東京芸術劇場プレイハウス NODA・MAP第26回公演 『兎、波を走る』

雲散霧消。人物の一人一人、出来事の一つ一つが、VRを覗くのをやめた人みたいに(のぞいたことはないのだった…)全部消えてしまう。

 すべてはヴァーチャルだ。ということは、実は、すべてが現実なのかもしれない。1960年代、盛り上がった「つよがり、思い上がり、ひとりよがり」の越境者たちのせいで、だれかひとり、たったひとりの上で爆発する爆弾。このつながりが思いのほかの強さで、ダイアグラムの線を引くように描かれる。野田が描いてきた歴史は、怒りがいつも外へ向かっていたのに、この作品の責めは、野田の世代、野田自身をまず直撃してから外へ向かう。いま生きるささやかな自分だって、歴史を構成する一要素だということだね。

 これまで観てきた野田MAPの歴史ものは、皆、どれをとっても遜色ない出来である。暗い深さ、奇妙な展開、心を揺り動かされる感動、意外で、意外でない重い結末。どれも底の知れない竪穴のようになっている。そこがなー。あのさ、遜色ないっていうのは、似たり寄ったりの別名でしょ。崩落するかもしれんけど、すべてを貫通する横穴、日本の容(かたち)を明らかにする通奏低音が必要だ。それはたぶん、「もっとはっきり野田個人を経由する」ことで明確になるんじゃない。

 カメラ、VR、目は「騙される」。しかし、芝居を観終わった観客はほぼ毎回、何事もなかったかのようににこやかに行われるカーテンコールの後ろに、さっきまで板の上に渦巻いていた情念を見る。「雲散霧消感」って、VRだけじゃないよね。

 アリス(多部未華子)とアリスの母(松たか子)、脱兎(高橋一生)とその映像、どれもいい出来だ、だが、いい出来だということが、すこし「どこに穴を掘っても素晴らしい作家」への不信感を生む。舞台の骨組みは三里塚だけでなくフクシマの災害をかすめるように感じられ、話が着地する前の展開は、ほんとに(置いて行かれちゃった)と思わせるほどわけがわからない。シャイロック・ホームズの大鶴佐助の躰がびしびし切れ、逸脱しようとする大倉孝二がいい。あとのひと、行儀良すぎです。