国立劇場 初代国立劇場さよなら公演六月歌舞伎鑑賞教室 『日本振袖始 一幕 八岐大蛇と素戔嗚尊』

 30年以上前、歌舞伎を研修で観にいった家族は、いまでもいうのだ、「団十郎って、さすが市川宗家なんだよな、りっぱなもんだった」。それからしょっちゅう歌舞伎観てるかっていえばそんなことないけど、「りっぱだった」って絶対言う。「若い時に一回歌舞伎に行く」って、大変なことだなって思うのだ。

 今日は『歌舞伎鑑賞教室』、劇場の前に、30人、50人と若い人がかたまりで立っていて、雨の中嬉しそうにきゃあきゃあ言っている。開場して、席に着いてから見ると、一面若い人である。『歌舞伎』ってどういうイメージなのか、皆精いっぱいおしゃれをしている。水色やスモーキーな茶という通な感じのカラーリングをした髪を、すこしムースで立たせたり、きれいに結ったり、スーツを着ている子、一番大事なライダースジャケットを着ている子と、色とりどりだ。はしゃいでいて、若くて、細くて、第一部の始まり(かっこいい音楽と、かっこいい舞台の機構)もわーいと受けていて、素直で、なんていうか…まっしろの「ねり消しゴム」のようである。

 解説は、今日二部で素戔嗚尊を演じる中村虎之介と、それより若い中村祥馬で、虎之介が慣れた感じにさっさっさっと進めてゆく。中村祥馬はまだぎこちなく、台本通りだ。もっと何気ない呼吸でやれなきゃダメ。「見得」の説明で、虎之介は「一回首を回して右」と、きっと決まって見せていたけれど、首どっちに回すか、目線はどこか、うるさく細かくやって、この観客たちが持ち帰り、一生歌舞伎と言ったら見得が切れるようにしてやるのはどうか。

 だってさー、この子達、二幕で緊張が切れて、寝ちゃうんだよー。

 えー?

 中村鶴松の嫋嫋としたきれいな稲田姫が出て、扇雀の怖い岩長姫がでて、白いおしろいが空間に映えて、輝くような素戔嗚尊の虎之介が出てるのにー。

 この消しゴムの子たち、寝るなと言われたら素直に寝ないような気もする。可塑性がすごいのだ。15列より前が、いきなり稲刈り終わった田んぼみたいに見通しよくなる。堂々と寝るなー。すまなそうに寝ろー。歌舞伎があんまり異空間だから、「生身の人間がやっている」って忘れがちだよね。それにこの子達は完全電脳だし。生まれた時からネット社会だ。送り手の工夫が必要。

 今日は「竹本連中」の三味線の鳴りがぜんぜんいまひとつだった。「大薩摩」といって、右足を高台(合引っていうんだって)にかけ、三味線を「プレイ」するとこ、すごく迫力あった。語る人も迫力。

 鶴松も扇雀もこの環境できっちりやっていて、集中がしっかりしている。特に八つの甕でお酒を飲むところ、酒がだんだんに、岩長姫の口からの距離が狭まって感じられる。次第に首が伸び、岩長姫が、「変化(へんげ)の者」に変わっていくようだった。金の鱗形の衣装の八岐大蛇は、付き従う「変化の者」で表現され、高棚にぎっしり並み居るすがたや、高低の違いをつけて一匹の大蛇を表すとこが、怖いけどユーモラス。江戸時代。立ち回りが激しくなって、若い観客もはっとしたように舞台に注目する。中腰になってくるくる回るとこ、扇雀ちょこっと遅いよ。虎之介は迫力だけど、一部の捕り手と絡むとこで一回、二部の最後の立ち回りで一回、腰が不安定になってぐらついていた。だめだよ、鍛えてないとね。450円で台本が売っていた、これ、歌舞伎座でも売ればいいのにねー。