観劇三昧 小松台東 『ツマガリク~ン』

 朽ちかけの、電線を巻き取る巨大ボビン(?)が、ちょっと怖い。古いベンチや機材が投げやりに積み上げられ、フェンスで仕切られている。このくすんだ廃墟を隔てて、休憩用の屋外すいがら入れと、ベンチが中央にある。ベンチだけが、あざやかな青空色。

 上手から下手へ、横わけヘアピン留めの若い女(長尾純子)が、缶の飲み物を飲みながら歩いてゆく。また上手から(時間の経過が省略されているけど、それってあり?青年団的な始まりなんでしょ)飲み物の缶を、目に押し当てて男(瓜生和成)が通る。カートを押す男(廣川三憲)が倉庫から出て来て、下手へ運び去る。「ごくろうさん」だの「おはようございます」だの言う。皆職場仲間だ。長髪の作業着の男(松本哲也)が煙草をベンチで吸い、だるそうに言う。「てげねみって」。えええっと居住まいを正す。いまなんていったー。これが宮崎弁か。初めて聞いた。異化効果やねぇ。

 ある電気の機材会社、発注された機材を先方に届ける。社内は二人がいざこざで抜け、人手が足らずぎくしゃくしている。下手を出たところが会社、上手が敷地の外という設定だ。基本、動線は会社の出入りの双方向だけだ。なのに話は複雑。まず、社員が多くて、キャラが立ってない。作業着なので余計わかりにくい。人手不足を一人でカバーしていたヒョウドウの倒れたわけが、わからないまま少し不気味に芝居は進む。

 一つ疑問なのは、小松台東の松本哲也って東京在住でしょ?東京にいると方言はカプセル化してしまう。或いは、そもそもの方言と別物になってゆく。このまま方言で作劇を続けるのだろうか。異化効果のインパクトも薄れちゃうけど。

 社長の息子津曲友作(今村裕次郎)がやな奴。「題名背負えるのか」と心配になるが、最後はちらっと、彼から青空色が見える。

配信 DULL-COLORED POP 『丘の上、ねむのき産婦人科』

 ずいぶんよく調べて書かれている。医療の監修や、ジェンダーの観点からの監修も入っている。だからたぶん、あきらかな思い違いというのはほとんどないのだろう。谷賢一は善意の男性で、出産の「当事者性」を掘り下げながらこの作品を書いた。19歳の専門学校生(冨永さくら)と建築業のその同い年の彼(内田倭史)、キャリアアップのために必死に働く女性管理職(湯舟すぴか)の二人目の妊娠とそれを支える主夫の夫(宮地洸成)、外資の生保で働く16歳年上の夫(岸田研二)とつわりに苦しむ妻(大内彩加)、等々。しかし、谷賢一がこんなに一生懸命考えても、いっときは頭の上にずっと「石」が浮かんでるみたいに「こども」について考えていた者の知らないことは一つもない。予測がつく。(パンフレットの俳優たちの正直な言葉の方がずっと目から鱗だし地続きなのに新しい。なぜこれつかわなかったのか…。)東谷英人と李そじんの夫婦には、「何かの理由で子供が生まれなくなった」という可能性が、洒落たソファの下にうずめるように置いてあり、谷の周到さは感じるけどさー。でも39歳で結婚して子供を授かろうと不妊治療の1500万の出費に耐える女性医師(木下祐子)と作家(塚越健一)のケースでは、「なぜそこまで子どもが欲しいのか」という問いに対して女医は答えられない。ここ、あいまいな感情――それは哀しみかもしれない――を表出する大切なシーンに演出が失敗してる。

 AとBの男女の入れ替えバージョンについても、性差の違いはあまり感じない。それよりも、個々の俳優の台詞の理解の違いの方がこの芝居を立体的にする。全体に役者の芝居が大きすぎる。配信のせいなの?建築関係の彼氏内田倭史、芝居がペラいぞ。背景が全く想像できない。倉橋愛実、顔をそんなにゆがめちゃいかん。目をむくのも控えめに。渡邊りょう、とてもいい役、好演。

シアタートラム ケムリ研究室no.2 『砂の女』

 幕開け直前、オペラ『道化師』の「衣裳をつけろ」がモノラルで流れる。独りよがりにも聴こえる悲壮なテノールだ。あっそうだ、公房の『砂の女』ってモノラルで、単眼だよねってなった。冒頭の「地の文」は男(仲村トオル)の声の高さにそろえてあり、家を出て汽車に乗りバスに乗り、砂地を辿ってハンミョウを追いかける男の足取りは単純な一本線で、これから起きる出来事は、例えばアリジゴクをじーっと眺めている男の脳内での物語(縮んでゆく男、巨大化するアリジゴク、擬人化される虫たち)であったとしても一向に構わない。そして何よりも砂の女には、体躯があって顔がない。砂まみれの裸の女、その顔は隠されたままだ。「男」の「単眼」で視た時、世界はこのように見える。これ1962年。

下って2021年、『砂の女』をKERAは複眼化しようとする、モノラルでなくステレオに、男の俺様モノローグを男女のデュエットに変える。音楽もプロジェクション・マッピングも洗練され、軽々と宙を舞う重い得物(刀)のようなのだった。

 えーと、谷崎の『細雪』って、きっと「B足らんの注射」の奥に頽廃を持ってるよね、映画では石坂浩二と「美容院の先生」(横山通乃)が「できて」いる。ほんとは谷崎もこんな風に書きたかったのかなと思ったが、この『砂の女』では、複眼化しようとして一歩踏み出した足が、「メロドラマ」になりかけだ。安部公房が「えー」といいそう、「後退している」っていいそう。私はKERA版のこの芝居が好きだが、これ決して冒険ではない。顔のない女(剥ぎとられた愛)に顔を与えるウェルメイドプレイだ。現代の『砂の女』(緒川たまき)と、メロドラマの間に明確な境目が欲しかった。とはいえ、コロナ下にこれだけ優れた芝居ができたこと、本当に素晴らしい。

 オクイシュージ、おそろしいの「そ」が「tho」になってるよ。

Bunkamuraオーチャードホール DISCOVER WORLD THEATER vol.11『ウェンディ&ピーターパン』

 ミスター・ダーリング(堤真一)は登場しながらもう、ミセス・ダーリング(石田ひかり)の唇の上に浮かぶ「謎めいたキス」について語る。あそこ、きもだね。戦争ごっこの仲間に入れてもらえない女の子のウェンディ(黒木華)は、「おねがーいなかまにいれておねがーい」という、媚態を示すことで(媚態という物がなぜどこから来るのかが端的にわかる)許可されるが、廻ってくるのは「人質」の役である。これら二つの事からこの作品が、今日性を帯び、原作のいいところを押さえたものなのだとささっと心に来る。世のたくさんの女の人が、夫に向かって「私はあんたの母親じゃない」と言い聞かせているというのに、ピーターパン(中島祐翔)だけがウェンディにお母さんになってと頼んでる場合じゃなかろう。ウェンディが女の子の連帯を組むことと、出かけて行ったミセス・ダーリングが仕事を得ることは相関している。ウェンディは、ミセス・ダーリング、ミセス・ダーリングはウェンディである。

 が!この芝居には「流れ」がない。立てるべき場所と流す場所が、大小にかかわらずすべて無視されているのだ。小さいのは台詞の言い回しから、大きいのは「謎めいたキス」の堤真一の流し方に至るまで、キズが多い。「謎めいたキス」、立てて。ジョン(平埜生成)は「ママ!」と叫んだあと「まあまあ」と言い換えるのだが、ニュアンス繊細さないじゃん。ロストボーイズのやり取りもまずい。ウェンディが「物は――、」と怒るシーンの、その前の台詞は「ふり」なんだからさ。すーと流す。石田ひかり、身体こわばってるし堤真一のセリフ聴いてない。山崎紘菜、トーンはいい。でも台詞は「それで」の一語きりよくない。一語よければすべてよくなる可能性。渡り板が見えず、中島の「死ぬって素敵な」っていうセリフには怖さとわくわくの二重性がない。石井桃子の「すごい」じゃダメ?

配信 大パルコ人④マジロックオペラ 『愛が世界を救います(ただし屁が出ます)』

 真面目にいっちゃうと、あの「宮下公園リニューアル」は、看過してはいけない問題だった。企業に委託し、再開発して「入れない人」をつくる。公共の空間なのにだよ。メンタリストの素(もと)だよね。宮藤官九郎はむきつけにそんなことは言わない。しかしオープニングのナンバーの歌詞は「なんかやだなあ」であり、ニジロウ(村上虹郎)の住む公衆トイレの背後には、宮下パークが黒々と浮き上がる。ニジロウは「あっち」から来た娘ノン(のん)と知り合う。ノンには変顔をするとおっさんの声でテレパシーを送れる超能力があり、ニジロウにも30秒後の世界を予知する力がある(ただし屁が出る)。いつかお互いを好きになった二人は、他の超能力者たちとも協力し、はっきりそれとは見分けがたい(と私は思った)敵と戦い、それと見分けがたいエンディングを迎える。

 これ、ロックオペラだよね。怒髪天上原子友康の曲はなかなか良いと思うのだが、配信のせいか迫力はない。なによりのんがうたえてない。息が全部声になってないの。腹筋・体幹を鍛える必要がある。大体、ボイストレーニングしてるのか。この芝居のためのインタビューを見たが、甘い子供のような発声、滑舌で、これからどうすんだ。28歳。自分のデザインをどうするかよく考えてほしい。

ただし、じゃーんと登場する冒頭には華がある。村上虹郎、スモーキーな素敵な声なのだが、いかにも「歌いこんでいない」。もっと聴かせていいよ。ノンを好きになって屁を我慢するシーンに抒情が足らん。「すき」のリアリティがない。抒情があるからそれを無効にする屁が可笑しいんじゃん。

 全否定(宮藤官九郎が全否定老人を演じる)から、全肯定へと至る一見わかりやすいメッセージの芝居だとは思うが、これ、誰に向けた芝居なの?そこがよくわからなかった。

『ほぼ日の學校』

 「サブスクリプション意味がわかんねえ~」(桑田佳祐)と、いう世代であるために、サインインがめっちゃ大変。一か月無料。入るときに「自分に名前をつけろ」といわれてすんごい恥ずかしかった。自分で自分に名前をつける。なにさ。はずかしい。慣れない。ぶつぶつ言いながら2日がかりでやっと見られるようになった。

 最初は鍼灸師・臨床家の若林理砂の講義から。いま、自分の中で人生何度目かのお灸ブームなのだ。背中さむ!ココロよわ!ってなるたびにがんがんお灸している。お灸用に買った灰皿まである。若林先生によると、素人のツボは的確に当たらないことが多い、精度が低いんだって。えー。とちょっとがっかりだが、てきとーで大丈夫、大体でいいといわれると気は楽。先生はペットボトルを使う。一人で気楽にできるけど、あっちもこっちも欲張っちゃだめらしい。自分のお灸を反省するのだった。

 この講座は「実学」って感じで、それが残念っちゃ残念だ。何かを「教わり」、「実践し」、「役に立つ」。それだったらツボを、いっそコロナに特化してもよかった。(「風邪に効くツボ」って、すごい遠回しじゃない?)

 昔テレビの対談など見ると、必ず「むずかしいこと」「わからないこと」「自分の理解から零れちゃってること」というのが入ってて、それがとても大切だったような気がする。この講義ものすごく役に立ったけど、「零れちゃってること」がすくない。まあ、あんまり深く語られたら視聴しづらいと思うけど、「すらっとはわからないこと」は、もすこしあったほうがいい。

 ヘアメイクアップアーティスト草場妙子の『では、眉毛だけメイクしてみましょう。』は、勉強になった。メイクの中に今の時代が入ってる。眉毛をいじりすぎないというのは、「地声の自分」を見つけるための第一歩だと思う。電話取るお母さんの作り声から、ずいぶん遠くまで来ました。メイクの済んだ女の人たちも、なにかこう、うっすら眉宇の辺りから息をしているようなのだった。後半の草場先生の、「その人らしさを損なわず」という声も心から出ていて、大変よかった。…こういうの、「いいコンテンツ」とかいうの?中身はいいよ、でもね、包装が陳腐。ナレーションは「トトロにおける糸井重里」的な地声のおんなのひと(「青年団」ぽい人)がやるべきだし、ぴろりろりんという音楽は、泣きたいほど古臭い。作品(コンテンツなの?)の精神を無視してる。作品を創る気構えが、はっきり言ってありませんね。コンテンツじゃないよ。作品だよ。

 今日さいごに見たのは笑福亭鶴瓶の「作品」。質問を受けながらこれまでや今を面白く語る。テキスト派の私はどうしても下の字幕を読んでしまい、最初困った。これ、耳の聞こえにくいひとのためについているんだね、と、そこまでは私もかろうじて経験でわかる。でもそこから先のリアリティが自分に欠如している。その先は滝。世界の果て。地球が平ら。でも鶴瓶はそれを実感で丸い球にして、世界の果てを一周廻って自分の足元につなげる。だからケニア人の運転手や、障がい者のことまで語れるのだ。この圧倒的な「みんな知り合い」の感じが触れにくいものを無効にし、かわいくも、おもしろくもする。ここ、熟練の芸でした。自分を開くことで笑いの幅が広がり、「自開症」が鶴瓶の笑いを助けているんだなと思った。「世界の果ててここですやん」というアナーキーな笑いを感じる。けど、20代の初め落語の稽古をつけてもらえなかった絶望とか、なかったの?あったでしょ。絶望が手薄。面白い話にするために犠牲になってる。そこも少し語ると、「作品」、もっとよくなるのに。

彩の国さいたま芸術劇場小ホール さいたまネクスト・シアター最終公演 『雨花のけもの』

 ――あー、バット折れてる。

 と、作の細川洋平にも、演出の岩松了にも、ネクストの俳優たちにも、言いたい感じ。不能と去勢の登場する世界、それを権力が規定する世界、岩松は「善悪詳らかならざる世界」を提示したかったのか。その結果人物の欲望がぼやけてしまいぴりっとしない。細川の脚本の、世界の枠はすごくいい。富裕層が若い者を「ペット」として飼う。いいアイデアだ。しかし台詞が凡庸。やり取りに「ペットを飼う」ディテールや「飼う人」「飼われる人」またはそのつもりの人ならではの実感が薄く、退屈する。「ペット」には「アバター」の側面や、レシピ(台本)の「プレイヤー」の部分が反転しながら見えた方がよかった。また、蜷川を思い出させる塵紙を背負ったふたりの「ペット」のやり取りは、「批評」「挑戦」というよりは「失礼」どまりであった。ネクストシアターが肚括ってこのシーンやってるんだから、もっとやりようあるだろ。芝居は反転に次ぐ反転を重ねて「一人の内面」に収れんしていく。それが結構意外で、なんか牽強付会感。心当たりの人「ペット以上のペットっぽさ」に腐心してほしい。俳優たちは「ちゃんとしている」が、それだけじゃダメ。脚本を助ける。周本絵梨香、男に捨てられてきた「過去」が見えない、鈴木彰紀もっと「欲する男」になれ、竪山隼太この医者何しに出てきたの、手打隆盛芝居に楔を打て、松田慎也無難すぎる、茂手木桜子、痩せすぎているよ、中西晶、芝居予想つく、續木淳平もだ、阿部輝もっとキャラ立てる、内田健司殺人に至る心がわからない、佐藤蛍体の癖(左肩上る)気を付ける、鈴木真之介ユング(中西)を飼う病的な繊細さが欲しい。アクリル製の嵌め殺しの窓が、生きているように震える。あれだったら、「目のようだ」っていえる。そこに大きく「飼われるな」とあるみたいで。