浅草公会堂 『新春浅草歌舞伎 2024』

 今日の芝居は、大恩ある人のために、わが子を身代わりに差し出して死なせ、そこから決して回復できない男の話『熊谷陣屋』と、くるくると男、女、幼児、老婆に入れ替わって踊る『流星』、妹を殺された男が深く酔って、妹の奉公に上がっていたお屋敷に暴れこむ『魚屋宗五郎』だった。合計40分の休憩を入れて四時間ちょっと。さすが体力ある世代。少し長いよ。

 最初に「お年玉」として、今日は中村隼人の「ごあいさつ」がある。華麗な歌舞伎調とフラットな令和が入り混じり、不思議な感じ。ここから不思議の国が始まりますっていう、ほんとにプロローグだった。もうちょっと口調に落差つけてもよかったかな。

 

 「台詞を台詞としてしゃべってるうちは、お客さまには意味が聞きとれないんですよね。」(『坂東三津五郎 歌舞伎の愉しみ』岩波現代文庫 108頁)

 ほらぁー。ねー?中村歌昇、「きみはまだ台詞でしゃべっているよ。」(同上)中村歌昇はまるでカプセルに入っているみたい。上半分が透明で、下半分が芝居への熱意で赤い。でかいカプセルの中から、歌昇は必死で台詞を言う。届かん。わからん。熊谷陣屋の熊谷直実は、きっと大変大きな役だろう。藤の方(中村莟玉)の息子平敦盛の代わりに、自分の息子を切り、首を義経坂東巳之助)に見せる。深い考え、複雑な表現を要求される。肚っていうの?いろんなプレッシャーあると思うけど、「台詞の意味を考えて」言わないと。あとさ、「片時(へんし)も早う」とか、時代物の言葉、ちょっとだけ日常で使ったら?「時代物」と「歌昇の毎日」が、乖離しすぎてるんだと思う。時代物の言葉をくぐって、自分の中の実感にたどり着くまで、道は遠い。終幕の涙は、模造紙を水色に塗った水滴のように見えた。おしばいだ。ただし、笠を押さえて走る時ににじみ出る苦悩は本物だ。リアル。あ、『魚屋宗五郎』のじっくりした善人の家老浦戸十左衛門は視線が決まらず、悪い人に見えたよ。(ついでに、坂東巳之助の岩上典蔵が、すっごく陽気な悪い人に見えちゃって、どうなのかなー。なんていうか、とても陽性でかわいくて、もう一本スピンオフで芝居が作れそうな感じ。一寸見たいかもね。)中村歌六の弥陀六が、一人素肌で舞台に立っているようで目立ち、風が起こればその風が、歌六の顔の薄い皮膚にふわっと当たり、髷のほつれをそよがせるようだった。浅草歌舞伎の人、みんなこうなるといいね。まだまだだから、歌六が異質に見えてしまう。

 『流星』、種之助はクレバーにササっと入れ替わって踊り、きれいな五色の雲が描かれた舞台に差し出されるその腕が、男の太い腕のようにも、女の柔らかい脂肪の乗った腕のようにも、ばあさんの腕、こどものしろいかよわい腕のようにも見えた。最初お面落っことしちゃったけど、踊り的には問題なの?ちっともいやじゃなかったよ。清元やっぱり聴き取れない。もっとたくさん聴いてみるけども。

 『魚屋宗五郎』の話の一番大事なとこは、「抑えた悲しみ→爆発」ってとこだと思う。松也!酔っ払いのスケッチができてない。湯飲みの酒の量よりそこから飲み干す酒のほうが多い。へん。なんか、スケッチしないで「なぞってる」。声が時々裏返るけど、それは自分の曲ではない歌を歌ってるからじゃないかなあ。オソーシキって結構いそがしくて、ずーっと柔らかく顔動かしてたら、もたないよ。もっと体験—リアルを生かしたほうがいい。宗五郎がキマらないと、女房おはま(坂東新悟)も奉公人の三吉(中村種之助)もキマらない。酒を注がないで表情を消した横顔を見せてるおはまがすごく可笑しくて、喜怒哀楽がつまった芝居だなと思った。

IMM THEATER こけら落とし公演『斑鳩の王子—戯史 聖徳太子伝—』

「戦がない世の中」について、本気で考えた男、聖徳太子明石家さんま)。先の世が見通せる千里眼をもちながら、彼は滅亡する息子山背大兄王中尾明慶)に何も言わない。戦の火種が小さく熾り、徐々に育ち、ついに秩序を暴力でひっくり返すまでの過程に、自分―息子—子孫への執着が深く根を張っていることがわかっているのだ。だから息子の死を知って、聖徳太子は大泣きに泣く。ここが大事なシーンだけどそうとはなかなか気取られないよね。それと、なんか、男と女はもともと種(しゅ)が違うねんといわんばかりの、美しい馬(音月桂)と聖徳太子との交情が語られ、ここ、こっそり笑った。すごく大きく、おおらかなかんじでいい。

 この真面目ストーリー部分を、コンパクトに圧縮してわかりやすく伝えるべきだった。煩雑で、兼ねる役が多すぎ、枝葉が茂りすぎ、場面転換の間も長すぎる。

 さんまがやりたかったのは、ギャグのコメディ部分、温水洋一と一色洋平がからむとこ、虫たちの大喜利(?)、偽聖徳太子のシーンだと劇中で本人が言っていたが、わたしはさんまに背を向けしんみりと語りだす中尾(芝居のテクニック)をわらいとばすところがいちばんの出来だと思う。一色洋平は場の空気が躰に通ってなくて、せっかく声を「嗄らす」と宣言しているのにそれも不発やん。鼻のさきで舞台の空気を感じるのだ。そこが大切。温水洋一は身体を伸ばして棒立ちになるスケッチが効いてない。腰痛のせいか体にキレもないねー。中尾明慶が、声も出て、さんまに屈さない強さもあり、とても有望。でもこの人、コメディアンじゃないよね。さんま、なにがしたかった?偽聖徳太子とのシーン面白いけど、練れてない。何より、さんまの声が嗄れ気味であることが一番問題。芸人や俳優は、出たいとか出たくないとかじゃない、声が出なくなったらそこでキャリアは終わりだ。あとさ、四年に一回芝居するとか、オリンピックじゃないんだからさ、演劇なめちゃいかん。吉本の芸人も、必ず舞台にはコンスタントに出るんじゃないの?

明治座  日本テレビ開局七十年記念舞台 『西遊記』

鉄扇公主中山美穂)が大きな芭蕉扇を必死で振り、孫悟空片岡愛之助)はさらりと宙を飛び、気合一閃トンボを切る。藤原紀香はすっごくお釈迦様っぽく、金角銀角(藤本隆宏山口馬木也)はまじめな体をコミカルに動かし、若い俳優たちは異様に身体能力高い。牛魔王松平健)にはビー玉が転がっていく勾配の下みたいに自然と視線が行く。これさ、1978年版のテレビより、ゴージャスじゃないかと思ってもみる。(1978年、中国ロケに仰天してたよねー。)でもあの画期的だった1978年版はさ、しょぼい部分もあったけど、「おもしろかった」。こーれーさー、面白い?どうなの?かっちり糊付けされたように社会が安定していた45年前、プロットは立てやすかったであろう。マキノノゾミは動揺する現代を映す筋立てに、戦のない国を作ろうとする牛魔王を「迷妄」と切り捨てる。あら?そうなのかい?わたしつねづね思ってるんだけど、会社とかってさ、設立のゆくたてとかその時の理念とかすごく大事でしょ。会社のその時々の決断て、理念にとても影響されるやん。戦のない国、どこがわるい。マキノノゾミは、こうした理念の最前線で矢面に立って「消費されていく」「学校の先生」にはなりたくなかったのかもしれん。とすると牛魔王に「妄念」を吹き込む鉄扇公主とはだれか、マキノノゾミ、結構な悪意を底に秘めているのか。

 片岡愛之助は口跡がはっきりと聞き取りやすく、良い。しかし、ビー玉の勾配を引き寄せるには、もっとテンション高く、軽く演じることが必要。金角銀角が悟空を瓢に引き込むとき、「悟空孫」「おう」、「空悟孫」「おう」っていうやりとりないんだね、三度もあるからめんどくさい?虎力大仙(小宮璃央)鹿力大仙(押田岳)羊力大仙(桜庭大翔)、滑舌悪いよ、前半ね。玉帝(曽田陵介)、ヤンキーみたいだけどいいの?姿勢も悪いけどなー。

日テレ70周年なんだし、ちゃんと神田伯山実物呼んできなよ。ナレーションだけじゃ、迫力ない。

スパイラルホール 生誕60周年記念art show 個展 『松尾スズキの芸術ぽぽぽい』

北九州ってね、土から工場が生えてるような街でね、なんか、植物(PLANT)と設備(PLANT)が分かちがたく一つになってて、人体は硬く・柔らかく、すべてが生き物で、また、すべてが死んでるような気もし、かしわめしが有名で、栄えてさびれてる、そんなとこ。だからヒョットコの絵を見た途端、「あ、折尾やなあ」と思ったのです。ひょっとこの頭は工業製品的に冷たく硬いけど(それは理性かもしれず)、丸見えの下半身は生暖かく恥ずかしい。松尾スズキの絵は、有機物と無機物がくっついて、それぞれが、生きてるなりに、死んでるなりに、うおーんと何か言っている。その臨界のとこに、どきどき脈打つ松尾のシンゾーがあるのかもしれない。

 松尾スズキは、私が思ってたよりずーっと絵が巧い。卒業制作が「架空の教団の架空の教典」だとしってたから、独創が主で絵が従なのかと思っとった。でもQ産大のデザイン学科って言ったら花形だし。や、そんなことはいい。トゲくちびるウーマンて、薔薇やろ。裏返した薔薇。花束で殴る男と、それと互角に戦う女は面白かったし、「プルプルルーシー」は見ているうちに左目の下が動いたような気がした。

 作品中、エッチングが一番良い。作為がない。照れも入り込めない。逆に言うと、松尾はいつも、絵に対して身を「やつしている」。ここだ。劇作家として大成し、画家として成功しなかったわけがここにあるな。「やつす」からこそ松尾は演劇に行った。  

髑髏とネコの板絵が、何か一番、ニンゲンの深層に迫っている。すごく不穏で、微妙だ。正対してこの猫と髑髏が描けたら、明治の初めのトーフや鮭みたいになりますやん。それか、モデルの花魁が「ひどい」と泣いた「花魁図」みたいに歴史に残る。ヘソを絵に向けろと言いたいね。こぉんなに上手なのに、繊細過ぎてダイナミックになれないのさ。もったいない。でも演劇ちゃんとやってほしいし、絵に専念しろともいえません。いや、絵がよくなったら、演劇も視界がひらけるのでは?詞書なしの、掛け値なしの猫と髑髏の絵(『猫と骸骨』)を所望いたします。

吉祥寺シアター 『ハイ・ライフ』

撚れてかすれる自分の声を逆手にとって、東出昌大は「そんな声をしてるやつ」を舞台上に作り出そうとする。いいね、いいと思う、そろそろそんなことに挑戦してもいい頃さー。ディック(東出昌大)は銀行強盗を計画して、凶暴なバグ(阿部亮平)と、クレジットカードの少額詐取をちびちびやっているドニー(尾上寛之)、モルヒネ中毒なのにぱりっとして爽やかなビリー(小日向星一)を仲間に引き入れる。皆ジャンキーで、常に薬をうってハイな暮らしであり、そしていつか、一生金に困らないよい生活—ハイ・ライフを送れるようにと灼けつくように願っていた。

これ、『レザボア・ドッグス』が二年前、『パルプ・フィクション』と同じ年に書かれているんだね。なら、車のなかの切羽詰まった状況での可笑しみっていうのは大変大事な要素のはず。ここの交通整理がも一つ。これはね、東出の全体の声量が足りず、場を統括できてないからだね。学級崩壊した小学一年生のクラスをなんとかまとめる先生のようでないと、面白くない。10分辛抱してくれと頼む必死な心、バグを止められないとわかったときのあきらめたような気持ち、「全部一本の線路に乗せて」、撚れていようがかすれ声だろうがばーんとでかくやらなきゃ笑えない。声量をあげることが喫緊の課題ですね。

 バグは登場してからしばらくの、世間話の腰が据わらないよ、凶暴ゆえに一目置かれている男なんだから、いつも人に話を聞いてもらえてるはずだ。ドニーは好演しているが、ビリーについて感想を述べるところが弱い。ここの台詞たいせつ。ここが浅いと、戯曲全部が「ああ、タランティーノの真似だねー」で終わってしまう。みんなでラリッて昏倒する前半も、「ラリッてみせる」のじゃダメ、自分に没入していかないとさー。怖いシーンがないと、車の中のシーンが引き立たない。

 小日向星一、勇気ある。客と絡むのは怖いものだ。健闘してるけど、あとから見れば、「ああ、あれが、」絶望だったんだねってとこがあればいいね。今日東出台詞忘れた、だから芝居の芯がちょっとぐだぐだ、あと見に来る関係者、15分も遅刻しちゃダメ。

東京芸術劇場シアターイースト 『Dojo WIP 東京演劇道場ワーク・イン・プログレス』

 プロセスが大事、プロセスが大事っていうけれど、ま、本当にプロセスが大事だな、と、急速に悟った本日です。

 今日のワーク・イン・プログレスの中で一番見やすかったのは『淋しいおさかな』(演出・藤井千帆、演出補・鈴木麻美)だった。完成度が高く、表現に手あかがついてない。ああもしてやろう、こうもしてやろうというたくらみがない。これ、ものすごくいい話で、おさかなを尋ねる(淋しさを尋ねる)女の子が淋しくなるところでもちろん読者も観客も淋しくなるんだけど、Dojo版を見てると、「そこじゃなかった」。風(大重わたる、長南洸生、西原やすあき)、みすぼらしい犬(緒方敦)、月(西原やすあき)の表現がいい。淋しい。純粋で、足したり引いたりしない、ありのままの存在だ。月とか台詞の前に間なんか取っちゃいそうだけど、そんなことしない。シンプルだ。(これさ、ほめてもいるけどけなしてもいる。)淋しさに至るプロセスがよかったです。これって小中学生にも胸を張って見せられる。別役さんのたたずまいがあったね。最初の、大きな本の出し方がいまいち。

 ワーク・イン・プログレスだからか、どの話も前段がさっぱりわからん。『忘郷少女』(高畑裕太作・演出)もそう。私は松永治樹の身体性と、多分ダンサーであろう大野明香音の柔軟性に、「ゆ、夢の遊民社だああ‼!」となり、筋までわからんようになりました。ただ、長崎の石炭掘っていた人たちの話が全然絡んでないし労働者(高畑裕太)の腰が高すぎる。疲れてない。ここでよくわからなくなるのだ。作者たちにはあんまり戦争関係ないんじゃないかなあと思った次第。大野、インバル・ピントでみた少女(モラン・ミュラー)に動き似てる。似てるんだったら負けない。松永、眼鏡かけたら年を取れ。気持ちでいいから。そして「note」の更新しなよ。

 『御社のチャラ男』(上演台本、演出・上村聡)、これも前段がわからないため混乱した。チャラ男の概念が全く把握できず。たいへん詳しい相関図がついてて、話が面白そうなのに、「共有できなかった感」がすごいよ。入れませんでした。独立で上演したら?

 でたらめ言葉の『恋人たち』(演出・扇田拓也)(シェイクスピアの『夏の夜の夢』の、パックが恋人たちの瞼に惚れ薬を塗るところ)、最初の、「海外から来日した大物女優(田尻祥子)」と通訳(茂手木桜子)、そしてオーベロン(扇田拓也!)の仮面が、とてもそれっぽく、笑った。でたらめの外国語で演じるのに、なぜか滑舌が気になる。確信ありげにでたらめ言葉しゃべらなくちゃだめさー。特にライサンダー(小日向春平)。扇田拓也、このごろどうしてる?もっと仕事しろー。

 『    』(石村みか、小幡貴史企画)、サヘル・ローズが老婆のように年老いた眼で演じる。上出来。とか言っていいのかなとちょっと考えた。透明の部屋にも外にも紙ヒコーキが飛び、意味合いは花火と空襲のように異なる。私が子供のころ、花火大会はめったになかった。トラウマの人が多かったからではないかなあ。

 『石の夢-Reves d’objets-』 ダンサー(黒瀧保志)が舞台を一周する。モノハラ(物原)のような、骨の上のような、石の上のような乾いた足音。黒い服で手だけが目立つように仕組まれている。閉塞感を踊る。曲はバーバーのアダージオ。これさ、「手」が主題の踊りでしょ、有名なバーバーだと、ふと戦後すぐの時代の「モダンダンス」を連想してしまう。最後の、手が「何かを放る」とこまでがいかにも長い。右手が「何かを受け取った」か受け取らないかわからない、ってとこも明確でない。サスペンスフルでない。それを皆がかしこまってみているのが、すごく昔っぽいのかもだねー。

 面白くって退屈な、飲み会の狂乱が3度繰り返される『再生』(原案・多田淳之介、演出・李そじん、藤井颯太郎)。なんかさー、もう、今の若い人、「ばかおどり」ってできないのな。「ぶざま」ってとこからとても遠い。しかし私には、この状況が、「ぶざま」を求めてリフレインしているように思えた。からだにすっかりビートが侵入している人々は、どうしてもかっこよく踊ってしまい、なかなかなりふり構わない姿が体現できない。ベージュのスカート(透ける)の女が、一番趣旨がわかってる。ワインカラーのレギンスの女が二回目に踊るとこでもう、なんかわたし涙がわいてたけども、出てた人、「あわれ」「かっこわるい」「ぎりぎり」についてもっとよく考えたほうがいいよ。そして演出は、この人たちのため「だけ」に、考える必要がある。2006年、古いよ。

そうだ、開幕と同時に始まった、「女子高生」の身体とイメージをなぞるダンス(演出・振付・手代木花野)、非常によく稽古されている。男のようにも女のようにも見える青年が踊るのは、「ぶれ」と「ずれ」を生んでいいが、今これ、おもしろいのかな?意味ある?女子高生を通り過ぎて長い女たちも加わっているようだったが、釈然としなかったです。

東京芸術劇場シアターウェスト 劇壇ガルバ 第5回公演 『砂の国の遠い声』

んー。どうしたかったこれ?装置(美術:松岡泉)はきちんと仕事をして、秘密を解き明かしているのに(上へあがってゆく階段と、それと対称な「下」へとさかさまになっている階段)、肝心の芝居は?今まで何も起こらず、今も変わりなく、これからも何も起きないであろう砂漠を、監視する任務についている男たち。男たちは淡々と会話しながら、淡々と日々を過ごす。そして、幾人かは行方不明になり、帰ってこない。

 細かい角度のずれが数限りなくついている会話の、その鈍角を精密に感知すること抜きに、いきなり紙風船みたいにぜーんぶまとめてじょうずに「球」にするの無理だよ。ゆるい。一考を要す。こうもり傘が柄を上にしておかれるのは、世界がずれの果てにさかさまになることをあらわしているんじゃないの?台詞のやりとりの詰めが甘い。やりとりが、「ずれてる」「可笑しい」「不条理」と、観客にわかってもらえないまま芝居はとんとん進む。すべてを精査せずに、全部の芝居をそろえて、段差をなくす。するとどういうことが起きるか。演出の笠木泉が尊敬しているであろう才人宮沢章夫の戯曲が、別役実の――不条理劇の――やすい「転用」に見えてくる。それは本意じゃなかろうがー。

 94年、いつまでも続くと思われた、永い、だるい日々、それを2023年に、しかも宮沢の死後再演するなら、企みと精密さがもっと必要だ。

 クイズ好きの男7(ノムラと呼ばれている男=大石継太)が頬を引きつらせているところが非常に可笑しく面白く、こういうシーンがもっとあったらいいのになー。タンクに肩まで浸かられたことがわかったときとか、もっと複雑な反応が欲しいけど、芝居は「ローラースケートを履いたグレイハウンド犬のように」(ⓒロディ・ドイル)さーっと通り過ぎてしまう。怖そう。怖がらない。

 コバヤシと呼ばれている男(男5=矢野昌幸)が、両性具有的で大変いい。幕切れ、こないだ観た、別役実の『消えなさいローラ』を思い出したよ。