日本橋TOHO 『アメリカン・ユートピア』

 ディヴィッド・バーンが、机を前にして椅子に座る。カメラはその映像を真上から撮る。ディヴィッド・バーンは両手をきちんと机の上に出している。手の間に脳の模型がある。カメラが切り替わり、彼は模型を左手に取る。

 ディヴィッド・バーンが「脳を見せてくれる」。説明をする。吊りさがった細かく長い金属のチェーンで、頭蓋のように仕切られた舞台に、「右脳くん」「左脳くん」とでも呼びたいような二人組のダンサー(クリス・ギアーモ、テンデイ・クーンバ)が飛び込んでくる。男のように見えるほうは濃くメイクをして、女のように見えるほうは耳の上の髪をそり上げ、トップに長い髪を盛り上げてヴォリュームを持たせている。二人ともバーンと同じグレーのスーツを着ている。着こなしも同じだ。この二人はバーンなのだ。そしてその踊りは――切れ味のいい厳しく揃ったダンスだが――ディヴィッド・バーンの身体の癖、普段の所作から来ていて、ディヴィッドがじぶんらしくちょっと膝を遠ざけた形が、ダンサーによってコピーされ、この場所、この光る雨のようなチェーンの内側で踊りとなって生まれてくる。ディヴィッドの身体の可動域がダンスを統率する。だってこの場はディヴィッドの場所なのだから。MCでディヴィッド・バーンは赤ちゃんの脳の中の繋がりは大人より多い、残った繋がりがどんな人間になるか決める、と話す。「ぼくの心配をしないで/ぼくも心配しないから」と歌いながら舞台上に明かりで出来た市松模様を、やっぱり同じスーツのキーボードとタンバリンが一緒に移動してゆく。曲が進むにつれバンドの人々(=ディヴィッド・バーン)は増え、音楽はかっこよく、踊りは激しくなる。途中にダダイストの曲を挟みつつ、ここは何でもありの自由な脳内で、同時に一人の頭脳という限定された孤独な場所であることがわかる。ディヴィッド・バーンは繋がりを求める。選挙に行くこと、他人に呼びかけること、理不尽に無慈悲に殺された若い黒人の人々に連帯を示すこと。牢のチェーンは最後に取り払われ、ディヴィッド・バーン(たち)は会場を一周する。一人が一歩踏み出すこと、そこにしかユートピアの可能性はない。

 ノンポリ人生をディヴィッド・バーンを聴きながら送ってきたので、尖鋭的すぎるように感じてしまう。この舞台の演出は誰なのか?あと、ディヴィッド・バーンのような自転車が欲しいな。