Bunkamuraル・シネマ 『魂のまなざし』

 木桶の上で白い皿をこそぎ洗う音、大きなたらいの水を家の表に空ける音、モップで床を「磨る」音、敷物をうち振る音、髪をブラッシングする音、ベッドに入る衣擦れ、鉛筆を素早く動かす音、全てのものに音があって、それはこう囁いているみたいだ。(シャルフベック、シャルフベック、sch,sch,sch)それらの音とともに、勿論絵を描く音がある。思っているより激しい、絵肌をパレットナイフで削る音、ばれん様のもので、背景をこする音。これが、「カンバス上のリズムが、暴力的で発作的」と評される彼女自身の音で、リズムだ。彼女が愛するエイナル・ロイター(ヨハンネス・ホロパイネン)にもやっぱり音―リズムがあることが、早い段階で示される。絹のネクタイのノットを指ではじき、時計のねじを巻く。

 三歳で体を傷めたヘレン・シャルフベック(ラウラ・ビルン)は、絵の才能を認められフランスに留学したことがある。教職につくが体が耐えられず、母と二人ヘルシンキから離れた郊外の家で暮らしている。53歳。もうどこにも絵は発表していない。

 なんだろ、大体、この辺で誰の伝記のどんな話も駆け足になり、薄暗くなり、足取りが見えなくなる。けど、この映画が始まるのは、ここからなのだ。いいね!これ、非凡じゃない?絵を発表していようがいまいが、23だろうが53だろうが、ヘレン・シャルフベックは床を軋ませながら歩き、皿を洗い、絵を描いている。ところどころで挟まれる心象のような景色はとても繊細で美しく、友人を見送るヘレンの姿には胸が痛くなる。

 けどなー。他の娘と結婚したエイナルに1000通を超える手紙を書いたヘレンには、他の人には充たしてもらえないこころの飢えがあったはず。この映画のエイナルには「ヘレンの評伝を3回にわたって改訂した人」の影も形もない。「友人にならざるを得ない」得難さと、友人に変わる心の変化が、よくわからなかったよ。

下北沢駅前劇場 TRASHMASTERS vol.36『出鱈目』

 中津留章仁、劇作家、49歳。えええー?芝居は手練れらしく4層ほどの絵巻物、又は4層の立体紙芝居のように作られ、進めば進むほど葛藤が深まるように設計されてはいる。とある地方都市、x市の市長広末孝雄(カゴシマジロー)は、沈みゆく市を活性化するため、芸術祭を発案する。県や国から交付金を受け、自分の支持母体であるヨクサン重工、息子洋一郎(長谷川景)に任せている広末商事などから協賛金を出して貰う。しかし、彼が捕まえたと思った「芸術」は、リボンを巻いた子猫などではなく、引き綱を千切って暴れる龍だった。軍需産業のヨクサンを批判する画の1位受賞を、撤回するべきかどうか、表現の自由、思想を巡り、市長の苦衷は続く。平和を希求する、戦争をなくすという思想が退潮しつつある苦悩も見て取れる。っていう話なんだけど、画家滝内龍太郎(倉貫匡弘)と同じく、中津留は、「稚拙」とかを、衝迫力の前では問題にしないのです。一層目の、全体の背景(カキワリ)になる冒頭部分が、めっちゃまずい。市長さんの「つまらん思い付きです」って見せたいのか。度が過ぎる。市長の妻すみれ(藤堂海)にリアリティない。息子が「とうさん」っていったとき、吃驚した。息子に見えないもん。出捌けも乱暴、繊細さがない。お友達以外の人にたくさん芝居観てほしかったら、この一層目のリアリティ(設定と人物)をデリケートにやってほしい。小役人の梢(石井麗子、芝居中、失敗しても反省しないで)が意見を述べだす2層目、芸術家が本性を表わす3層目、いろいろな思惑と混乱の中で自分を広末が見つめ直す4層目と、芝居はこちらを巻き込む力を持っているのに。あと、女の人の扱いが粗い、どうして木嶋(安藤瞳)は市長に惚れないの。政治家が活躍しろっていったからって、女の人はだあれも納得してないよ。

新国立劇場オペラハウス 2021/2022シーズンオペラ クロード・アシル・ドビュッシー 『ペレアスとメリザンド』

 このオペラを観る前に、予習としてペーター・シュタイン版(1992)を観た。あそこでは勝手に結婚したゴローに対し、アルケル王が、(我々は)運命の片側しか見えぬといっていて、それが芝居全体を通して一部分が常に覆われているという演出に適っていた。こちらケイティ・ミッチェル版では確か、人は運命の裏側しか見えぬとなっていたみたい。裏側なの?ペーター・シュタイン版も、ケイティ・ミッチェル版も、いつも舞台の一部が隠されていたけど、前者では「見る(見える場所を)」、後者では「見えない(視界の中に消失した場所がある)」ことがクローズアップされている。「見えない」ものを「見る」。メリザンド(カレン・ヴルシュ)は夢を見、現実ではない世界をさまよう。メリザンドの夢はドールハウスに似ている。横たわったメリザンドは真っ赤なワンピースを着せられ、靴底の白い真っ赤な靴を履かされる。ベッドに眠るゴロー(ロラン・ナウリ)もまた、人形のようだ。家族の中に行きかう一瞬の電気のような性的な視線が、巧妙にとらえられ劇化されている。オペラの「歌」とオーケストラを裏切って、「見えない」ペレアス(ベルナール・リヒター)とメリザンドは髪の毛の場(?)で早々と関係を持ち、きよらかな鳩がメリザンドのもとから飛び去る。「テキストを裏切る」。感心した。しかし、実は、音楽はそれを予期していたかもだね。夢でしたね、というオチになるけど、ドールハウスの方はどうなった、とか思っちゃう。しかしきっと、あれは「わたし」のドールハウスで、茶色のカバンに詰めて、私がぐったりと持ち帰ってきたのでは。もっとはっきり出してもいいんじゃないの。アルケル王(妻屋秀和)の歌が前半よく響かず、よく見ると顔が少し舞台奥向いていたみたい、メリザンド髪の毛のとこちょっと失敗してたけどよかった。

新国立劇場 小劇場 『M.バタフライ』

 愛って幻影かもだなー。と思って劇場を後にする。芝居だって幻影だ。二人の人間をすれ違わせたまま置き去りにする。陽炎のように幻影がいくつもいくつも立ちあがり、『M.バタフライ』を形作ってゆく。1983年にフランスで発覚したスパイ事件に想を得て、「征服する西洋=男」と「征服される東洋=女」という、ピンカートンと蝶々さんの図式が、力業で逆転する。

 中国駐在のフランス人外交官ルネ・ガリマール(内野聖陽)は、京劇の俳優ソン(岡本圭人)に強く魅かれ、北京郊外に囲い、「バタフライ」と呼んで愛しむ。だがソンは中国のスパイであった。「バタフライ、」最後にその言葉は呟かれるが、バタフライはどこにもいない。バタフライとは、ルネの中に棲む女の幻影なのだから。幻燈がふっと消えるように、全てが闇に消えてゆく。

 今まで見た内野聖陽の芝居の中で一番おもしろい。映画の『M.バタフライ(1993)』で、J・アイアンズが化粧するのを(んー。…)と思ったけど、舞台ではすんなり受け取れる。では問題はどこか。まずね、芝居が古いので女の人のステレオタイプをやめようとしているよね。チン同志の占部房子は可愛く、顔に似合わずひどい。この人は、江青女史のようなステレオタイプであるべきだ。魅力を諦めている哀しさが出るなら、それが最も今日的。内野聖陽はかならず役を作ろうとする。役を作りすぎ、おじいさんぽくし過ぎ、自分から逃れすぎだ。役を作ってよかったのは坂本龍馬くらいじゃないかなあ。「自分」で役を受け止めてほしい。岡本圭人、外形的には完璧だと思ってるよね。京劇の剣舞の「空虚さ」、女の「中身のなさ」が怖いくらいだ。外側の受け答えは間合いや表情がよくできているけど、中身はからっぽだった。もっとお腹の底から芝居しないとだめだよ。腑に落ちてない。

本多劇場 オフィス三〇〇 『私の恋人beyond』

 えー、脳?渡辺えりとのんのアフタートークを聞いて、吃驚するのであった。そういえば、そういうちいさい塊が、下手(しもて)の方で見えた気がするなー。「わかってほしい」というよりも、「わかられたくない」と自己を韜晦する、アングラの魔術のような手法だねー。うーん。渡辺えりは、簡単ではない作家で、舞台でドタバタや遠浅のやり取りが続いていても、観ているこっちは、いつのまにか(あっ)と転んで心の膝小僧を手ひどくすりむき、傷は深手で血がたらたらどころか透明の漿液がにじんでいる、って感じなのである。またこの傷が、各人の心ばえによって「ふかさがちがう」。問われちゃうよ。渡辺の考えは深く、風呂敷は大きい。今回の作品で言えば、マグリットの乗馬の絵みたく、見方によって違うように見える。

 断絶した人種や消された記憶の中に、恋人を探す井上(のん)、10万年前から生きかわり死にかわり、ただ一人の恋人を求める旅は続く。渡辺、小日向文世、のんが3人で30役以上を演じてゆく。これ、脳内から宇宙へ広がる壮大な話なのだ。人類の負の歴史を舌で舐めとるように、慄える細かい神経で作劇されている。

 けど――いつも思うことだが――盛りだくさん過ぎて追いつけない。減らしてー。そして、「今現在舞台上で起きていること」を「おもしろく」(意味深いことを軽く)いう言い方がバランス悪い。興趣が湧かないよ。

 あと三人とも芝居がバシッとキマってない。これは開幕してから日が浅いせいだろうか。のん、ずいぶんよくなったけど、まだ声が震えそう。「ああ」っていう嘆きの声がちょっと古臭かった。中から生まれるひとはもっとしっとりやったらどうでしょうか。エレキを持っているとこが、一番かっこいい。終幕、暗幕の様相が変わり、空に浮かんだシュールな膝小僧のことを考えた。

歌舞伎座 六月大歌舞伎 第三部 『ふるあめりかに袖はぬらさじ』

 こころざし。志は船の汽笛となって、男を女から遠ざけ、女の思うのと違う方角へ男を連れ去る。芝居の中で、汽笛は長く短く、高く低く鳴り、男を引き剥がしてゆく。

 横浜岩亀楼の花魁亀遊(河合雪之丞)は病みついて行燈部屋に寝かされている。見舞うのは廓芸者のお園(坂東玉三郎)と、互いに憎からず思っている通辞の藤吉(中村福之助)だけだ。亀遊は異人のイルウス(桂佑輔)に気に入られるが、病や借金、別れの苦しみが重なって、剃刀で喉を切って死ぬ。しかし、死後実は異人に身を任せず自害した攘夷女郎だという噂が立ち、大評判となる。いつの間にか、お園はその噂をまことしやかに語り始めるのだった。

 朝方のぼんやりした明るみが、戸の大きさに切り取られ、ひとが開けたてしながら出入りしたかと思うと、次に控えめにその戸が開いて、そこに亀遊に声をかけるお園のシルエットが立つ。すてきー。出色ー。あのー、思うんだけど、亀遊が死んでお園が藤吉に詰め寄るシーンは、もうお園は亀遊の憑代になってなければいけないのでは。口寄せっていうか。そのあと出てくるお園の見てきたような亀遊話、あれは死んだ人の無念を晴らす、カタルシスとしての芸能の始まり、みたいなもんを感じるよ。あと藤吉の責められっぷりが今一つ。深いとこ、お腹の底で受け取ってほしい。「身体の中で」聴いてないよ。大橋先生門下の岡田(喜多村緑郎、ひさしぶりー)が、ちょっと荘重な言い回しだったね、ここでこの思誠塾の人たちは、「志」の世界を表わしているの?演出のスタンスがわからん。私には「芸能」「無念」を圧殺する「悪者」に見えるけど。もっと怖い感じでもいいんじゃないの。盃洗あけて、お銚子二本ぶんのお酒を飲んだりしても腰が立たなくてわなわなしてるのにさー。玉三郎、声とか、ほんと、「三味線」みたいな女だったねー。

世田谷パブリックシアター 『室温~夜の音楽~』

 観に行くと大抵が上下二層に割られている河原雅彦演出の舞台の中で、今回のセットが一番緊(しま)っていていいよ。内、外、二重に混ざって見えるよう、ぴしっとまとまっている。或る家の洋間の壁の続きに崖の擁壁のコンクリートパネルが素知らぬ顔でつながり、上手から、細く広告をのせた電柱、赤いポスト、笠のあるスタンド、西洋甲冑と続く。下手には高い照明が星明りの様に階段を照らす。階段は(外)と(内)にさりげなく分断されている。バンド在日ファンクのホーンセクションがいきなり重い。なんかこう、内外を行き来するものの「壁抜け」的重さ。浜野謙太の歌う「夜の音楽~」の「く~」の外れた感じが的確にこの芝居を射程に捉える。正邪、善悪、内外、生死、愛憎、皆揺れて定まらない。激しく揺れる船の甲板から、その成り行きを見定めようと目を凝らすが、気分は結構悪いよ。虐待、拷問死を迎えた少女サオリの事件から十年後、その加害者間宮(古川雄輝)が彼女の家を訪れ線香をあげようとする。うーん。定規で測れない愛憎が、加害者と被害者にあるはずなのに、さらっと混ざって気分わるーいまま終幕を迎える。「笑えない笑い」かぁ。それはこの芝居の発表当時、エッジィだったんだよね、きっと。現在この芝居を観ると、いまではもういろいろな要素が、整理説明されつくしているんだなと思う。上から下へ、にじんで滴っていく水彩絵の具のように、よく出来た芝居だが、「混沌」を感じるのが難しいのです。警官下平(坪倉由幸)と運転手木村(浜野謙太)が芝居の両輪で、坪倉はジープのタイヤみたい、浜野は流行の自転車のファットタイヤみたいだ。大小のタイヤは一か所をくるくる円を描いて回り、芝居を混ぜる。長井短古川雄輝、どちらも声が繊(ほそ)く、掠れ、軽い。嫌な感じよりも、悪の軽さの方が胸に来る。「有り」だけど、やっぱしっかり声出してほしい。