葉が次々出て来て、昭和六十年の津軽の男や女を根に絡め取る。律子(小泉今日子)は恋人で小説家の公平(塚原大助)を殺した罪で、検事に調書を取られている。律子は投げやりに罪を認めるが、これまでに律子が関わってきた男たちの証言を取るうち検事の津田口(泉知束)は律子の人生にのめり込んでいく。…っていう話?この芝居で一番大切なのは、根にある方言だ。なのに、方言が窮屈で、豊かでない。国立国語研究所の資料とか、みた?「わ」っていう主語が、まずろくに言えてないではないですか。そして、律子の母が秘密を打ち明けるところは、深い闇のような津軽弁でなければだめだ。津田口が律子にのめり込む様子がわからん。スーツの中の身体が変わらないもん。小泉今日子の律子は故郷を出てから心が凍ってないとだめ。最後の包丁を持ち出すシーンは、ラブシーンだ。この禁じられた恋人たちはここで、肉体の愛を交わしているのだ。「私の男を、私が殺しました。」愛でしょこの台詞。ここ物凄く大事。(「あんたしぬの?」以下の台詞はこの芝居の中で一番色彩が載っていた)

 男たちが口々にこんな女だったと律子を語るのは、結局自分のことを語っているんじゃないの?娼婦が男に5000円でいいという時、それは値段を下げてるんじゃなくて、男を値踏みしてつけた「男の値段」だったという話を思ったよ。律子は、男たちに男自身の姿を演じて見せただけだったのでは?津田口の最後の荷物は、紙袋より風呂敷がいいよ。その方が昭和です。津軽三味線、本物の音。

シネクイント 『BLUE  ブルー』

 一けた台の体脂肪率、鋭い目つき、早いパンチ、ボクサーを演じる東出昌大は、『聖の青春』の頃より三割増しでよくなっていると思う。どうしても試合に勝てない友人瓜田(松山ケンイチ)のノートを見て、「睫が濡れてるだけの」泣くシーンなど、センスもアップしている。けど、三割増しじゃダメ。五割増しじゃないと。スキャンダルを背負っているからだ。冒頭の、携帯の画像を試合前の瓜田に見せるところ「なんですかね」、台詞っぽすぎる。周囲の雑音を一回身体に通してさりげなくいってほしかった。だってあのシーン二回あるじゃない。

 ボクシングを「する」若者たち、もてたいために「やる」楢崎(柄本時生)、好きだから「やる」瓜田、才能があるから「やる」小川(東出昌大)、瓜田の幼馴染で小川の恋人千佳(木村文乃)を挟んだ微妙な感情を掬い取りつつ、青年がボクシングに「なる」瞬間を描く。瞬間は人生に溶け、最終ラウンドはどこにも見えない。生きることが「ボクシング」と等価になるのだ。

 よかったのは瓜田の最初のノックダウン(背中を強く打つ)や落ち込む瓜田、そしてその背後から足音高く近づく千佳だ。優しい女の子だよね。

 生理中なのにセックスするというディテイルや楢崎の祖母の描写がまったくあか抜けない。日常性、さりげなさのセンスが欠けている。柄本時生の「勝ちたいんだよな」も真正面すぎ、恥ずかしかった。

 松山ケンイチの最後のシーン、本当に素晴らしいけれど、もひとつぴんとこない。身体性を、もっと息つめるようなひとつづりの映像で捉えることはできなかったのか。あそこ、私の脳内では、だんだん濃くなっていくブルーのグラデーションに見えているんだけど。