本多劇場 ナイロン100°C 47th SESSION 『イモンドの勝負』

 いろんなものがシームレスに、なだらかに続いているなー。『ちょっと、まってください』の時は、その先にあるのは不条理な、別役的世界だったのだが、今作では、対立する概念が、毛糸編みのミトン手袋みたいに、手首のところで一つになっている。すげーよ、とそこは思うのだ。母(峯村リエ)の手になる毒入りサンドイッチを食べたスズキタモツ(大倉孝二)はベンチで死んだのか生きているのか、本の山を抱える図書館司書(松永玲子)は本と一体化しているように見えるし、良い探偵(山内圭哉)は、手袋のゴム編みのとこで意外な展開をする。宇宙人と言えば侵略、地球人との対立概念だが、勝ち負けを競うことでは地球人と変わらない。

 そして何よりも「勝負」である。スズキタモツは38歳らしいけど、最初は母の愛人(赤堀雅秋)に「勝負するなら勝てよ!」と毒づく。でもいつの間にか「近々」「世界的な大会」にでて、「強さ」を競う羽目になってゆく。強さとは結局、「生き残ること」のような気がする。そして弱さに与えられるのは「死」だ。しかしその「死」は「生」と混じっている。地下に住む奇妙な生き物は人を喰う。喰われるくらいならと人もこの生き物を殺す。この関係がいろいろな対立を集約して見せる。「金の不足」がタモツを殺す動機(外側)となっていたのに、姉(長田奈麻)の死が、実は自分の薬のため(内側)と分かる所よかった。自分の墓参りに来て勝ちを予告するタモツ、そこには何か、センソウの予感がある。

 「イモンド」ということばがでてくるまで50分、いかにも長い。冒頭のスポーツ選手のきびしい、輪郭のくっきりしたスローモーション・ストップモーションが余りに見事で、こんだけできる役者でやってんだと怖くなる。赤堀の異物感がキマッてる、逆に言えばこの異物感以外、趣向が少なすぎ。いつもどおりすぎ。飽きちゃうよ。

東京芸術劇場シアターイースト NODA・MAP番外公演 『THE BEE』

 殺人犯の小古呂(おごろ=川平慈英)って、実在?てか、居るの?と終演後、頭の中が?でいっぱいになる。そして、全然別の空間の、全然関係ない小さい子供の震え声の問いを思い出す。

 ――鬼って生きてる?

 子供のにいさんは、やってることの手も休めず、生きてない、と断言してくれ、子供は安堵するのだが、いやいや、鬼はさ、生きてないかもしれない、けど、居るよ。例えば、小古呂の形で、井戸(阿部サダヲ)の中に。とか思う。確かにこの作品は9,11のアメリ同時多発テロに触発され、筒井康隆の小説をモチーフにしているかもしれない。でも、見て一番感じるのは、この芝居が、「悪」がどこから生まれ、どこに巣喰うのか、その餌は何か、一見何事もないように見える1970年代の日本(戯曲より)、1974年の日本(英語版より)にどうやってそれは現れるのかという概説だということだ。会社員井戸は妻と子を人質にされ、危険にさらされる。彼は被害者になるよりも、加害者となることを選ぶ。「殺人犯」の小古呂の似せ絵と化すのだ。このことは、戦地から帰ってきた父親たちが、何も言わないまま心に血を流し続けていたことを想起させる。「おんなこども」を犠牲にしながら成り立つ郊外の家に、鬼は「居て」、そして生きてない。恐怖と悪は仲がいい、恐怖は最もひどいことをする。

 川平慈英の刑事安直は振り切れていて素晴らしい。もっと派手にやって。川平が演じることで、後ろにうっすら「亜墨利加」が透けて見え、被害と加害の戦後を概観する働きもある。なぜあんなに早く阿部サダヲは「向こう岸」にわたり、「加害者になる」決意をするのだろう。脚本も阿部サダヲも急ぎ過ぎだよ。そこ丁寧に観たかった。すぐ「鬼」になっちゃうなんて。

新国立劇場小劇場 『イロアセル』

 『檻』に入っているのはだれか、っていう芝居のような気もするし、そうでないような気もする。寓話のような気もするし、そうでないような気もする。『イロアセル』は不思議な芝居だった。なにしろ、面白かったような気がする一方で、つまらなかったような気までする。

 どこか陸地(本土)のそばの或る島では、各人の言葉に皆固有の色がついている。それを「ファムスタ」というポータブルの小さな機械(ケータイの事だね、きっと)で解析すると、どこの誰が何を言ったのか、全て知ることができる。それで島の住人は誰もが当たり障りのないことしか言わない。そこへ、本土から一人の囚人(箱田暁史)と看守(伊藤正之)がやってきて、丘の上に檻ができた。そこでは言葉に色がない。島じゅうの人がそのことに魅かれ、記録されない言葉を求め、囚人にひっきりなしに面会に来る。

 作家の考えた世界が、これ以上ないくらい無理なく具現化されている。プリズム(分光器)のように奥から手前に広くなる幾何学的セット、下手のフラットな壁に、段のついた天井や上手の壁に、美しい色が映し出され、登場人物の衣装もセンスよく楽しい。衣装に仕掛けのあるところもよかった。プリズムの光線の、いちばん細くなる所に「痛み」が仕組まれていて、そこで芸術鑑賞で来ている高校生たちはじめ、私を含む一般客も、はっと息を飲む。「島」の裏側の悪意、恨み、怒りが凝縮している。これ、「恐怖」でしょ?ちょっとあからさま。囚人の箱田暁史、いい役喜んでる場合じゃないよ。音域の一番高い所を使っているが、下げて。首に緊張の筋が出てる。それだと他の人の芝居が受けられない。人の台詞聴いて。カウンセラーみたいに。演出がきちっとやるといっていたにも関わらず、笑いが不発。女の人たち書き込み不足。寓話の限界かなあ。

PARCO劇場 パルコ・プロデュース2021 『ザ・ドクター』

 おもしろいじゃないの!ずーっと目の前の舞台に釘づけだった。医師ルース・ウルフ(大竹しのぶ)の患者が死に瀕している。患者は14歳で、中絶に失敗した。両親は海外で、飛行機でこちらに向かっている。両親の意を受けたといって、神父(益岡徹)が最後の典礼を授けに現れる。ルースは神父を病室に入れない。患者の意志が分からないという。それは次第に世間を巻き込む大問題となる。

 人間ってもちろん「個人」ではあるのだが、その「属性」を辿っていくと、ひとは「女性」であり「医師」であり「ユダヤ人」であり、とどんどん分解されてゆく。その「属性(例えば女性)」が浴びる「差別的視線」、あるいは「属性(例えば医師)」が浴びせる「差別的視線」、ルースの中のこうしたものが集中砲火で暴かれ、彼女は「研究所を率いる優れた医師」でいられなくなる。

 イギリスでは自分の全く意識していない奥深い所に――それは形容詞の使い方だったりする――差別は潜む。多くの差別には悪気がない。自分では気づかないからだ。「ルース」という一本のわらの上に、たくさんの差別が錯綜して載り、持ち上げることもできない位だ。多民族国家とは言えない日本での、自分の差別感に思いをいたし、がっかりし、反省する。駄目だねあたし。でも、日本にも、「え、知らなかったの?」というフレーズで始まる、いろいろな見えない差別があるよね。演劇ではなかなか見ないけど。

 俳優は隙なく演じ、2幕のテレビ討論会では楽しげですらあった。中では、サミ役の天野はながいい。身振り、仕草にスピード感があって、そこにある種の「重量」「きれ」を感じさせる。自由である。

 大竹しのぶは優秀で冷静な医師をミニマルに演じる。対チャーリー(床嶋佳子)、対サミ、対神父で違いがあったほうがいいと思う。

世田谷パブリックシアター 〈りゅーとぴあ×杉原邦生〉KUNIO 10『更地』

 ポストトーク出演の白井晃は、11月14日開幕のKAAT『アルトゥロ・ウイの興隆』を控えており、11月28日には、来年1月の『マーキュリー・ファー』のチケットが一般発売される。紹介せんと駄目やん、杉原邦生。

 劇場に入ると、奥に向かって高くなっている白い二重の上に、雪をのせた小さな家の模型が置かれ、家を挟んで両側に影が映り、「更」と「地」という字が読める。開演10分前、もう俳優が登場する。男(濱田龍臣)は下手奥、女(南沢奈央)は上手手前から二重に上がり、静かに、スローモーションで歩を進める。二人はこのシーンだけ、黒い服を着ている。南沢奈央の足裏が白い。その裸足の足がゆっくり上がり、踵をつけ、地を踏み、つま先に力が入り、膝に重心がのり、踵がまた上がる。(あのさ、南沢奈央、足のつき方が「かかと、まんなか、つまさき」の3か所になってるけど、この芝居は「分割」じゃなく「分解」について語っていると思うよ。もっと細かく丁寧に足の裏を感じなきゃだめさ。)5分たつ、女はゆっくりと頭を下げ地面に耳をつける。男はそれをみながら、あまり足を上げず、やっぱりゆっくり歩く。「歩く」が分解される。このプロローグに続き、「雪を燃やす家」の寓話が語られ、男と女はベージュの服(コートとパジャマに近いような簡単な普段着)になって、二重の周りを時計と反対、左に3周する。3周目で男がうっすら年を取ったことがわかる。それを不思議に思わない女も、きっと年を取ったのだ。円環。更地になった家の跡を見に来た男女(夫婦)という主題が変奏され、「人生」が分解される。男と女は最終景でやっと同じ方向を見るけれど、それまで視線はずっとばらばらだ。「食べる」が分解され、二人は「指」でスパゲティを食べる。蝉の声(セックス)をラップで分解する所は疑問だよ。ラップの腰が重いんだもん。濱田龍臣、ラップ頑張らなくちゃ、あか抜けない。若い二人は中年―老年―青年とくるくる人生を廻り続け、「テキスト」の「老い」「更地」「雪」は逆方向から照らされて「始まり」「希望」「火」を表わす。分解された物は土に還り、また生まれるってことじゃないかと思った。

Bunkamuraシアターコクーン 『パ・ラパパンパン』

 初めに断わっとくが、私は11月に、それも初旬に、クリスマスソングを流す店が嫌い。クリスマスソングかければ、客入りが上向いて、店が輝くのか。店のアンケートに「まだクリスマスじゃない」と書くよ。木枯らしも吹かずうららかな陽気の今日、『パ・ラパパンパン』は、「そんな店」であった。「クリスマスでもなんでもないぞ」という以外に、この芝居になにをいえばいい?

 「佳作賞」でデビューした作家来栖てまり(松たか子)は、飛躍を求めてミステリーを書こうとしている。編集者の浅見鏡太郎(神木隆之介)はてまりに厳しく突っ込みつつ、何とか小説を成立させようとする。しかしてまりは作品にも登場人物にも責任を持たない。いわゆる、「書き捨てる」。そのうち、てまりの作品、『クリスマスキャロル殺人事件』の登場人物たちが勝手に動き始める。

 てまりのミステリーが、恐るべき低レベル。浅見の上司の編集長裏木戸(オクイシュージ)が、「書かれない方がいい小説があるんだ!」と悪役っぽく叫ぶが、それが心から首肯される。オクイ、小松和重菅原永二、など手練れ(何とかしてくれる人)がキャスティングされていても、台本のキャラ付けが均一で、筋を運んでいるだけだ。また、最初に舞台上に登場人物がずらずら居並ぶと、とても平凡で、大東駿介の身体が「生きてない」のなんか一目でばれる(最初のシーンね)。早見あかりのその妻は、声がぴいひゃらして、笛のように裏返って聞きづらい。松の「Little Drummer Boy」は聴き応えあるけど、神木との二重唱は失敗だ。小日向スクルージと筒井イザベルのシーンも、哀しくない。貧しい才能でも、懸命に捧げものをするように創造する、それがすばらしい、そこは伝わった。テレビでは許されるねきっと、でもさ、10000円取る舞台だよね。クリスマス飾りの素敵なレストラン行ったらファーストフードだった、て感じ。

Bunkamuraル・シネマ 『ジャズ・ロフト』

 写真には音がない。あたりめーだと思うとこだけど、36歳で既に写真界(?)の大立者となっていたユージン・スミスにとって、そのことは痛切に意識されていた筈。大甘(おおあま)の写真だと、写真評論家が口元をへの字にする有名な『楽園への歩み』は、3,4歳の男の子と、2歳にならない位の女の子が、おぼつかない足取りで緑の庭の暗がりから明るみへ出てゆく後姿を撮ったものだ。確かに天国的、センチメンタルかもしれん。しかし、そこに速射される迫撃砲や、撃ち尽くされたあとの静寂があったら?話はまた別だよね。ユージン・スミスはものすっごい危険を冒して戦争に肉薄したのに、自分の写真に彼の感じた戦場の総ては、なかったのではないかな。

 「音を録ろう。」それは最初は、ユージン・スミスがジャズを愛しているから、そしてその愛ゆえに、ジャズミュージシャンに開放した電気すら違法なロフトに住みついたからだったろう。けど事態は段々に変わる。彼はロフトの天井、廊下にまでマイクを仕掛け、日常のやり取り、電話でのトラブルすら録音する。偏執的な作業に見えるけど、実はそのテープの一本一本が、すべて写真に音を仕込み、「音を撮る」もので、「音のついた写真」の一枚一枚を使って、写真家はトランプカードのお家のような「家」を建て、「音を撮ろう」「写真の中に棲もう」としていたのではないのか。郵便局員シュヴァールの理想宮のような、写真の宮殿、そこが家庭を捨てた彼の住むところであり、密閉された実験場だった。てな感じに思った私にとって、このドキュメンタリーはちょっとずれてる。セロニアス・モンクは素晴らしく、25歳で薬物のために南部へ帰ったドラマーは不憫だが、きっとそれもこれも、「録られた写真」の中の出来事だった。

 写真からはもちろん現実的に音はしない。けど、ジャズ・ロフト、写真の宮殿は、いつまでもモンクの不思議な和音を奏で続けるのだ。