シアタートラム シス・カンパニー公演 『いつぞやは』

さりげなく、とてもさりげなく客席を巻き込んで芝居は始まり、大きな無機的なパネルに囲まれ、グレーの机にグレーの椅子が置かれたその場所は、「稽古場」であり、「青森」であり、「東京」であり、また「舞台」「劇場」である。「宇宙」であり胸の裡である。脚本家松坂(橋本淳)が独白するうちに、上り段に18人もの若い者が座って話を聞いており、いつの間にか消える。演劇における死者——志半ばであきらめたもの、芽の出なかったもの―が、そこにはひときわ黝い線で描かれ、その残像が刻々と「劇」の残りの時間を埋めるのだ。空間は何度も何度も色を変え象をかえ小さくなり大きくなる。机はただの机だったり、スーパーのカートだったりするのだが、だんだんに、「生き残るための舟」に見えてくる。

 癌になって死にかけている演劇をかつてやっていた男、一戸(平原テツ)は、二重の死を迎えようとしている。演劇を選んだために金もなく、有力な伝手もなく、土壇場で「劇をする」ことをとったので化学治療もやめてしまう。かつての仲間に自分の病状を説明する一戸は、遠慮がちで、笑いを含み、相手にダメージを与えないように気を遣う。平原は準備期間が短かったことなど全く顧慮させない。一戸の心象が「外」へ漏れ出てくる青森のシーンは悲惨だ。(開演50分後に現れ、一戸のそばにいてくれた同級生の真奈美(鈴木杏)のおかげで悲惨さはやわらげられる。)自分のことを芝居にしてほしいという一戸の言葉を聞き届ける形で「舞台」は華麗な変幻する空間の中、成立する。

 けどさ、なんかひっかかっちゃったよねー。演劇の舟で生き残る人——なによりも根拠のない自信があり、しっかり舟端をつかみ、結果的に才と縁と運に恵まれたものに、「それ」は語れる?しっかり舟につかまってられたっていうの、偶然なんだろか。「それ」は船の上の者を見つめ返しているよねー。そのまなざしが、弱くない?