よみうり大手町ホール 『ぼくの名前はズッキーニ』

 芝居の!ノリが!わかりにくい!

 踏み出した右足に力が入らず、すぐに左足に踏みかえるみたいな、えーと、オフビートの微妙なノリなのに、それが観客に伝わるまでの時間が長すぎる。「じわじわ」すぎる。

 ズッキーニ(辰巳雄大)は6才、事故に遭ったお母さんはビールばかり飲むようになり、ある日もっと不幸な出来事で死んでしまう。一人ぼっちのズッキーニは、「みんなのいえ」に連れて行かれ、いろんなことを体験する。

 辰巳雄大は後ろ姿で登場し、ゆっくり下手の方へ視線を移すのだが、その背中が、大人じゃない。少なくとも小3、9才にみえる。まだ骨がほそくやわらかい、戸惑いがちのこどもの背中、無心の、または何か思ってる背中。6才は無理だったなあと思いながら眺めるが、芝居の途中でぼくたちこどもは大人に頼らなければ生きていけないというズッキーニの鋭い台詞を聴き、終盤のカミーユ川島海荷)の述懐を聴き、観客の目の前のズッキーニは体の中に過去と未来、6才と大人を同居させているのだなと考え直す。辰巳雄大、超むずかしい役じゃん。ママ!と叫びながら走り回るときがまずい。(戸惑い)(疑問)(恐怖)のような感じで、一つ一つの「ママ」に意味を持たせないとうるさいだけだよ。丁寧に。シモン(稲葉友)がズッキーニの頬を拭くときちゃんと涙が見える。「愛されない貰われない」絶望は心の蓋をもっと開けてやってほしい。川島海荷台詞とちらないように。ベアトリス(三村朱里)全力疾走で。伊勢佳世のロージー先生と宍戸美和公パピノー園長が物語のやさしくあたたかな(しかも陳腐でない)背骨となっている。二人で互いを置き去りにしないチームプレーができてるよね。三方「黒板」で出来たセットがとてもよかった。